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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

『常陸丸殉難記念碑』
            元師伯爵東郷平八郎書

 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸(ひたちまる)に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃(たお)れた。
 
野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 
武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
  
昭和61年(1986)6月15日
             殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
                       
常陸丸遺族会
                                   全国近歩一会

 碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

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所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

名勝 靖國神社 神池・庭園 

 この庭園は明治時代を代表する名園で、維新直後の明治5年(1872)頃より着手されたものです。滝石組は明治11年(1878)に完成しており、当時四谷から玉川上水を引いていたこともわかってきました。その後、明治37年(1904)に二つの中島も作られ、現在の姿が完成しました。茶席「靖泉亭」「洗心亭」は昭和30年代に建てられています。

 主景である滝石組は、深山幽谷を思わせる一大渓谷美で、数ある日本庭園の中でも有数の名作といえます。この左上には獅子頭を思わせる奇石があって、左手の築山が獅子の築山とされているのは、古庭園中でも大変珍しいことです。

 
靖泉亭

 中島東部にある切石橋は6mを超える貴重な作で、また中央の阿波青石橋は神池の中心的な景となっています。大島南部にある石浜は、鬼怒川石を用いて復元されたもので、美しい水景が見られます。

 洗心亭

 特に池泉を引き立てているのが
、南部中央にある岩島(蓬莱岩島ほうらいがんとう)で、どの角度から見ても美しい八方正面と遠近法造形美を見せています。
 
西南部の入江もよく保存されておりますが、新たにその奥に隠れ滝を設け新鮮な水を供給しています。
  
日本庭園研究会会長 吉河功
                           靖国神社


 < 錦鯉献納の主旨 > 
 
上越新幹線の開通を記念して新潟県特産の錦鯉を靖国の神池に献じ、英霊のご冥福と国土の豊穣を祈願すると共に、御参拝の方に錦鯉の美を観賞され、憩のひと時を過されます様願うものであります。
  昭和57年(1982)12月20日 遥山書
          新潟県靖国神社錦鯉献納奉賛会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 安政元年(1854)、伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦デイアナ号は、大地震の津波により座礁した。
 
乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した。
 後露国政府はデイアナ号の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。
 
本砲はその一門である。

    口径  160mm
    
全長 2570mm 

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この砲は安政元年(1854)、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。

 口径  250mm
 全長 3830mm

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この砲は嘉永2年(1849)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條を施した。

 口径  290mm
 全長 4220mm

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 明治初期から昭和20年(1945)8月15日の終戦に至るまで、幾多の戦役にかり出されおよそ100万頭の馬が戦陣に斃れた。軍馬補充部で育成された軍馬や農家からの購買または徴発馬が、斥候、行軍、戦闘のため戦場を駆巡る乗馬として、あるいはいかなる難路にも屈せず重い火砲を引く輓馬、軍需品を背負い搬送する駄馬として戦地に赴いた。
 
御国のために戦場を駆巡り、屍を野辺に晒したもの数知れず、終戦まで生き長らえても、再び懐かしい故国に還ったのは僅か1,2頭である。山紫水明の生まれ故郷を思い起こしたことであろう。それでも黙々として生を終えた。
 
この馬像の作者・伊藤国男氏(明治23年・1890~昭和45年・1970)は生涯に千数百点もの馬像を手掛けた彫塑家である。同氏は戦場において輝かしい功績を遺した戦歿馬のことが脳裏から一時も離れず、私財を傾け鎮魂の証としてこの像を制作、靖国神社に献納したが、台座に費やす財はなく、数年間建立されることはなかった。
 
かつて馬術の選手として2回もオリンピックに出場し、戦後は皇居内の乗馬クラブで教官を務めた城戸俊三氏は、この話を聞くや早速、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年(1957)4月に戦歿馬慰霊像奉献協賛会を結成、広く浄財を募り、翌昭和33年(1958)4月7日に建立除幕式を行い、靖国神社に奉納した。
 
台座の「戦歿馬慰霊」の揮毫は元皇族の北白川房子様の染筆である。
 以来、毎年桜花爛漫の4月7日を「愛馬の日」とし、《戦歿馬慰霊祭》がこの場で行われる。

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年(1866)、第2次長州征伐の折に、石州口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同11月5日大阪にて歿した。46歳。

 明治2年(1869)6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖国神社創建者としての功績は大きく、明治15年(1882)、伯爵山田顕義らにより銅像が建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作がが委嘱された。
 
大熊氏廣は明治9年(1876)、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、明治15年(1882)に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻製作に従事、明治十八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年(1893)にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 第一次世界大戦は、4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年(1917)3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストラリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の車に投降し、連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウライオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等にの各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
 日本から第十二師団がはけんされることとなり、大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支援が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正8年(1919)2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名のの外全員戦死した。支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共にした。
 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を慰めるため昭和9年(1997)2月26日、九段坂下に建立されたものを平成8年(1996)9月3日現在地に移設したものである。
 本碑台座部分には、大正8年(1919)2月27日、第十二師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和43年(1968)2月27日再建復刻)が刻まれている。
  平成8年(1996)9月3日 歩兵第七十二聯隊戦友会
                    靖國神社

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車態 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
 その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
   平成17年(2005)6月28日
        財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 強くきびしく
 やさしかった母
 おかげで私がある
 お母さんありがとう
 私たちのかなしみが
 くりかえされることの
 ないように
  昭和49年(1974) 日本遺族会青年部

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この練兵館(れんぺいかん)は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)の剣客 斉藤弥九郎(さいとうやくろう)により、それまで俎(まないた)橋付近にあった練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。 

 練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥次郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。

 なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。


    Site of the former "Renpeikan"
The "Renpeikan"was one of the three most famous "kendo"(Japannese fencing)training schools at the end of the Edo era.
A powerful samurai and kendo master,Yakuro Saito,rebuilt it here after the original school burnt down nearby in 1838.
Many famous samurai active in the Meiji Restoration trained here.
Some of them subsequently held important posts in the Meiji gobernment.

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 大鳥居(第一鳥居)は靖国神社御創建50周年記念として大正10年(1921)に、建立されたが、昭和18年(1943)戦力増強のため撤去されそのあとに小さな檜の鳥居が建てられていた。
 全国約17,000名の芳志に基づく浄財1億6,000万円によってこの大鳥居を再建復原して御祭神245万余柱の英霊に捧げるものである。

 耐候性高張力鋼版(12mm)を使用し、総重量約100t、柱の内部は相当の高さまでコンクリートを充填して補強、技術的計算によれば1200年の耐久性を有する。
 高さは25m(8階建のビル高さに相当し)、日本一の規模である。 

竣工 昭和49年(1974)10月7日
設計施工  日本鋼管株式会社
              靖国神社大鳥居再建事業委員会

所在地 千代田区九段北1-15先

 南十字の星の下 身を捧げた友のあゆんだ途は遠く険しかった

 今は昔ながらの故国に生きて 立ち直る国の礎となっている御霊に限りない敬意と溢れる愛情を覚え不変の石に心をこめて 亡き友よ永遠に安かれと祈って此処にこれを建てる

 昭和39年(1964)11月3日 濠北方面戦没者慰霊会

所在地 千代田区神田駿河台1,2

 この坂を雁木坂(がんきざか)といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図解』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。

所在地 千代田区猿楽町・千代田区神田駿河台

 この坂を錦華坂(きんかざか)といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂(かんがくざか)と呼ぶのは誤りです。

 この坂は大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。

 「議決要綱の三」には”南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町2番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設”とあります。

所在地 千代田区岩本町3-11 (区立和泉橋南東児童遊園)

 江戸幕府が開かれた慶長年間(1595~1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。

 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。

 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。

 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代りました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。

 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。

  平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区神田駿河台1 

 この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和8年(1933)から駿河台1,3丁目となりました。

 昭和50年(1975)3月 千代田区

所在地 千代田区神田駿河台4

 この坂を紅梅坂(こうばいざか)といいます。 このあたりは紅梅町とよんでいたので、この坂名がつきました。 淡路町に下る幽霊坂(ゆうれいざか)とつながっていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際本郷通りができたため、二つに分かれた形になりました。 『東京名所図絵』には 「東紅梅町の中間より淡路町2丁目に下る坂あり、もと埃坂(ごみざか)と唱えしに、 維新以後、 淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。

 昭和50年(1975)3月 千代田区

所在地 千代田区神田駿河台4-1-3

 重要文化財  昭和37年(1962)6月21日文部省指定

 この聖堂は明治17年(1884)3月に起工し工期七年を以って明治24年(1891)2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です。

 頂上までの高さ  35m
 建坪  318坪
 壁厚  1 ~ 1.63m

 日本最大のビザンチン式建造物として知られております。
 
日本ハリストス正教会は、キリスト教の旧教で(東方正教会・The Orthodox Church)全世界各国にある正教会のなかのひとつの独立した教会です。正教会はキリスト教のなかの本家ともいうべき立場を保ち、初代からの伝承を守り今日に至っています。

 古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスタンチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。
 
各正教会は国単位でまとまっていますので、本山は各国の首府にあります。したがって日本正教会の本山は、当地東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。全世界の正教会は、お互いが密接に結びつき信仰生活を分かち合うことによって、ひとつの共同体となっています。
 
全世界には約3億余りの集りです。
  
日本ハリストス正教会教団

所在地 千代田区飯田橋4-9

 明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農業用地取得のため大塚窪町に移転しました。



所在地 千代田区飯田橋1-1 (ホテルグランドパレス前)

 吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌明治34年(1901)4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転。のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災(1923)までありました。



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