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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区三番町2

千鳥ヶ淵戦没者墓苑
Chidorigafuchi National Cemetery



 ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年(1959)3月28日、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

 ここに納められている御遺骨は、昭和28年(1953)以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。


                                             六角堂

 <納骨室について>

 御遺骨は、六角堂の中央に置かれた陶棺の下の地下納骨室及び平成3年(1991)3月及び平成12年(2000)3月に増設された六角堂奥正面の地下納骨室に安置されております。

 <陶棺について>

 陶棺は、型式をわが国古代豪族の棺に模したもので、主要戦域から収集した小石を材料とし、1700度の高熱で処理した、重量5tの世界最大級の陶製品です。この中に、昭和天皇御下賜の金銅製茶壷形の納骨壺があり、戦没者を代表する御遺骨が納められています。

        厚生労働省・環境省


                                               陶棺

 太平洋戦争における海外戦没者総数  2,400,000人


所在地 千代田区三番町2 (千鳥ヶ淵戦没者墓苑)


  < 御製の碑 > 

いくさなきよを

 あゆみきて

   あもひいづ

 かのかたきひを

 いきしひとびと


この碑は終戦60周年を迎えるにあたり、新春「歌会始の儀」で詠まれた今上陛下の御製を、常陸宮妃殿下が謹書され、平成17年(2005)9月27日竣工したものです。

Poem by His majesty the Emperor.
"Having walked through times when there was no such great war,My thoughts go out to the people who had lived through those days of cruel hardship."



  < 御製の碑 >

 くにのため

  いのちささげし

 ひとびとの

  ことをおもへば

 むねせまりくる


この碑は墓苑創建の年の秋、昭和天皇陛下から下腸された御製を秩父宮妃殿下が謹書され、昭和35年(1960)3月28日に竣工したものです。

Poem of showa Emperor for the Tomb.
"Whenever We ponder on those who dedicated their lives for the cause of our nation,Our heart ache with deep emotion."


所在地 千代田区三番町2 (千鳥ヶ淵戦没者墓苑)

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑の森林は、近代造園学の父とよばれた田村剛博士の設計により、都心における洗心・安息を旨とした単純・質素を理念とし、昭和34年(1959)に新たに造営されたものです。


                                     創設当時

 当時は、約5,000坪(約1.6ha)の敷地に、シイやケヤキなどの高木13種、ツバキなどの灌11木種の合計1,800本が植えられましたが、その後の寄進や植樹、実生による自然繁殖などにより、現在では約4,000本に達しています。

 植樹後約半世紀を経ることで、主に武蔵野の樹木を用いた植栽当初の樹木も大きく育ち、常緑樹を中心とした静寂、荘厳な森を形成しています。なかには、幹周りが二人がかりで手がつながるほどに大きくなった樹木(幹周250cm前後)も数多くみられます。


                                              現在


 武蔵野の林とは、太古の昔には、関東平野の沿岸部の台地を広く被っていたカシとシイの混生した照葉樹林(葉がつやつやした常緑樹の林)で、林床にはヤブツバキやヒサカキ、アオキなどが茂った鬱蒼とした森林であったと考えられています。
 しかし、武蔵野の開墾が進み、里山として利用されることで成立したケヤキ、コナラ、クヌギ等の落葉樹を主体としたいわゆる雑木琳もまた、武蔵野の森の代名詞となっています。

 苑内では、こうした武蔵野を象徴するケヤキやシイが大きく成長して、聖域の静寂、荘厳さを高めると共に、野鳥をはじめとする動植物の豊かな生息環境として、貴重な緑となっています。
 また、千鳥ヶ淵の森林は、皇居の森林と一体となり都市のヒートアイランド防止効果や、二酸化炭素吸収による地球温暖化の防止など、高度に市街化した都心にあって、都市の緑として大きな役割をあわせ持っています。                                       


所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

 この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集結して大きくなる。
 やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代・八千代年を過ぎてさざれ石巖となりて苔のむす、その景観誠に目出度い石である。
 全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく知ることができる。

   春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。
 



 さきに昭和37年(1962) 文部省の中庭に贈られた「さざれ石」の木札に記された通り この「さざれ石」は岐阜県揖斐川町出身の故小林宗閉氏によって世に広められた。
 昭和56年(1981)6月17日 小林文治 奉納





所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

千代田区指定有形民俗文化財 平成12年(2000)4月指定

 日枝神社の境内社、山王稲荷神社の本殿と、八坂神社(やさかじんじゃ)猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)両社を合
祀した本殿の前に、一対の石製狛犬があります。幅55cmほど、高さは70cmほど、台座部分を含めても大人の背くらいの高さです。
 像の台座には「奉献ほうけん」「文政三庚辰かのえたつ年六月吉日」「南伝馬町三町目」「家主中」などと陰刻の銘文があり、向かって右側の像には「植草重左衛門(じゅうざえもん)」ほか10名と「地形方抱
(ちぎょうがたかかえ)三右衛門」 「石工(いしく) 新川勘兵衛」などの名前が、また同様に向かって左側の像には「亀田左兵衛(さひょうえ)」ほか11名の名前が見られます。この他に左側の像の中段台石外側の側面には「明治三十四年九月 自神田神社境内移之 南伝馬町三ヶ町」などと年代の異なる銘文も刻まれています。



 以上のことから、この狛犬はもともと文政3年(1820)に、当時神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものであることがわかります。しかしその後、明暦18年(1885)2月13日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿その他が焼失した後、南伝馬町の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を勧請しました。その時点では、おそらくこの狛犬は未だ神田神社境内に現存していたのであり、16年後の明治34年(1901)に石製燈籠などその他の南伝馬町天王社に由来する旧来の石造物とともに日枝神社境内に移転、再設置されたと思われます。
 この狛犬は、千代田区内に現存する狛犬としては、すでに文化財指定した2例[平河天満宮(ひらかわてんまんぐう)狛犬=享和元年(1801)、再建嘉永5年(1852)] [築土神社(つくどじんじゃ)狛犬=安永9年(1780)]と同様、江戸時代の銘文をもつものであり、区内においては貴重な文化財です。そして、江戸時代から明治時代にかけての人々の信仰の一端、特に日枝神社及びその境内社である八坂神社と神社周辺の人々や南伝馬町の人々との関わりを、私たちに語りかけてくれているのです。
  平成13年(2001)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2-10-5 
               (山王台又は星が岡の古称がある。)



  <御祭神>

主祭神   大山咋神(おほやまくひのかみ)

相殿神   国常立神(くにのとこたちのかみ)

       伊弉冉神(いざなみのかみ)

       足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

  < 例祭 >

 6月15日(10日から16日まで祭典行事多彩)



 御祭神の大山咋神(おほやまくひのかみ)は近江国(今の滋賀県)の日枝山(ひえのやま)(仏語で比叡山)に鎮り、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神であり、大年神(おおとしがみ)の子神であり、御年神と大國御魂神の兄弟神である。

 古事記に『亦の名は山末之大主神。此神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑(なりかぶら)を用うる神也』とある。山城国風土記によれば、「丹塗りの矢(にぬりのや)」とされております。この丹塗天は、また破魔矢(はまや)ともいわれ、厄除け、魔除けのほか、縁結び、子授けにもご利益があります。大山咋神(おおやまくひのかみ)は山・水(咋)を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う広大な御神徳は、山王の尊称に即して、比類のない人類の生命を司り給うこと如実である。



 江戸山王の始元は遥に鎌倉初期、秩父重継氏(江戸貫主を名乗る)の流れ重継は江戸太郎を名乗り、その館の中に日吉の大神(ひえのおおかみ)を勧請した。古記社伝によれば、文明10年(1478)足利の宰相太田道潅公が江戸の地を相して築城するにあたり、守護神として川越の山王社から勧請した。やがて天正18年(1590)徳川家康公江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として、此の城祠(江戸城内の紅葉山)に国家鎮護の基を定めた。3代将軍徳川家光は、一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座朱印地を600石に加増、やがて万治2年(1659)、振袖火事のため、4代将軍徳川家綱は、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉る大志をいだき、永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡(現在地)に結構善美を尽した権現造り社殿を造営した。歴代の将軍、世子の社参絶えることなく、都度、神馬、太刀(国宝)等を献じた(宝仏殿に出陳中)。明治元年(1868)東京奠都にあたり勅使奉幣の上、勅祭神社に准ぜられ、明治15年(1882) 官幣中社に更に大正14年(1925)官幣大社に列せられた。

 

万治2年(1659)造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)5月に戦禍に遭い焼失した。戦後の神社神道は、大変革を余儀なくされ、混沌たる社会情勢の中で、復興事業は困難を極めたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画された。昭和33年(1958)6月本殿遷座祭齋行、引続き神門、廻廊、参集殿等が逐次完成、更に本社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、全都をあげて之を慶賀し、昭和42年(1967)6月奉祝祭が先づ齋行されこの間、昭和33年(1958)6月現社地御鎮座300年祭が執行された。昭和52年(1977)7月江戸城内御鎮座500年奉賛会が結成され、500年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物収蔵庫」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が計画されて着々実施され、昭和53年(1978)6月15日の吉辰をトし500年大祭が厳粛に行われ、更に昭和54年(1979)6月13日、宝物収蔵庫の建設という有終の功竣つて、日枝神社御鎮座500年奉賛会事業達成感謝奉告祭を極めて意義深く執行し、朝野多数の御参列を賜りました。



 日枝神社の山王祭りは神田祭りと共に天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。明治維新、遷都により江戸城は明治天皇 皇居(宮城)となり日枝神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。
 現在も隔年に執り行われる6月の山王祭り「神幸祭」は氏子各町内(72ヶ町)を巡幸し、古式ゆかしく盛大に行われています。(平成は偶数年)



 < 氏子崇敬区域 >

 皇居を中心に外濠の内側、千代田中央・両区を中心に、永田町霞ヶ関平河町隼町麹町紀尾井町番町九段四谷大手町丸の内有楽町内幸町八重洲日本橋日本橋兜町日本橋茅場町京橋銀座八丁堀新橋等、首都東京の中心を占める。

     日枝神社



所在地 千代田区麹町3

 この坂を善国寺坂といいます。『新撰東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政10年(1798)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下のあたりは善国寺谷、また、鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。

 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田小川町3丁目

 この坂を富士見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台南甲賀町の内、袋町に通づる筋より南へ、猿楽町1丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地にはあらざるも、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか」とかかれています。富士見坂という名の坂は千代田区だけでも三ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町2丁目の間にあります。

 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この元アークライト灯は、開園当時の公園灯で、園内には10基設置され、1200燭光の明るさがあったといわれます。これ以外はガス灯70基が設置されていました。
 右手にある水飲み場と同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっており、両方とも明治の記念物として1基づつ園内に残っています。



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

    鴎かもめ

うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻。
     1986 作者 淀井敏夫


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 昭和40年(1965)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原さいとばる古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体を東京都に贈られました。
 宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ  たくさんの古墳がありますが  その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で  第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園のなかにあります。
  昭和40年(1965)8月21日
           宮崎県知事 黒木博


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 東洋の偉人 ホセ・リサール博士 記念碑

フィリピンの国民的英雄 ホセ・リサール博士

1888年この地 東京ホテルに滞在す

      1961年6月19日 建立


       DR.JOSE RIZAL
NATIONAL HERO OF THE PHILIPPINES
               STAYED IN 1888
             AT TOKYO HOTEL
         LOCATED AT THIS SITE
                            UNVEILED JUNE 19,1961



     社団法人 日本リサール協会(RIZAL SOCIETY OF JAPAN)
       東龍太郎
       神保信彦
       木村毅

     比国駐日大使
       マヌエル・アデバ


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 自由の鐘は1776年米国の独立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。しかし、この鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての国とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米国民間の匿名有志はその複製を連合軍総司令官リッジウェイ大将に託し、これを広く日本国民に贈りたいと申出た。よってリッジウェイ大将は自由の擁護者たる新聞を通じ広く日本国民に贈ることが最も寄附の趣旨に副うものとして昭和27年(1952)4月日本新聞協会に寄贈された。日本新聞協会には日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し広く国民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
  昭和27年(1952)10月 社団法人日本新聞協会



DEDICATED TO YOU,A FREE CITIZEN IN A FREE LAND

THIS REPRODUCTION OF THE FAMOUS LIBERTY BELL IN INDEPENDENCE HALL,PHILADELPHIA,WAS PRESENTED TO THE PEOPLE OF JAPAN BY A GROUP OF AMERICAN COMPANIES AT THE SUGGESTION OFGENERAL DOUGLAS MacARTHUR.THIS PRESENTATION WAS ARRANGED BY THE HONORABLE JOHN W.SNYDER,SECRETARY OF THE UNITED STATES TREASURY.

THE DIMENSIONS AND TONE ARE IDENTICAL WITH THOSE OF THE ORIGINAL LIBERTY BELL WHEN IT RANG OUT THE INDEPENDENCE OF AMERICA IN 1776,BECOMING THEREBY A SYMBOL OF FREEDOM TO NOT ONLY AMERICANS BUT ALL MANKIND.

IN STANDING BEFORE THIS SYMBOL,YOU HAVE THE OPPORTUNITY TO DEDICATE YOURSELF,AS DID THE FOUNDING FATHERS OF THE UNITED STATES,TO THE PRINCIPLES OF FREEDOM WHICH YOU SHRE WITH FREE CITIZENS EVERYWHERE.



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点脇)にあったものです。
 明治32年(1899)頃、道路拡張の為、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた、日比谷公園生みの親、本多静六ほんだせいろく博士が東京市参事会の星享ほしとおる議長に面会を求め、博士の進言により移植されました。
 移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行された木なので、この呼び名があります。



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
 素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。



所在地 千代田区有楽町1-13-1

東京都選定歴史的建造物
 
DNタワー21(旧第一生命館)


設計者  渡邊仁・松本與作
建築年  昭和13年(1938)

 アメリカ極東空軍司令部(GHQ)跡

 皇居のお堀端に臨んで建つこの建物は、古典的骨格をもちながら、装飾を拝し、稲田産花崗岩による重量感のある壁体で構成されている。建物の意匠は洋式建築の名手と言われた渡邊仁の作品で、無表情ともとれる表現の中に力強さを感じさせる。
 技術的には我が国最初の潜函せんかん工法で地下4階まで掘り下げられ、都市防空の上でも十分爆撃に耐える建築と言われた。戦争中は屋上に高射砲陣地が築かれ、戦後は連合国総司令部(GHQ)がおかれ、マッカーサー総司令官の執務室が残されるなど、日本の昭和史を彩る建物とも言える。
 東南側に隣接していた農林中央金庫旧有楽町ビル(渡邊仁設計による古典様式建築)とあわせ、皇居側の形態保存、さらに農林中央金庫側の外壁保存を伴って、歴史的建築物保存による特定街区の適用を受け、DNタワー21として再生された。
              東京都


所在地 千代田区皇居外苑3 (和田倉噴水公園)

大噴水建設記念碑


< 建設委員会 >

     会長   吉田茂
     副会長  水野成夫
     副会長  小山龍三
     理事長  友田信
     理事   澤村義夫
     理事   鹿内信隆
     理事   鈴木宇市
     監事   弘中伝二
     監事   田中富彌

     委員

安倍能成  安藤豊禄  浅尾新甫  天野貞祐
市川猿之助  一万田尚登  稲垣平太郎  石坂泰三
植村甲午郎  小田原大造  小島新一  大濱信泉
太田垣士郎  岡崎真一  加藤五郎  金子鋭
神部満之助  茅誠司  川端康成  河上丈太郎
河田重  倉田主税  小池厚之助  小泉信三
小林中  小林米三  佐々部晩穂  佐藤篤二郎
坂西志保  櫻田武  澁澤敬三  菅禮之助
杉道助  鈴木清秀  田村剛  竹田恒徳
辰野隆  中野種一郎  永野重雄  丹羽文雄
廣瀬一  本田弘敏  前田久吉  松原與三松
武者小路實篤  矢野一郎  吉川英治  渡邊武次郎



     協賛

産経新聞社
中部日本新聞社  ニッポン放送
西日本新聞社  関西テレビ放送
大阪新聞社  ラジオ大阪
フジテレビ  東京タワー
文化放送


     大口寄付者 団体並びに会社

日本石炭協会  日本鉱業協会  日本瓦斯協会
電気事業連合会  石油連盟  日本鉄鋼連盟
日本産業機械工業界  日本電機工業界  自動車工業界
日本造船工業会  日本硫安工業協会  東京医薬品工業協会
セメント協会  日本紡績協会  日本化学繊維協会
日本ゴム工業界  日本精糖工業会  酒協会
紙パルプ連合会  日本映画製作者連盟  私鉄経営者協会
都市銀行十五行  全国地方銀行協会  信託協会
生命保険協会  日本損害保険協会  日本貿易会
日本百貨店協会  電力建設協力会  土木工業協会
東京瓦斯株式会社  大阪瓦斯株式会社  北海道電力株式会社
東北電力株式会社  東京電力株式会社  中部電力株式会社
北陸電力株式会社  関西電力株式会社  中国電力株式会社
四国電力株式会社  九州電力株式会社  八幡製鉄株式会社
富士製鉄株式会社  日本鋼管株式会社  川崎製鉄株式会社
住友金属工業株式会社  株式会社神戸製鋼所  
日新製鋼株式会社  久保田鉄工株式会社  
株式会社日立製作所  東京芝浦電気株式会社
松下電器産業株式会社  三菱電機株式会社
富士電機製造株式会社  富士通信機製造株式会社
日立造船株式会社  東京証券取引所  山一証券株式会社
野村証券株式会社  日興証券株式会社  大和証券株式会社
三菱地所株式会社  日清製粉株式会社  株式会社間組
株式会社パレスホテル  船橋ヘルスセンター  産経新聞社
中部日本新聞社  西日本新聞社  大阪新聞社
フジテレビ  文化放送  ニッポン放送  文化放送
ニッポン放送  関西テレビ放送  東京タワー


     個人

吉田茂  池田勇人  神部満之助  川村正人
村山正治  伊達園江  今井小静  朝潮太郎


昭和三十六年四月十日刻之 霞畦書


所在地 千代田区神田小川町

   「前垂会(まえだれかい)」のいわれ

 今から100年程度前の明治34年に、東京下町の神田に、町の発展を願って結成された商店主の集りがありました。それが東京で一番古い商店街といわれている「前垂会(まえだれかい)」です。

 名の由来は「前垂れを諦めて身を正 商人の基本である頭をたれて、誠実・親切・謙虚をモットーに商売に励げもう」という心根を忘れないためにつけられました。

 時の流れを経たいま、「前垂会(まえだれかい)」の私達は昔の商人魂を忘れず、ますます一致団結して、これからも東京一歴史のある商店街として発展してゆきたいと思っています。ここに当会の100周年と江戸開府400年を記念し、世界の平和を祈りつつ「平和の鐘」を建立しました。

  平成15年(2003)3月施工


所在地 千代田区神田錦町2-9

 弘化4年(1847)京都御所の日御門前に公家の学習所として設立された「学習院」は, 明治10年(1877)華族学校「学習院」としてこの地に創立されました。
 同年10月17日に明治天皇, 皇后両陛下をお迎えして開業式がおこなわれました。
 現在、学習院は、豊島区目白に大学、高等科、中等科、幼稚園、新宿区戸山に女子大学、女子高等科、女子中等科、新宿区若葉(四谷)に初等科の各学校を設置しております。
 この碑は、学習院創立125周年記念事業として、学習院の同窓会である桜友会の寄贈により建立したものです。

  平成14年(2002)10月  学校法人 学習院


所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

 江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた5代将軍徳川綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりと称して創建された。
 桂昌院は、京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、3代将軍徳川家光公の側室となり、5代将軍徳川家綱吉公のご生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
 後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祠される様になり、明治2年(1869)現在の柳森神社に合祠されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。
 なお当社において頒与する、”おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。


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