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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田錦町1-29 (神田橋公園)

 この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。

  平成3年(1991)9月 千代田区

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所在地 千代田区神田錦町3-28 (学士会館)

国指定登録文化財(建造物)
 学士会館
       平成17年(2005)2月9日指定



 東京大学発祥の地

 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥の地である。

 すなわち、明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
 創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられた。
 明治18年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学科が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年(1885)までに本郷への移転を完了した。
 従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
 明治19年(1886)3月東京大学は帝国大学と改称され、その当時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。
 
更に、明治30年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
 爾後明治40年(1907)に東北帝国大学、明治44年(1911)に九州帝国大学、大正7年(1918)に北海道帝国大学、昭和6年(1931)に大阪帝国大学、昭和14年(1939)に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年(1924)に京城帝国大学、昭和3年(1928)に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
 
昭和22年(1947)に至って、上の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。
 
明治19年(1886)7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。
   
平成3年(1991)11月 学士会

所在地 千代田区神田錦町3-28

 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治5年(1872)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843~1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌明治6年(1873)に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本野球の始まり」といわれている。明治9年(1876)初夏い京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。

 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、明治4年(1871)9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、明治10年(1877)7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。

 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。

 平成15年(2003)、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。

 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

  平成15年(2003)12月 (財)野球体育博物館

所在地 千代田区神田錦町1-29 (神田橋公園)

 大正12年(1923)関東大震災の直後、氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であった区画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成った大正15年(1926)春、心身疲労の極、事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶ったのであります。

 昭和6年(1931)復興事業の完成に当り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和30年(1955)春それを修復の上、この地に移設したのであります。

  昭和30年(1955)6月



所在地 千代田区神田錦町2-9

 弘化4年(1847)京都御所の日御門前に公家の学習所として設立された「学習院」は, 明治10年(1877)華族学校「学習院」としてこの地に創立されました。
 同年10月17日に明治天皇, 皇后両陛下をお迎えして開業式がおこなわれました。
 現在、学習院は、豊島区目白に大学、高等科、中等科、幼稚園、新宿区戸山に女子大学、女子高等科、女子中等科、新宿区若葉(四谷)に初等科の各学校を設置しております。
 この碑は、学習院創立125周年記念事業として、学習院の同窓会である桜友会の寄贈により建立したものです。

  平成14年(2002)10月  学校法人 学習院


所在地 千代田区神田錦町2-2 (東京電機大学)

1907年9月1日、電機学校この地に設立さるなる 幾多の有為なる人材を世に送り、その使命を今東京電機大学に託す


          創立者 廣田精一           創立者 扇本眞吉


                             大正時代初期の校舎


                           第一回卒業式の記念写真



所在地 千代田区神田錦町3-2 (千代田印刷会館)

      中西乕之助翁功業顕彰のことば
中西乕之助翁は、慶応2年(1866)京都に生れ、早く印刷業に志し、明治13年(1880)本木昌造氏創業の点林堂印刷所に入社して以来多年斯業に精励し、その進歩発達に日夜意を盡くす。功業まことに顕著なものがあった。今その梗概を回顧すれば、明治24年(1891)若くして京都になかにし英成堂を創業し、石版印刷を起こす。次いで明治27年(1894)ここに印刷業において初めて電動機使用のことを始め、後、更に村井兄弟商会のたばこの外函その他の電機銅凸版法による印刷に成功し、続いて明治32年(1899)海外からアルミニユーム平版印刷機を購入して、アルミ輪轉使用の創始者となる。越えて大正3年(1914)3月神田鎌倉河岸7号地において、神戸の人市田幸四郎氏の協力を得てオフセット印刷合名会社を創立し、初めてアメリカよりハリス式自動オフセット印刷機を輸入して、その操業を見る。ここにわが国における近代オフセット印刷の基幹は、まさに確立せられるに至った。世にこの地を、實にわが国オフセット印刷発祥の地と称せられる。翁は、以来なお一層この業の探求発展に力を注ぎ、その終生を捧げられて、昭和15年(1940)10月13日、行年74歳で惜しくも逝去された。ここに斯界における沖なの往事を偲び、わが国オフセット印刷の開拓者としての多年の功業を顕彰する。
由来、千代田区は、幕府の蕃書調所の活版術創始以来、わが国印刷の歴史に深いゆかりを持つ。このたびこの地に千代田区印刷会館が建設せられるにあたり、近代平版印刷草創のことを思い、先人の功業を敬慕して、永くこの奉を後世に傳えようとするものである。
 昭和46年(1971)6月
 中西乕之助翁顕彰会代表 八十九歳翁従三位勲二等鎌田弥壽治識



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