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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

 江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた5代将軍徳川綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりと称して創建された。
 桂昌院は、京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、3代将軍徳川家光公の側室となり、5代将軍徳川家綱吉公のご生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
 後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祠される様になり、明治2年(1869)現在の柳森神社に合祠されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。
 なお当社において頒与する、”おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。
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所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

『 富士講関係石碑群 』 千代田区指定有形民俗文化財
                     平成10年(1998)4月指定

 柳森神社は、延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を合殿・合祠しました。また『東都歳時記』には、天保期(1830~1844)ころの「富士参」の例として柳森神社があげられています。これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年(1930)に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年(1960)に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築き、この周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。



① 北口富士分教会の碑

   作製年代 昭和5年(1930)11月改筆
   寸法 高83.5cm×幅79.4cm×厚7.5cm
   作製者 不詳     




② 神田八講の碑

   作製年代 大正14年(1925)6月再建
   寸法 高141.5cm×幅67.5cm×厚13.4cm
   作製者 神田八講



③ 北口神田講社の碑

   作製年代 昭和5年(1930)6月1日
   寸法 高139.5cm×幅64.2cm×厚12.7cm
   作製者 山京講



④ 小御嶽大神の碑

   作製年代 不詳
   寸法 高61.0cm×幅35.0cm×厚7.0cm
   作製者  不詳



⑤ 三桂乃大神の碑

   作製年代 不詳
   寸法 高85.0cm×幅85.0cm×厚37.0cm
   作製者 不詳



 富士講とは、浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は、江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には、多くの講社が姿を消していきました。
 したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では、現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、「下谷坂本の富士塚」(台東区)、「豊島長崎の富士塚」(豊島区)、「江古田の富士塚」(練馬区)は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。
 「富士講関係石碑群」は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。

 平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田須田町2-25-1

 今を去る500余年の昔この東京が武蔵野の原と■足利時代の頃、康正2年(1456)太田道潅公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御礼申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった。その後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄し、この柳森神社も商売繁盛の神として非常に殷賑を極めたものである。元禄と文政の頃には、徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正12年(1923)9月1日の関東大震災にて惜くも烏有に帰した。尚其頃迄この周辺には柳町、小柳町、元柳原町、向柳原町、柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。



 昭和30年(1955)が当神社創建鎮座500年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業をして此の神楽殿を建立し同年5月15日落慶大祭を執行した次第である。
 例大祭は毎年5月14,15日

 昭和36年(1961)5月吉日 神田須田町二丁目一七会有志




ビルが建ち並ぶ神田川沿いに静かにたたずむ神社。江戸城の鬼門除けに植樹した柳の森の鎮守社が起こり。この神社では多くの狸が祀られている。おたぬきさんは境内の福寿社で、桂昌門院が崇拝していた福寿神をこの神社に移して祀ったもの。身分の上下が厳しい時代、京都の八百屋の次女として生れた娘が、将軍の生母にまでなったという玉の輿のエピソードを持つのが桂昌院。その福徳にあやかりたいと、城内の女中たちは福寿神をかたどった像を懐中に忍ばせ、守護とともに玉の輿を願ったのだという。「たぬき」に「他抜き」をかけて、他に抜きんでるという意味を持たせ、立身出世にご利益があるといわれている。



 境内には『力石群』、『おたぬきさん・福寿神社』、『金刀比羅神社』、『秋葉大神』、『水神厳島大明神・江島大明神』、『富士講関係石碑群』、『明徳稲荷神社』があります。


所在地 千代田区神田須田町2-25-1 (柳森神社)

 『 力石群 』 千代田区指定有形民俗文化財 
               平成元年(1989)4月指定

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。
 しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 この境内にある「力石」は、大正年間(1912~1926)、当時この道の力士として有名であった神田川徳蔵こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。
 なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で著名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治(次)郎の2人が共に大関格であったとの記録がある。
 これ等「力石」は、江戸・東京の若者達の生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。
  平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田須田町1-11 
               (旧連雀町18番地)

御祭神 倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )



山城国稲荷山の分魂・柳森神社攝社にして蓮雀街創立の頃より町内鎮守神と祭祀す。青果商う者、出世奉賽の為に建立すとも云う。其後延享年間火災の折、柳森神社に合掌祭祀し例年2月上の午日、町内に迎え祭典執行居りしも明治7年(1874)5月町内地続き武家地新開成るに及び蓮雀町18番地に信者奉願造営遷座せるものなり。明治8年(1875)東京府境内見捨地とす。
大正12年(1923)5月社殿改築の議起り、柳森神社へ神璽を遷し、9月竣工の運びとなりしも、9月1日突如起りし関東大震災の為、新営・町家共に灰燼に帰す。幸いにも神璽は柳森神璽と共に偶然にも神田川いなり河岸に繁留ありし稲荷丸という船(多町青果市場納入便船)に遷奉し猛火を潜り河口を脱出難を避けた。



現社殿は昭和3年(1928)遷座建立せしものにて、年々9月15日町内及び信者一統相寄り柳森神社柳原宮司のもと祭祀司る。
其後町内戦火にも免れ、火災災厄一つとしてなく遠地よりの参拝も多く、火防・商売繁栄学業成就の神として多大の崇敬を集めている。
                          謹 記


所在地 千代田区神田須田町1-8-4先

   神田青果市場発祥之地碑

 この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三大市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制服を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華と云われた。いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、蓮雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正十二年九月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まることができず、昭和二年十二月一日を期して現市場である神田山本町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永く発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打込んで旧市場の跡を偲ぶものとした。



所在地 千代田区神田須田町1-3-3 

国指定登録有形文化財(建造物)
 山本歯科医院
     平成17年(2005)2月9日指定



所在地 千代田区神田須田町1-25 

『御府内備考』に”御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至るの道をいう”とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。
 江戸時代筋道の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また大々餅で売り出した有名な店もありました。
  昭和51年(1976)3月 千代田区


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