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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

『 富士講関係石碑群 』 千代田区指定有形民俗文化財
                     平成10年(1998)4月指定

 柳森神社は、延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を合殿・合祠しました。また『東都歳時記』には、天保期(1830~1844)ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年(1930)に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年(1960)に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築き、この周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。



① 北口富士分教会の碑

   作製年代 昭和5年(1930)11月改筆
   寸法 高83.5cm×幅79.4cm×厚7.5cm
   作製者 不詳     




② 神田八講の碑

   作製年代 大正14年(1925)6月再建
   寸法 高141.5cm×幅67.5cm×厚13.4cm
   作製者 神田八講



③ 北口神田講社の碑

   作製年代 昭和5年(1930)6月1日
   寸法 高139.5cm×幅64.2cm×厚12.7cm
   作製者 山京講



④ 小御嶽大神の碑

   作製年代 不詳
   寸法 高61.0cm×幅35.0cm×厚7.0cm
   作製者  不詳



⑤ 三桂乃大神の碑

   作製年代 不詳
   寸法 高85.0cm×幅85.0cm×厚37.0cm
   作製者 不詳



 富士講とは、浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は、江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には、多くの講社が姿を消していきました。
 したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では、現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、「下谷坂本の富士塚」(台東区)、「豊島長崎の富士塚」(豊島区)、「江古田の富士塚」(練馬区)は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。
 「富士講関係石碑群」は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。

 平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田須田町2-25-1

 今を去る500余年の昔この東京が武蔵野の原と■足利時代の頃、康正2年(1456)太田道潅公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御礼申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった。その後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄し、この柳森神社も商売繁盛の神として非常に殷賑を極めたものである。元禄と文政の頃には、徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正12年(1923)9月1日の関東大震災にて惜くも烏有に帰した。尚其頃迄この周辺には柳町、小柳町、元柳原町、向柳原町、柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。



 昭和30年(1955)が当神社創建鎮座500年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業をして此の神楽殿を建立し同年5月15日落慶大祭を執行した次第である。
 例大祭は毎年5月14,15日

 昭和36年(1961)5月吉日 神田須田町二丁目一七会有志




ビルが建ち並ぶ神田川沿いに静かにたたずむ神社。江戸城の鬼門除けに植樹した柳の森の鎮守社が起こり。この神社では多くの狸が祀られている。おたぬきさんは境内の福寿社で、桂昌門院が崇拝していた福寿神をこの神社に移して祀ったもの。身分の上下が厳しい時代、京都の八百屋の次女として生れた娘が、将軍の生母にまでなったという玉の輿のエピソードを持つのが桂昌院。その福徳にあやかりたいと、城内の女中たちは福寿神をかたどった像を懐中に忍ばせ、守護とともに玉の輿を願ったのだという。「たぬき」に「他抜き」をかけて、他に抜きんでるという意味を持たせ、立身出世にご利益があるといわれている。



 境内には『力石群』、『おたぬきさん・福寿神社』、『金刀比羅神社』、『秋葉大神』、『水神厳島大明神・江島大明神』、『富士講関係石碑群』、『明徳稲荷神社』があります。


所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

 『 力石群 』 千代田区指定有形民俗文化財 
               平成元年(1989)4月指定

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。
 しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 この境内にある「力石」は、大正年間(1912~1926)、当時この道の力士として有名であった神田川徳蔵こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。
 なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で著名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治(次)郎の2人が共に大関格であったとの記録がある。
 これ等「力石」は、江戸・東京の若者達の生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。
  平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町・紀尾井町

 この坂を諏訪坂(すわざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川宮御門前より赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とかかれています。また、別の名を達磨坂(だるまざか)ともいわれていますが、旧宮邸が紀州藩であり、その表門の柱にダルマににた木目があったため達磨門(だるまもん)とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂(だるまざか)と人々は呼んだそうです。

  昭和50年(1975)3月 千代田区



所在地 千代田区紀尾井町1

 左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。


所在地 千代田区紀尾井町1

  史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附(みつけ)」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門(ますがたもん)」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城田安門桜田門には同じ形式の門をみることができます。

 高麗門

 赤坂御門には、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之(くろだただゆき)により、この枡形石垣が造られ、寛永16年(1639)には御門普請奉行(ふしんぶぎょう)の加藤正直(かとうまさなお)・小川安則(おがわやすのり)によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。



 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年(1991)に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線(現 東京メトロ南北線)建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されたいます。

  千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  倉稲魂神(うがたのみたまのかみ)

例祭  4月下午の日



 稲荷の大神は古来、生成発展・商売繁昌の守り神として全国に祀られ、ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿顧忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬治2年(1659)4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り日枝神社境内末社となった。




< 山王稲荷神社本殿 > 

 千代田区指定有形文化財 昭和63年(1988)4月

名称 日枝神社境内末社 山王稲荷神社本殿

構造 一間社春日造、本瓦葺型銅板葺、南面

規模 身舎 正面柱間 真々 1.518m
    身舎 側面柱間 真々 1.670m
    身舎 向拝間柱間 真々 1.285m



 山王稲荷神社は、日枝神社が万治2年(1659)麹町隼町から現在地に移されるより以前、当地が福知山藩主松平忠房の邸地であった頃、すでに邸内鎮守として祀られていたと考えられる。この地主稲荷社と現存する建物との関係は不明である。
 『日枝神社史』『江戸名所図会』『甲良家文書』等の資料や棟札(昭和20年・1945 焼失)、細部絵様、同時期の公儀譜請・浅草神社(慶安2年・1649 建立)等との比較、技法の共通性から、万治2年(1659)山王社造営奉行板倉甚太郎重直・横山内記知清両人により日枝神社造営時に新しく造営されたものであると推定される。江戸時代の多くの災害のほか昭和20年(1945)5月25日の空襲による日枝神社社殿焼失の際、校倉とともに戦災を免れて残った唯一の社である。本社復興までの間、日枝神社の仮本殿として用いられた。現存の社の建立年代を示す直接資料を欠くものの、日枝神社末社として本社とともに公儀普請により建設された可能性が高く、17世紀中葉の江戸における幕府建設活動を示す数少ない遺構例のひとつであり、加えて関東地方には希少の縋形式の春日造本殿であることは特筆される。
  平成元年(1989)3月 千代田区教育委員会
 

所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  素盛鳴神(すさのおのかみ)

例祭  6月7日



 日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、三ヶ町の鎮守で大伝馬町、小舟町と並び江戸三天王と称された。明治19年(1886)7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。

 

所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  猿田彦神(さるたひこのかみ)

例祭  初庚申の日



 萬治2年(1659)、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ御祭神は“道ひらきの神”として、また里俗の説に“山王のお使い”即ち神猿とも言われる。



所在地 千代田区皇居外苑3

  和田倉噴水公園

 近代的な技術と伝統的な美観が融合した和田倉噴水施設は、昭和36年(1961)の建設以来、国民皇居外苑の主要施設として広く国民に親しまれてきました、このたび「継続性と新たな発展」を主題に、和田倉地区が水と緑で構成された表情豊かで風格のある空間として今後も末永く国民に親しまれるよう、新たな整備を行ないました。



 この整備にあたっては「皇居外苑和田倉噴水施設整備に関する懇談会」の提言をもとに、これまでの噴水施設は原形を活かしつつ新たな息吹をもって再生し、装いを一新した噴水とともに、躍動感あふれる滝や、静かに流れるせせらぎなどを新たに加えることにより、周辺の緑とあいまって、「継続性と新たな発展」を象徴する変化に富んだ水と緑の風景を創出しています。



 なお、先の噴水施設が財団法人「皇太子御結婚記念大噴水建設委員会」により建設、国に寄付された経緯を踏まえ、今回の整備にあたっても、財団法人「皇太子殿下御結婚祈念噴水公園建設委員会」が設立され、幅広い国民の協力を得て実施しました。
                   
          環境庁
          平成7年(1995)6月竣工


所在地 千代田区皇居外苑3 (和田倉噴水公園)

   和田倉橋

 この橋を和倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。



 慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。



 和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していました。
 この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい警官をみせています。

  平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区外苑3 (和田倉噴水公園)

この噴水は 皇太子殿下明仁親王の御結婚を記念し 全國民の慶祝の熱意によって建設された われわれは この現代造形美の結晶を 平和日本の象徴として 永く後世に遺さんとするものである

 昭和三十六年四月十日

 財団法人 皇太子御結婚記念 大噴水建設委員会



所在地 千代田区皇居外苑3 (和田倉噴水公園)

  御製

いにしへの
 人も守り来し
  日の本の
 森の栄えを
  共に願はむ

      
金子鴎亭 謹書


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

   日比谷見附跡
 この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
 城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
 当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていました、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。



This stone wall is a part of Hibiya Gate,one of fhe outer defenses of the Edo Castle.
Outsaide of the castle,theKoma gate,square,turreted passageway,and guardhouse used to be surrounded by the stone wall,but only part of the stone wall remains today.
On the west side of the stone wall was the moat ,which was later converted into Shinji-ike Pond and recalls the appearance at the time the Park was constructed.


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

   三笠山
 この小丘を含むテニスコート西側の一帯は三笠山と呼ばれています。
 公園造成時に池などを掘った残土で作られた人工の山で、その当時は全体が三つの笠をふせた形に似ていたのでこの名が付いたといわれたいます。
 その後、テニスコートの造成など周辺の整備に伴い、山の形は変わりましたが、三笠山の名は残りました。


所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

この坂を山王男坂といいます。日枝神社の表参道。左側のゆるやかな坂「女坂」に対して名づけられています。
二つの坂を比較して急な坂を男坂、ゆるやかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段の数五十三。山王の地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でありました。

 昭和50年3月 千代田区



所在地 千代田区永田町2-3-1


 
 総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年(1870)に鍋島家の所有となります。明治25年(1892)に完成したれんが造りの洋館は大正12年(1923)9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年(1926)、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年(1929)に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年(1987)、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年(2002)に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年(2005)に完成し、現在に至っています。

平成17年(2005)10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会 


所在地 千代田区永田町2

この坂を山王坂といいます。この坂のあたり、明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。
 
 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会
                        



所在地 千代田区霞が関3-2-2 霞が関コモンゲート(文部科学省情報ひろば)

 この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集結して大きくなる。
 やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代・八千代年を過ぎてさざれ石巖となりて苔のむす、その景観誠に目出度い石である。
 全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく知ることができる。

 春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。



所在地 千代田区霞が関3-2 (霞が関コモンゲート)

教育関係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためには、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和39年(1964)6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。
その後、行政改革により特殊法人国立教育会館は平成13年(2001)4月1日に解散となった。
この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。


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