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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田須田町2-25-1

 今を去る500余年の昔この東京が武蔵野の原と■足利時代の頃、康正2年(1456)太田道潅公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御礼申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった。その後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄し、この柳森神社も商売繁盛の神として非常に殷賑を極めたものである。元禄と文政の頃には、徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正12年(1923)9月1日の関東大震災にて惜くも烏有に帰した。尚其頃迄この周辺には柳町、小柳町、元柳原町、向柳原町、柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。



 昭和30年(1955)が当神社創建鎮座500年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業をして此の神楽殿を建立し同年5月15日落慶大祭を執行した次第である。
 例大祭は毎年5月14,15日

 昭和36年(1961)5月吉日 神田須田町二丁目一七会有志




ビルが建ち並ぶ神田川沿いに静かにたたずむ神社。江戸城の鬼門除けに植樹した柳の森の鎮守社が起こり。この神社では多くの狸が祀られている。おたぬきさんは境内の福寿社で、桂昌門院が崇拝していた福寿神をこの神社に移して祀ったもの。身分の上下が厳しい時代、京都の八百屋の次女として生れた娘が、将軍の生母にまでなったという玉の輿のエピソードを持つのが桂昌院。その福徳にあやかりたいと、城内の女中たちは福寿神をかたどった像を懐中に忍ばせ、守護とともに玉の輿を願ったのだという。「たぬき」に「他抜き」をかけて、他に抜きんでるという意味を持たせ、立身出世にご利益があるといわれている。



 境内には『力石群』、『おたぬきさん・福寿神社』、『金刀比羅神社』、『秋葉大神』、『水神厳島大明神・江島大明神』、『富士講関係石碑群』、『明徳稲荷神社』があります。
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