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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区霞が関1-1-1

 重要文化財(平成6年12月27日指定)

 この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、1895年(明治28年)に旧司法省庁舎として完成した。

 その後、1923年(大正12年)の関東大震災では、レンガ壁が鋼材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により、レンガ壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、1950年(昭和25年)法務省本館として再び利用されるようになった。

 中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、1994年(平成6年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。

 本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、1994年(平成6年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。

                            平成7年5月

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所在地 千代田区霞が関1-1-1 (法務省旧本館)

 関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康によって出羽米沢30万石に移封されました。慶長8年(1603)、桜田門外の当地(現法務省の一部)に建てられた上杉家の江戸屋敷は『桜田屋敷』と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。

 

 下の絵図は江戸時代初期に制作された『江戸図屏風』に描かれた藩邸周辺の様子です。

                  2003年5月16日 米沢市



所在地 千代田区霞が関3-2-2 霞が関コモンゲート(文部科学省情報ひろば)

 この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集結して大きくなる。
 やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代・八千代年を過ぎてさざれ石巖となりて苔のむす、その景観誠に目出度い石である。
 全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく知ることができる。

 春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。



所在地 千代田区霞が関3-2 (霞が関コモンゲート)

教育関係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためには、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和39年(1964)6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。
その後、行政改革により特殊法人国立教育会館は平成13年(2001)4月1日に解散となった。
この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。



所在地 千代田区霞が関3-2 (霞が関コモンゲート)

 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
       工部大学校阯碑



霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地域は、日本の工学発祥の地です。明治6年(1873)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、明治10年(1877)には工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された外国人教師に依って教授されていました。しかし工部大学校は明治19年(1866)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の全身です。工部大学校の移転後、工部大学校地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし、大正12年(1923)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も倒壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影がなくなってしまいました。そこで工部大学校出身者たちは、かつてこの地に工部大学校地があったことを記念して、昭和14年(1939)「工部大学校阯碑」を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際に倒壊した建造物の煉瓦などが用いられています。「工部大学校阯碑」は、千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を後世に語りかけてくれます。さらに、震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。
    平成6年(1994)3月
       千代田区教育委員会(平成22年(2010)10月補修)



  碑文
此地ハ明治天皇ノ聖跡ニシテ又実ニ我国工学発祥ノ処ト為ス初メ明治4年(1871)工部省工学寮ヲ此ニ置ク明治6年(1873)寮内ニ工学校ヲ開テ明治10年(1877)改メテ工部大学校ト称シ工作局ノ所管ト為ス翌明治11年新築校舎成ルヲ以テ7月15日明治天皇親臨シテ開校ノ典ヲ挙ゲ給フ皇族大臣参議以下参列シ其義極メテ荘厳ナリ天皇勅語ヲ賜フ中ニ百工ヲ勤ムルハ経世ノ要ニシテ時務ノ急ナリ自今此校ニ従学スルモノ■勉シテ以テ利用厚生ノ源ヲ開カンコトヲ望ムノ語アリ次ニ校舎ノ鍵鑰ヲ工部省御用取扱参議伊藤博文ニ賜ヒ伊藤博文之ヲ拝受シテ工作局長大鳥圭介ニ授ケ又奉答ノ辞ヲ奏ス式畢リテ天皇各教場ヲ巡覧シ学生ノ進講ヲ聴キ理科学ノ実験ヲ視給ヒテ後還幸アラセラル抑モ此地ハ麹町区三年町ニ在リ旧延岡藩邸ノ遺趾ニシテ面積約1万2千坪本校舎ハルネイサンス式二階建ニシテ之ヲ中心トシテ博物館実験室工作場生徒館等前方及フィ左右ニ排地セラレ堂々トシテ虎之門濠頭ニ聳ユ総テ煉瓦造ニシテ宏壮偉観ヲ極ム是ニ於テ土木機械電信造家化学鉱山冶金ノ諸学科備ハリ尋イテ造船学科ヘ俊才輩出ス明治18年(1885)工部省廃セラレタルヲ以テ文部省ノ所管トナリ翌明治19年(1886)帝国大学令ノ発布セラルルニ及ヒ工科大学トナリ綜合大学ノ一部ヲ為ス後本郷区ノ新校舎成ルニ及ヒ之ニ移り虎之門ノ土地諸建造物ハ挙ゲテ宮内省ノ所管ニ帰シ或ハ帝室博物館ノ倉庫トナリ或ハ維新史料編纂事務局東京女学館等ニ使用セシメラル大正12年関東地方大震火災ノ起ルヤ諸建造物皆甚シク害ヲ被リ復用フ可カラサルニ到ル既ニシテ帝都復興ノ事業始マルニ及ヒ旧地ヲ掃清シテ文部省会計検査院華族会館東京倶楽部東亜文化学院等ノ諸建造物新ニ此ニ経営セラル両シテ遂ニ一物ノ旧容ヲ留ムルモノナシ我等工部大学校出身者ハ頗ル懐古の情ニ堪ヘサルモノアリ及チ相謀リテ小記念塔ヲ作り之ニ石版ヲ嵌入シテ此一大学園ノ由来ト処在トヲ記ス庶幾クハ聖跡ト史蹟トヲ永ク後世ニ伝フルヲ得ン工学博士大熊喜邦夙ニ思ヲ之ニ致シ辛苦シテ当時ノ遺物ナル煉瓦石材鋼材等ヲ拾集シ以テ此塔ヲ作成ス塔ノ位置ハ蓋シ本校舎左翼館ノ中央ニ当ルト云フ
   昭和14年(1939)4月
        工部大学校出身虎之門会作之
           虎之門会員工学博士 曽禰達蔵撰



Historical Relic Designated by Chiyoda City as a Tangible Cultural Heritage
Monument to the Old Kobu Daigakko (Imperial College of Engineering)

The Kasumigaseki Common Gate and its surroundings constitute the birthplace of engineering education in Japan.Kogakko an engineering college,was opened in 1873 to develop domestic humanresources for industry.It was renamed Kobu Daigakko in 1877,and courses in civil engineering,mechanical engineering,architecture ,etc.,were taught by foreign instructors invited from abroad .In 1886,the college was moved to Hongo.

The college's old premises were subsequently used as a school and museum before being destroyed in the Great Kanto Earthquake in1923.Then, in 1939,graduates of the college built this monument using bricks and other remains of the destroyed building.

The Monument to the Old Kobu Daigakko is a reminder of Japan's first engineering educational institution,which wad edtablished in Chiyoda City,and the history of the city's severe suffering from the great earthquake.

March 1994
                                         Chiyoda City Board of Education
                                                 (Repaired in Octover 2010) 



所在地 千代田区霞が関3-8-1 (虎の門三井ビルディング)

 洋学者子安峻(こやすたかし)らが 当時虎の門外琴平町1番地の旧武家屋敷に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治7年(1874)11月2日である
 江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号とし 漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで「千里を走る虎の門 ことにひらがなは一番なり」と歓迎された
 維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞史上類例のないことである

   昭和49年(1974)11月 東京都港区教育委員会


所在地 千代田区霞が関3-8-1 (虎の門三井ビルディング)

 国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台
  National Historic Sites
   Site Edo Castle Outer Moat
    Masonry wall at the Turret Tameike
         (指定:昭和31年〔1956〕3月26日付)



 この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。この地域の堀は明治時代に埋められましたが、これらの石垣によってかつての外堀をしのぶことができます。



 江戸城外張りの隅櫓は、このほかに筋違橋門と浅草橋門だけにあり、唯一この石垣だけが現存しています。これらの櫓は、江戸の南北をかんな通する主要道に面しており、特に2つの櫓を置くこの地域は、江戸初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にあたります。この石垣は、江戸城防備の要衝とともに、都市政策上も重要な地域であったことを示しています。

 平成21年 文化庁・千代田区



 江戸城外堀跡は、寛永13年(1636)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠のうち、史跡指定された約4kmの範囲です。この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。


所在地 千代田区霞ヶ関

この坂を霞が関坂といいます。中世のころ関所がおかれていたとされ、景勝地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起りとなっているようです。江戸時代は広壮な諸大名の屋敷が建ちならんで錦絵にも描かれました。いまでは霞が関というと中央官庁街の代名詞となっています。
 昭和51年(1976)3月 (平成22年〔2010〕1月補修)
 千代田区教育委員会


所在地 千代田区霞が関1-3 (経済産業省) 

 明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌明治23年(1890)11月第1回 帝国議会が開かれました。議事堂は、仮議事堂として、この地(旧麹町区内幸町2丁目1番地)にたてられました。明治23年(1890)11月25日、はつの議会召集があり、当日の光景を東京日日新聞は次のように伝えています。25日の曙の空ほのぼのと明け初めて午前7時ともなる頃、両議院の門前は早や人の山をなせり。予ての手筈にや警史は院の内外より、一方は練兵場に、二方は新しい橋を渡りて久保町通りの四辻まで五十米を隔てて警備し、猶往来の雑踏を制せんとてか住還の道路を左右に分けて通行せしめぬ。総ての体嘻々たる裏に、厳粛々たる様ありて、あわれ第一期帝国議会召集の景況よと見受けられたり。さる程に旭日影ゆたかに昇りて時計の針8時を指す頃ともなれば、当日召集の上下両院議員諸氏引続き参院ある。貴族院なるは多くは馬車にて、衆議院なるは人力車なり(一部)
 29日、明治天皇臨席のもとに開院式がおこなわれました。ところがこの会期中の翌明治24年(1891)1月20日、衆議院柄出火し、ペンキ塗り木造建物のためほとんど全焼してしまいました。このため貴族院は華族会館に移り、衆議院は東京女学館にうつったといいます。
 焼失跡への議事堂は明治24年(1891)11月完成しました。建物坪数は両院あわせて3,194坪(10540平方米)木造2階建てでありました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区


所在地 千代田区霞が関3-2 (文部科学省)


国指定有形文化財(建造物)
 旧文部省庁舎
     平成19年(2007)10月2日指定



設計 旧大蔵省営繕管財局

施工 大林組

構造・規模 鉄骨鉄筋コンクリート造 6階建 
        スクラッチタイル貼



 建物内には『旧大臣室(復元)』があります。


所在地 千代田区霞が関3-8-1先

贈正四位江藤新平君遭難遺址碑
明治二年十二月二十日中辧従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸會西岡逾明荒大博臣在座晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩暴客狙撃君躍身避溝中三人間急提刀走出護君入邸招醫療創先是君為藩權大参事革藩制編入下士於卒伍下士深含之所以及此也藩知事鍋島侯命吏追捕刑之 勅使慰問賜金若干君歴任要功績不尠聲望倍崇及征韓論起不能全終惜哉四人者皆余舊交也頃博臣子三雄来曰先考得江藤氏推輓任司直累進二等官正四位遺族頼其餘恵先考嘗有建碑於遭難地之志不果而卒今欲繼遺志請紀之余嘉其擧畧叙若此

  大正五年六月  正二位勲一等伯爵土方久元篆額
             正三位勲一等股野琢撰弁書


所在地 千代田区霞が関3

この坂を三年坂といいます。『東京名所図会』には”三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とす。又淡路坂ともいい、一に此処を陶山が関という”とあり、さらに”栄螺尻、裏霞ヶ関と三年坂の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び虎の御門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる逆の名なり、亦此辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり”とかかれています。
  千代田区 昭和51年(1976)3月


所在地 千代田区霞が関

 この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
 霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
 千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
 また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。
 平成12年(2000)3月建替 千代田区教育委員会



所在地 千代田区霞が関3-2-2 (文部科学省) 

 旧大臣室(復原)
旧文部省庁舎(昭和8年〔1933〕7月竣工)の3階に位置する大臣室については、現存する写真資料等をもとに、創建時の姿に復原しました。創建以来、部分的な改修・改造は行われていますが、七十有余年の間、大切に使用され今日に至っています。この部屋で、歴代大臣が我が国の文部科学行政の重要な方針や政策について検討し、意思決定を行ってきました。大臣の机や棚などの室内の調度品は、実際に歴代大臣が使用されてきたものです。なお、この大臣室で執務した最初の文部大臣は、鳩山一郎です。







 初代文部大臣 森有禮(礼) (弘化4年〔1847〕~明治22年〔1889〕)
弘化4年(1847)鹿児島生まれ。初代文部大臣就任までの間、近代学術団体明六社や商法講習所(現在の一橋大学)を設立するなど、封建思想の排除と近代思想の普及に努めました。
初代文部大臣就任の翌年には、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令等を公布するなど、近代教育制度の基礎を築きました。

 初代文部大臣森有禮と「自警」
明治18年(1885)12月、内閣制度の創設とともに初代文部大臣に森有禮が就任しました。森有禮は、初代文部大臣に就任後、全国の教育学問の行政を総括する文部省の責任の重大性を明らかにし、その覚悟を述べた「自警」の書を自ら表しました。現在も、大臣室をはじめ局長室等の幹部の執務室に、その写しが掲示されています。
 
   「自警」
文部省ハ全国ノ教育学問ニ関スル行政ノ大権ヲ有シテ其任スル所ノ責随テ至重ナリ 然レハ省務ヲ掌ル者ハ須ラク専心鋭意各其責ヲ盡クシテ以テ学政官吏タルノ任ヲ全フセサル可カラス 而テ之ヲ為スニハ明ニ学政官吏ノ何モノタルヲ辨ヘ決シテ他職官吏ノ務方ヲ顧ミ之レニ比準ヲ取ルカ如キコト無ク一向ニ省務ノ整理上進ヲ謀リ若シ其進ミタルモ苟モ之ニ安セス愈謀リ愈進メ 終ニ以テ其職ニ死スルノ精神覚悟セルヲ要ス
 明治19年(1886)1月 有禮自記
  「自警」(解釈) 
文部省は、全国の教育学問に関する行政の大権を有しているので、その責任は大変に重いものである。
 したがって、文部省の職務を担当する者は、専心誠意その責任を尽くして、学問をつかさどる行政官吏の任をまっとうしなければいけない。そしてそのためには、学問をつかさどる行政官吏であることをわきまえ、決して他の官吏と比べることはせず、ひたすら文部省の職務に熟達することを計り、あある程度になったからといっても満足しないで、もっと、もっと上に進むよう努力し、最後にはその職に死んでもいいくらいの精神を自覚することが必要である。


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