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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区三番町

 この坂を御厩谷坂(おんまやだにさか)といいます。『新撰東京名所図絵』には「一番町と六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り此名あり。」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。

  平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会
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所在地 千代田区三番町24

  東京都指定旧跡 大正7年(1918)4月指定
 
 塙検校(はなわけんぎょう)(1764~1821)は江戸時代の国学者。幼名寅之助のち保己一(ほきのいち)と改名。武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼くして失明したが、江戸に出て賀茂真淵らに国学を学ぶ。和漢の学に通暁し、天明3年(1783)検校、文政4年(1821)に総検校となる。

 この間、寛政5年(1793)江戸麹町に和学講談所を設立し、講義・会読のほか京都・名古屋などにも史料を採訪して「群書類従」「武家名目抄稿」「史料」などの編纂事業を行なった。これらの編纂は明治以後の国史・国文学研究に大きな影響を及ぼした。

  昭和52年(1977)3月31日 東京都教育委員会



所在地 千代田区三番町2

千鳥ヶ淵戦没者墓苑
Chidorigafuchi National Cemetery



 ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年(1959)3月28日、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

 ここに納められている御遺骨は、昭和28年(1953)以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。


                                             六角堂

 <納骨室について>

 御遺骨は、六角堂の中央に置かれた陶棺の下の地下納骨室及び平成3年(1991)3月及び平成12年(2000)3月に増設された六角堂奥正面の地下納骨室に安置されております。

 <陶棺について>

 陶棺は、型式をわが国古代豪族の棺に模したもので、主要戦域から収集した小石を材料とし、1700度の高熱で処理した、重量5tの世界最大級の陶製品です。この中に、昭和天皇御下賜の金銅製茶壷形の納骨壺があり、戦没者を代表する御遺骨が納められています。

        厚生労働省・環境省


                                               陶棺

 太平洋戦争における海外戦没者総数  2,400,000人


所在地 千代田区三番町2 (千鳥ヶ淵戦没者墓苑)


  < 御製の碑 > 

いくさなきよを

 あゆみきて

   あもひいづ

 かのかたきひを

 いきしひとびと


この碑は終戦60周年を迎えるにあたり、新春「歌会始の儀」で詠まれた今上陛下の御製を、常陸宮妃殿下が謹書され、平成17年(2005)9月27日竣工したものです。

Poem by His majesty the Emperor.
"Having walked through times when there was no such great war,My thoughts go out to the people who had lived through those days of cruel hardship."



  < 御製の碑 >

 くにのため

  いのちささげし

 ひとびとの

  ことをおもへば

 むねせまりくる


この碑は墓苑創建の年の秋、昭和天皇陛下から下腸された御製を秩父宮妃殿下が謹書され、昭和35年(1960)3月28日に竣工したものです。

Poem of showa Emperor for the Tomb.
"Whenever We ponder on those who dedicated their lives for the cause of our nation,Our heart ache with deep emotion."


所在地 千代田区三番町2 (千鳥ヶ淵戦没者墓苑)

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑の森林は、近代造園学の父とよばれた田村剛博士の設計により、都心における洗心・安息を旨とした単純・質素を理念とし、昭和34年(1959)に新たに造営されたものです。


                                     創設当時

 当時は、約5,000坪(約1.6ha)の敷地に、シイやケヤキなどの高木13種、ツバキなどの灌11木種の合計1,800本が植えられましたが、その後の寄進や植樹、実生による自然繁殖などにより、現在では約4,000本に達しています。

 植樹後約半世紀を経ることで、主に武蔵野の樹木を用いた植栽当初の樹木も大きく育ち、常緑樹を中心とした静寂、荘厳な森を形成しています。なかには、幹周りが二人がかりで手がつながるほどに大きくなった樹木(幹周250cm前後)も数多くみられます。


                                              現在


 武蔵野の林とは、太古の昔には、関東平野の沿岸部の台地を広く被っていたカシとシイの混生した照葉樹林(葉がつやつやした常緑樹の林)で、林床にはヤブツバキやヒサカキ、アオキなどが茂った鬱蒼とした森林であったと考えられています。
 しかし、武蔵野の開墾が進み、里山として利用されることで成立したケヤキ、コナラ、クヌギ等の落葉樹を主体としたいわゆる雑木琳もまた、武蔵野の森の代名詞となっています。

 苑内では、こうした武蔵野を象徴するケヤキやシイが大きく成長して、聖域の静寂、荘厳さを高めると共に、野鳥をはじめとする動植物の豊かな生息環境として、貴重な緑となっています。
 また、千鳥ヶ淵の森林は、皇居の森林と一体となり都市のヒートアイランド防止効果や、二酸化炭素吸収による地球温暖化の防止など、高度に市街化した都心にあって、都市の緑として大きな役割をあわせ持っています。                                       


所在地 千代田区三番町2 九段南2

  この坂を鍋割坂といいいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同名の坂があります。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三番町12 (大妻女子大学・短大)

 標識の後ろ側、大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高500石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また。佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三番町18

 当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年(1929)7月最下段の部分が開園された。
 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年(1938)11月東郷元帥記念公園として開園した。
 公園内には『力石』があります。



 東郷平八郎元帥
 元帥は弘化4年(1847)薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
 この地には明治14年(1881)より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年(1934)88歳の生涯を閉じる。



所在地 千代田区三番町18 (東郷元帥記念公園)

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多いとされています。
 また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようです。(疫病は道を伝わって来るとしんじられていました。)
 公園内にある「力石」の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
 なお、本力石の表面には、「五拾七貫目」(約213.75キログラム)との銘文がありますが、実際に計量したところ、146.4キログラム(約39貫目)でした。
 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三番町7

 串田孫一旧居跡
哲学者・串田孫一(1915~2005)は人生、山、植物などのテーマでエッセイなどを残した。昭和13年(1938)から数年間ここに住んだ。
Kushida(1915-2005),philosopher and writer,known for his essays on the meanings of life,mountains and plants,lived here for several years from 1938.







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