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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区有楽町2-2-3先

明治大学発祥の地(肥前島原藩松平家上屋敷跡)

 明治法律学校(現明治大学)は、明治十四年(1881)一月十七日に旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人は、貢進生として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校に遊学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに『権利自由、独立自治』の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも30歳に満たぬ白面の書生であった。

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所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園)

 澁澤榮一(渋沢栄一・渋澤栄一)

青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり。後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり。爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百。常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の
發展に偉大な貢獻をした。
 
また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

所在地 千代田区大手町1-4先 (清麻呂公園)

ここに立たせるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の室命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れつ偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の出御代に祝行添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沼へる地に建設せるなり


公の英霊は千載生けるが如く嚴然として宮闕の下を離れず我が國體を擁護しまつり天地と倶にごとしへに存せむ
  
昭和十五年十二月 大日本護王會

所在地 千代田区丸の内2-1-1

国指定重要文化財
 明治生命館
 (明治安田生命保険相互会社本社本館)
              平成9年(1997)5月29日指定



 昭和9年(1934)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階付地上8階建の建物で、設計は岡田信一郎氏です。典型的な古典様式を備えた近代の西洋建築を代表する建物です。終戦後は、アメリカ極東空軍司令部(GHQ)として接収されたが、返還後は再び同社(
明治安田生命保険相互会社)本社として使用されてきました。

所在地 千代田区皇居外苑1

 楠正成像 Statue of kusunoki Masashige

祖先友信開伊豫別子山銅子孫業二百亡兄友忠深感國恩欲用其銅鋳造楠公正成像未果継其志工事及功竣謹

 明治三十年一月 従五位臣住友吉左衛門謹識 

所在地 千代田区一ツ橋1-1先

  江戸城築城550年に当たって
 「太田道灌公 追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550年に当たります。
 この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。

 太田道灌(1432~1486)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の築謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
 千代田区観光協会(協力)

七重八重 
 花は咲けども 
      山吹の 
 実のひとつだに
   なきぞかなしき

 平成19年(2007)9月25日  千代田区


【碑文】

  
太田道灌公追慕之碑
寛正5年春江戸ノ城将太田道灌公参朝ノ際居城ニ就キ 勅問ニ奉答ノ歌ニ我庵は松原ツツキ海ちかく■高嶺を軒端よそ見るノ一首アリ城川ヲ帯ヒ南ハ海に臨ミ西ハ丘陵起遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ城ニ能ス景勝容害ヲ盡■ヒリ公名ハ持資開来上杉定正ノ重臣々リ幼ニミテ聰邁尊志ニ薦ノ文武ノ道ニ通ジ兵馬ノ技ニフ築城ノ術ニ長セリ長禄元年城ヲ江ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創■爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲテ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望■リ従フ常ニ力ヲ民治ニ效 文事ヲ奨化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ来住シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル文明十八年公ハ讒ヲ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃し々リト■其ノ城池ハ依然トシテ関東第一ハ形勝々リ徳川氏ノ覇府ヲ経テ明治ノ聖代ニ及ヒ畏クモ 皇居ヲ此ニ奠メラし江戸ハ東京ト政稱セラレテ日ニ月ニ殷賑ニ加入令■世界第二ノ大都市トナレリ是レ實ニ端ヲ公ノ築城ニ発シタルモノ 二千吉不朽の功業ナリト謂フヘシ 茲ニ公ノ四百五十年祭テ行フニ方リ碑ヲ■城ヲ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルニ資セントス
 昭和11年(1936)7月26日 東京市長牛塚虎太郎


此ノ石材ハ江戸城虎之門桝形ノ遺材ニシテ道灌公當時ノモノニハアラザルモ因縁深キモノトシテ特ニ本碑材ニ選定スルコト■セリ

所在地 千代田区大手町1-4先 (清麻呂公園)

 この木は、震災イチョウ(震災銀杏・震災いちょう)と呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。大正12年(1923)9月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみ、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。
 平成13年(2001)3月 千代田区教育委員会



  岡田武松(1874~1956)
千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長を経て明治37年(1904)、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線放送受信設備の完成、海洋気象観測設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正13年(1924)にイギリスの王位気象学会からサイモン金牌をおくられ、昭和25年(1950)には文化勲章を受ける。

  清野長太郎(1869~1926)
 香川県に生まれ、東京大学法科卒業後、旧内務省警保局にはいり、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治36年(1903)に人口学万国会議の委員としてベルギーへ派遣される。明治39年(1906)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正2年(1913)までこの職にあった。大正5年(1916)以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。

所在地 千代田区外神田1丁目 神田須田町1・2丁目

 この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約150m上流に筋違橋門に附属する橋がありました。明治5年(1872)に門が解体されとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが目鏡のようなので、目鏡橋の愛称で呼ばれました。
 
明治36年(1903)に元万世橋と改称しましたが、明治39年(1906)に撤去されました。橋名を刻んだ石の親柱は神田神社の境内に保存されています。
 
この場所に初めて橋が架けられたのは、明治17年(1884)のことで、上流の昌平橋が流失したため代用として昌平橋が架けられました。上流の昌平橋が復旧すると、この橋は新万世橋と改称し、明治36年(1903)には鉄橋に改架されて万世橋と再度改称しました。
 
現在の橋は、関東大震災の後の昭和5年(1930)に架け替えられました。
  
平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区千代田1-1 (皇居東御苑) 

 大手門の形式は枡形門(ますがたもん)と呼ばれ、大手高麗門(一の門)大手門渡櫓(二の門)からできています。

所在地 千代田区岩本町1-1 (地蔵橋東児童公園)

 明暦三年(1657)一月十八日の江戸大火は、俗に本郷の振袖家事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。資料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も十万人を数えたといわれています。
 
この大火ののち、まず防火のために八丁(約870m)にわたる土手が築かれました。天和三年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。その後、元禄四年(1691)頃になると町人自ら費用を負担して明地に掘割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。白銀町堀とも呼ばれ、のちに竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
 
掘割は、東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田二丁目一番)の南側のあたりで外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。東神田一丁目の所から南南東に向きをかえて大川(隅田川)に注いでいました。のちには、東神田一丁目の所から、北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていまいた。
 
この堀には、西から竜閑橋・白旗橋・西仲之橋・今川橋・東仲之橋・地蔵橋・火除橋・九道橋・甚兵衛橋・小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りには、かつて地蔵橋が架っていました。

所在地 千代田区大手町1-2 

 東京都指定文化財(都旧跡)
平将門首塚(将門塚)
          昭和46年3月30日指定

 平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。
 
通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。
 
嘉元年間(1303~1305)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。
  
昭和46年(1971)10月1日  東京都教育委員会



 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして、関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望をを受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田際の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
     江戸総鎮守 神田明神

   将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子 将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定。自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱(~940年)という。
 
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 
その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治2年(1307) 時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 
天慶の乱の頃は平安期の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが、遠い坂東では、国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものであると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
     
将門塚保存会 

 

   将門首塚の碑(故跡保存碑)

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 
明治2年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。故跡保存碑は明治39年(1906)5月建立されたもので、裏面の阪谷芳郎構文になる碑文は将門塚の由来を記している。
  
平成3年(1991)3月 千代田区教育委員会

所在地 神田淡路町2丁目 外神田1・2丁目

 昌平橋(しょうへいばし)の架設はきわめて古く、寛永年間(1624~1644)と伝えられています。この橋は、一口橋(いもあらいばし)(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。
 
一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考(ごふないびこう)』にはこの橋について、『筋違いの西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と唱ふべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々』とかかれています。
 
すなわち、元禄四年(1691)将軍徳川綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名させられました。
 
明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三十二年(1899)再架してまた昌平橋と復しました。
 
現在の橋は、昭和三年(1928)十二月八日に架設されたものです。なお『万世橋・昌平橋をきれいにする会』の働きかけにより、高欄・橋灯が新しく復元されています。
 
平成6年(1994)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区大手町1-2 (将門塚)

 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の『先代萩』で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。

 

所在地 千代田区霞が関1-1-1

 重要文化財(平成6年12月27日指定)

 この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。

 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、レンガ壁が鋼材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、レンガ壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として再び利用されるようになった。

 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。

 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。

                            平成7年5月

所在地 千代田区内幸町1-1 (帝国ホテル東京)

 明治政府は産業奨励のため、この地麹町区内山下町一丁目一番地(現千代田区内幸町)に農産陳列所のうさんちんれつしょを設置した。
 当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治十七年(1884)四月、ここに蚕病試験場さんびょうしけんじょうを設けて特に蚕業の振興を図った。この施設は明治19年(1886)西ヶ原(現北区西ヶ原)に移り、東京高等蚕糸学校さんしがっこうとなり、さらに昭和15年(1940)小金井町(現小金井市)に移転し、東京農工大学(現工学部と農学部の一部)になっている。
  
平成4年(1992)10月  千代田区教育委員会

所在地 千代田区皇居外苑1

  旧江戸城 外桜田門
 現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでたことに由来します。
 外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~1644)とされ、現存する門は、寛文3年(1663)に再建された門がもとになっています。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。
 万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

    Sotosakrada-mon Gate of Edo Castle
Currently called Sakurada-mon,this gate is officially named Sotosakurada-mon,soto meaning "outer" as opposed  to the "Uxhisakurada-mon" or "innee" Gate (Kikyo Gate) near the citadel.These gates were named Sakurada-mon becouse the area was called Sakurada-go (town) in the past.
The Sotosakurada-mon Gate has a cual structure consisting of the Korai Gate on the outside and the Watariyagura Gate on  the inside with a square in-between.It covers an exceptionally large area (apprx,1,056㎡) as a highly defensive castle gate for the Nishinomaru(west compound).The Sotosakurada-mon Gate was originally built in the Kanei era (1624 to 1644),while the existng gate is based on a gate reconstructed in 1663.The gate was damaged by the Great Knto Earthquake in 1923 and repaired it.
On March 3,1860,the Japanese Chief Minister Tairo li Naosuke was assassinated by a group of samurai who seceded the Mito-han feudal state outside of the Sotosakurada-mon Gate in an event known as the Sakuradamon Incident.





所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園)

 常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。また天正十八年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治十年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代

『  色かへぬ  松によそへて  あづま路の 

                 常盤の橋に  かかる藤なみ  』

の歌に因みつけられたものといわれる。

所在地 千代田区鍛冶町1・2丁目

 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。
 神田掘は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 
昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 
下図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
  平成4年4月吉日



 すぐそばに『今川橋跡碑』があります。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。



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