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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田神保町2-20 (愛全公園)

周恩来ここに学ぶ-東亜高等予備学校跡-

 日中両国の人々が敬愛する周恩来総理は、1898年3月5日江蘇省淮安に生まれました。周総理は1917年(大正6年)に19歳で日本に留学。この地(当時はかんだ区中猿楽町)にあった東亜高等予備学校(創立者・初代校長=松本亀次郎)で日本語を学び、大学進学の指導を受けました。そのころ、日本政府の対中国政策に反対した松本亀次郎校長の心請にも影響を受け、1919年(大正8年)には帰国して天津の南関大学に学び、新中国の建設に身を投じました。
 
周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年にあたり、東亜高等予備学校の跡地であるこの場所に、周恩来が学んだことを示す記念碑を、千代田区の歴史の一コマとして建立します。日中友好の気持ちをこめて・・・・・・。
  
千代田区日中友好協会



所在地 千代田区神田神保町3-8 (専修大学)

   専修大学発祥のいわれ
 専修大学の創立者は相馬永胤 田尻稲次郎 目賀田種太郎 駒井重格先生達である これら先覚者は明治の初め選ばれて米国に留学し新しい学問や文化を学んだ 帰国後その成果を日本の青年に与えて有為な人材を育成することこそ社会に対する報恩承仕事であると考え明治13年(1880)9月16日東京市京橋区木挽町2丁目14番地に経済及び法律の専修学校を発足させた 以来報恩承仕は専修大学の建学の精神であり質実剛健 誠実決行は学風である その後校舎は明治13年(1880)11月神田区中猿楽町4番地に明治18年(1885)7月にはここ同区今川小路2丁目8番地へ発展的に移転し現在に至った
 専修大学創立百年にあたり記念としてこの碑を建てる

 昭和54年(1979)5月 専修大学 揮毫飯島春敬



所在地 千代田区神田神保町2-10 

舌代
此お地蔵様は京都熊野郡久美浜町字古神谷の本願寺より明治四十三の秋東洋幼稚園と東洋家政女学校の校長岸辺福雄先生がお寺に■願の上譲り受け当地■■いて来られたのであります 
年々の供要は湯島の霊雲寺の住職に依てお祭りを■■毎日■■されました作者は不明ですが鎌倉時代のものと申されて居ります
大正十二年の大震災で十数個はこわれましたのをつぎ合わせました 岸辺先生はカバン地蔵と名付ましたが誰云ふとなく身代り地蔵子育地蔵とか火消し地蔵と申されて居ります 区割整理の為当町でお守する事になり大震災大東亜戦又は事故死その他各位の方々の霊をおまつりし 年々供要を兼ねお祭りをし愛全地蔵と霊雲寺の和尚さんは名付て裁き■■皇太子御成婚記念としお堂新築■したのであります 
昭和三十四年四月吉日 愛全地蔵講



所在地 千代田区神田神保町3-10 

 専修大学の黒門
専修大学の前身である「専修学校」は、明治13年(1880)京橋区木挽町(現在の中央区銀座3丁目)に誕生し、明治18年(1885)7月神田区今川小路2丁目8番地(現在の神田神保町3丁目8番地)に移転し新校舎を設置しました。



 この当時の正門が黒渋で塗られた冠木門であったことから、「専修学校」の愛称として黒門とよばれたものでありました。黒門は明治40年(1907)の校舎改築により姿を消すこととなりますが、その名称は現在の専修大学の象徴として生き続けています。
専修大学創立130年にあたり専修大学育友会のご厚意によりここに102年の時を経て黒門が復元しました。
 平成22年(2010)3月吉日 学校法人専修大学


 相馬永胤
そうまながたね
  1850年(嘉永3年)~1924年(大正13年)
彦根藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
途中、学費調達のため一時帰国。コロンビア大学卒業後、イェール大学大学院で法律学、経済学を学ぶ。
専修学校を創立。初代校長、初代学長を歴任。『米国紐育州訴訟法』などを著し、法律科の講義を担当。この間、司法省附属代言人、判事、横浜正金銀行取締役、同頭取などを歴任。第1回衆議院議員選挙にも当選。


 田尻稲次郎たじりいなじろう
  1850年(嘉永3年)~1923年(大正12年)
薩摩藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
イェール大学卒業後、同大学院で経済学、財政学を学ぶ。
専修学校を創立。英国マクラウド原著『銀行史』などを著し、経済科の講義を担当。専修学校で教鞭をとるかたわら、東京大学講師となり理財学を講義。
大蔵省銀行局長、大蔵省主税局長、大蔵次官、大蔵総務長官、会計検査院長、京市長などを務めた。法学博士。


 駒井重格こまいしげただ
  1853年(嘉永6年)~1901年(明治34年)
桑名藩士の家に生まれる。1874年から1879年まで旧桑名藩主・松平定教に随従し、アメリカに留学。ラトガース大学で経済学を学ぶ。1879年帰国。
専修学校を創立。英国グーシェン原著『外国為換論』などを著し、経済科の講義を担当。大蔵省准奏任御用掛となり、大蔵省参事官、大蔵省国債局長などを歴任。高等商業学校(一橋大学の前身)校長を務め、名校長として慕われた。


 目賀田種太郎めがたたねたろう
  1853年(嘉永6年)~1926年(大正15年)
幕臣の家に生まれる。1870年から1874年までアメリカに留学。
ハーバード大学卒業。1875年留学生監督として再渡米、1879年帰国。
専修学校を創立。『私訴犯法』などを著し、法律科の講義を担当。
司法省附属代言人、判事、大蔵少書記官、大蔵省主悦官、横浜税関長、韓国政府財政顧問、枢密顧問官も務めた。


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