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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区一ツ橋1-1先

  江戸城築城550年に当たって
 「太田道灌公 追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550年に当たります。
 この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。

 太田道灌(1432~1486)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の築謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
 千代田区観光協会(協力)

七重八重 
 花は咲けども 
      山吹の 
 実のひとつだに
   なきぞかなしき

 平成19年(2007)9月25日  千代田区


【碑文】

  
太田道灌公追慕之碑
寛正5年春江戸ノ城将太田道灌公参朝ノ際居城ニ就キ 勅問ニ奉答ノ歌ニ我庵は松原ツツキ海ちかく■高嶺を軒端よそ見るノ一首アリ城川ヲ帯ヒ南ハ海に臨ミ西ハ丘陵起遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ城ニ能ス景勝容害ヲ盡■ヒリ公名ハ持資開来上杉定正ノ重臣々リ幼ニミテ聰邁尊志ニ薦ノ文武ノ道ニ通ジ兵馬ノ技ニフ築城ノ術ニ長セリ長禄元年城ヲ江ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創■爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲテ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望■リ従フ常ニ力ヲ民治ニ效 文事ヲ奨化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ来住シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル文明十八年公ハ讒ヲ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃し々リト■其ノ城池ハ依然トシテ関東第一ハ形勝々リ徳川氏ノ覇府ヲ経テ明治ノ聖代ニ及ヒ畏クモ 皇居ヲ此ニ奠メラし江戸ハ東京ト政稱セラレテ日ニ月ニ殷賑ニ加入令■世界第二ノ大都市トナレリ是レ實ニ端ヲ公ノ築城ニ発シタルモノ 二千吉不朽の功業ナリト謂フヘシ 茲ニ公ノ四百五十年祭テ行フニ方リ碑ヲ■城ヲ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルニ資セントス
 昭和11年(1936)7月26日 東京市長牛塚虎太郎


此ノ石材ハ江戸城虎之門桝形ノ遺材ニシテ道灌公當時ノモノニハアラザルモ因縁深キモノトシテ特ニ本碑材ニ選定スルコト■セリ

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所在地 千代田区一ツ橋 九段南1丁目

 この橋は、雉子(きじ)橋といいます。名称の由来について『御府内備考』に、「見聞集」云、

 「関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらをもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋と名づけたりと」とかかれています。これは初め俗称であったのが橋名となってしまったようです。

 外濠から平河濠につづいていて、江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。

   ”雉子橋でけんもほろほろに叱られる”

 警衛の番士の厳しさとのけんけんと鳴く声をかけた意といわれています。

 旧雉子橋は、この橋より100m程西側に架けられていました。

  平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会

 



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