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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区平河町・紀尾井町

 この坂を諏訪坂(すわざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川宮御門前より赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とかかれています。また、別の名を達磨坂(だるまざか)ともいわれていますが、旧宮邸が紀州藩であり、その表門の柱にダルマににた木目があったため達磨門(だるまもん)とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂(だるまざか)と人々は呼んだそうです。

  昭和50年(1975)3月 千代田区

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所在地 千代田区平河町1-7-5

御祭神 菅原朝臣道眞公(学問の神)

    相殿 誉田別命(八幡宮)
        徳川家康公(東照宮)

 拝殿

摂末社
  平河稲荷神社(商売の神)
  三殿宮    大鳥神社(おとりさん)
           塩神社(生活の神)
            浅間神社(せんげんさん)

 神楽殿

祭事例大祭4月25日
    梅花祭(3月) 夏祭(八月)他、恒例祭



江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
慶長12年(1607)2代将軍徳川秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。

 境内には『銅鳥居』、『狛犬』、『常夜燈』、『慰霊平和記念碑』、『百度石』、『力石』、『筆塚』、『三殿宮』、『平河稲荷神社』、『石牛』があります。


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形文化財(建造物)
 平河天満宮銅鳥居
     平成6年(1994)4月指定

 この銅鳥居は、高さ5メートルにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。



 童謡に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは、『文政武鑑』に「御鋳物師 西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘・灯籠・水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。



 なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政時らによって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかっています。
 平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会
 

所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の狛犬
     平成7年(1995)4月指定

 本殿向かって右側の石像の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、嘉永5年(1852)にこれらを補修して再設置した、とのことです。
 「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に『紫宸殿堅聖障子』といわれるものであると思われます。「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10センチ、深さ5センチほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対になっているといえます。
 平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮す人々の平河天満宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮



大鳥神社(おとりさん)

 御祭神 日本武尊命(やまとたけるのみこと)
           
塩神社(生活の神)

 御祭神 豊斟渟神(とよくみぬのかみ)

浅間神社(せんげんさん)

 御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の常夜燈 一基
     平成17年(2005)4月1日指定

 この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げて往時をしのばせています。
 寸法は、高さ3.45m余、幅・奥行ともに1.26mです。
 材質は、安山岩ですが、火袋には花崗岩が、基礎にも新しい石材が使用され、ともに後世に補われたものです。
 装飾は、火袋の左面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。
 銘文は、竿に「常夜燈」(正面)・「奉納」(左側面)・「別当常全代」(背面)・「嘉永五王子年閏二月吉祥日」(右側面)とあります。また。基壇にも、「雲龍堂」(三段目の正面)とあるほか、二段目及び三段目全体に世話人・発起人をはじめ「雲龍堂充國門弟」・「龍海堂門弟」・「充國門弟」の肩書をもつ多数の人名があり、嘉永5年(1852)閏2月にこれらの人々により奉納されています。
 雲龍堂と龍海堂は区内にあった寺子屋です。雲龍堂は、文政年間から文久年間(1818~1864)まで麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあり、町人の光國が教師となり、生徒数は250名(男150名・女100名)でした。龍海堂は、文化元年(1804)松田町(現在の鍛冶町2丁目)に開業し、町人の布施タキが教師となり読み書き・算術・活花を教え、生徒数は160名(男55名・女105名)でした。
 なお、嘉永5年(1852)は菅原道真公の950遠忌であり、当社でも2月25日から4月5日まで開帳が行なわれ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ケ所、発句連の句会開催、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われました。また、境内には、この開帳にあわせて作製・奉納されたと考えられる石造物が3件あります。(狛犬〔再建〕・百度石筆塚)。
 この常夜燈は、区内の寺子屋とその関係者の天神社に対する信仰の様子を物語るものです。
 平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の百度石 
     平成15年4月1日指定

 百度石とは、百度参りを行うために使用される石標で、百度参りが行われる神社が境内に立て、そこから往復参拝するよう目印としたものです。百度参りは、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形でしたが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したといわれます。ただし、この百度石の場合は、背面に奉納者と思われる多数の人名がありますので、何らかの結願の結果として建立・奉納されたと思われます。
 この百度石は、銘文から、高橋丈鯉が制作したものを、嘉永5年(1852)2月に鮫ヶ橋の岸岡仙太郎ら67名が奉納したものです。奉納者67名は、①鮫ヶ橋など地名を肩書きに持つもの、②松浦藩・永井藩・本郷藩・片桐藩という藩名を肩書きに持つもの、③肩書きがなく名前だけのものが混在しています。奉納者は地縁的な繋がりは考えにくいため、学問上の繋がりの中で奉納したとも思われ、平河天満宮と、周辺の町や人々との関わりを考えることができます。 
 奉納された嘉永5年(1852)は、菅原道真公の950年遠忌にあたり、江戸市中でも平河天神のほか亀戸天神牛天神で会長が各60日行われています。平河天神では、嘉永3年(1850)の火災による修復入用を賄うために別当龍眼寺が出願し、2月25日から4月5日まで開帳が行われ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ヶ所、発句連の句会が開催され、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われ、百度石の他にも、狛犬常夜燈筆塚の3件がこの開帳に合わせて奉納されています。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

   千代田区指定有形民俗文化財
       力石(天龍石)  指定 平成5年(1993)4月

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位のむらではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多いとされています。
 また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の進入を防ぐための神であり、呪い等であったようです。(疫病は道を伝わって来ると信じられていました)。
 平河天満宮の力石の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
 なお、本力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
 平成6年(1994)12月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

    碑 文
 南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は 平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地に転戦し 勲功を挙げた 終戦50周年を向かえ生存者及遺族相倚り賛華した戦友を慰霊し萬世泰平を祈念し ここ所縁の地平河天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を 後世に伝えんとするものである
           平成8年(1996)11月15日

    附 記
 昭和14年(1939)11月15日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結11月28日品川駅より勇躍征途に着く 11月30日宇品港出帆12月7日 広東省黄浦港上陸翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた 翁英作戦 賓陽會戦 南寧地区警備 欽寧附近掃討作戦 江南作戦第二次西路作戦 仏印国境作戦南寧地区警備欽寧撤去作戦 中山附近警備 賓陽會戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与 昭和15年12月12日広東省唐家出帆 昭和16年1月3日東京芝浦港に上陸帰還 
1月13日復員完結
    南支派遣  近衛歩兵第一聯隊第八中隊 梅鉢会


    平河天満宮に建碑の由来
昭和14年(1939)11月近衛歩兵第一聯隊に動員下令され 第八中隊は麹町2丁目の家庭に分宿し、町会、麹町小学校、在郷軍人会、国防婦人などの温かいご協力を得て動員業務を完結した
天満宮より社紋入りの小林茂隊旗を賜り梅鉢隊と呼称し退院は梅鉢の社紋を襟に付けて歓呼の声に送られ勇躍征途についた
終戦50周年に当たり慰霊平和の記念碑を所録の地天満宮に建立し併せて当時の恩義に対して深甚なる感謝の意を表すものである


所在地 千代田区平河町1

 この坂を貝坂といいます。『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならはせしとなり。ある説に、貝塚法印というが墓なりともいひて、さだかならず」とかかれていますが、貝塚があったというのが現在定説となっています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町

 この坂を中坂といいます。元禄4年(1691)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(1704)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。
 中坂の名称についての由来についてははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると、中坂の名称のおこりはあんがいこのへんにあるのかもしれません。
 昭和50年(1975)3月



所在地 千代田区平河町1-7-5 (平河天満宮)

 石牛 平成22年(2010)4月1日指定
名称・員数   石牛 一基
所在地     千代田区平河町1丁目7番5号
所有者     宗教法人 平河天満宮
年代       嘉永5年(1852)
 この石牛は、浄瑠璃常陸津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されたもので、奉納された嘉永5年(1852)は、祭神である菅原道真公の950年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも2月25日から60日間にわたって催されています。
 この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬・筆塚・百度石・常夜燈)を奉納しています。
 平河天満宮には、氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常陸津節の一流派である岸沢派の麹町界隈の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の広がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。
 平成23年(2011)3月 千代田区教育委員会

     Designated Tangible Cultural Property of Chiyoda City
           Designated on April 1,2010
Stone cow
This stone cow was offered by Konjimachi disciples of Kishizawa Uwasa,a master of Tokiwazu Jururi narrative music.It was offered in 1852,the 950th anniversary of the death of Sugawara no Michizane, who is enshrined as a deity here.It is an artifact that speaks of the deliefin Tenjin Shrines that was held among academic andcultural figures in the ward.
   March 2011   Chiyoda City Board of Education



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