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東京都千代田区の歴史
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所在地 神田淡路町2丁目 外神田1・2丁目

 昌平橋(しょうへいばし)の架設はきわめて古く、寛永年間(1624~1644)と伝えられています。この橋は、一口橋(いもあらいばし)(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。
 
一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考(ごふないびこう)』にはこの橋について、『筋違いの西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々』とかかれています。
 
すなわち、元禄四年(1691)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名させられました。
 
明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三十二年(1899)再架してまた昌平橋と復しました。
 
現在の橋は、昭和三年(1928)十二月八日に架設されたものです。なお『万世橋・昌平橋をきれいにする会』の働きかけにより、高欄・橋灯が新しく復元されています。
 
平成6年(1994)3月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区神田淡路町2-3 

国指定登録有形文化財(建造物)
 第1KSビル
     平成17年(2005)2月9日指定



所在地 千代田区神田淡路町2

 この坂を新坂といいます。『東京名所図会』には“新坂は維新の後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂紅梅坂の間、阿部主計頭の屋敷にして、此処より駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の練塀を道幅だけ取毀ちて通路を開きたり。ゆえに俗呼んで新坂といえり”とかかれています。維新の後とのみかかれその年月は不明です。
 昭和50年(1975)3月 千代田区


所在地 千代田区神田淡路町

 この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には”新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし、茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし''とかかれています。しかし、延宝(1637~1680)、元禄元年(1688)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。
 昭和51年(1976)3月 千代田区


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永山
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