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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区九段北・千代田区九段南・千代田区北の丸公園

 この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。『新撰東京名所図絵』には「九段坂は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段屋敷といひしより此阪をば九段坂といひしなり。今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ名所としても名高かったようで、1月26日と7月26日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。

  平成13年(2001)3月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区九段北1丁目

 江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時17軒程の部落でした。

 江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。

 ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。

 

所在地 千代田区九段北1-3

 滝沢馬琴は寛政5年(1793)27歳の時から、文政7年(1824)58歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。

 自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。 


                                         第一鳥居

所在地 千代田区九段北

                                     
                                 第二鳥居と神門


                                         中門と拝殿

 

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 ラダ・ビノード・パール博士は、昭和21年(1946)年5月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和23年11月の結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な資料の分析に没頭されました。博士はこの裁判を担当した連合国11カ国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の分明史的見識の持主でありました。
 
博士はこの通称『東京裁判』が、勝利におごる連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復習の儀式に過ぎないことを看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。
 
その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学界に於ける定説と認められたのです。
 
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝へんとするものであります。
  
平成17年(2005)6月25日 靖国神社 宮司 南部利昭

< 意見の結語 >

 時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう
    ラダ・ビノード・パール 



1886.1.27     インド、ベンガル州ノディア県にて生誕
1911       カルカッタ大学法学部卒業
1923~1936 カルカッタ大学法学部教授
1927~1943 インド政府法律顧問 インド高等裁判所判事
1944~1946 カルカッタ大学 副総長
1946~1948 極東国際軍事裁判インド代表判事
         日本被告全員の無罪を判決
1952~1967 国際連合国際法委員会委員
          1958.1962は委員長
1966      日本政府より勲一等瑞宝章受章
1967.1.10   カルカッタ(現在のコルカタ)にて逝去 享年82歳

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 戦没者に水を捧げる母の像

戦没者の多くは 故国の母を想い 清い水を求めながら
息を引き取りました
この彫刻は 清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を
抽象的に表現したものです
また この母の像の外壁は 日本古来の宮や社にある固有の
簡素なたたずまいを表します
そして背後には 第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して
展示しております
 建設 昭和42年(1967)4月18日
 
改修 平成16年(2004)3月16日
            奉納  社団法人東京キワニスクラブ

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 昭和6年(1931)9月満洲事変勃発以降、昭和20年(1945)8月大東亜戦争終結までの間、シェパードを主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一線で活躍し、その大半は、あるいは敵弾に斃れ、あるいは復病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。
この軍犬の偉勲を永久に伝え、その忠魂を慰めるため、有志相はかり広く浄財を募りこの像を建立した。
   平成4年(1992)3月20日  動物愛護の日
           財団法人偕行社
           靖国神社奉賛会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 明治7年(1874)10月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計学舎は幾度かその名稱を変え明治40年(1907)海軍経理学校となった。
この間校舎も数度位置を変えて、明治21年(1888)に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和7年(1932)同じ築地の隅田川河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。
昭和20年(1945)9月、71年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦没事変に際会して國に殉じた者も多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆発展に多大の貢献をしている。
  昭和55年(1980)5月 浴恩会(海軍経理学校同窓会)

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年(1940)6月竣工の「占守」を第1号艦として、さきの東亜戦争終結までに未就役10隻を含め建造数189隻にのぼった。
 
要目は全長約70m 排水量約800t 乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜滞空兵器をもち操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 
乗組員延統数3万余、士官に海船学校出身者、学徒出身者、ここよりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 
十分な訓練を受けるいとまなきまま。北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 
ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  
昭和55年(1980)5月5日 海防艦顕彰会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。
 
又昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや神殿を挺身護持したのも憲兵であった。然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを忘れてはならない。
 
靖國神社御創立100年に当る昭和44年(1969)4月6日この功績を顕彰し後世に伝承するため全国憲友会連合会より当社に同碑が奉納され、更に同会創立40周年の平成5年(1993)4月8日にはその記念事業として会員一同、建立当時を振り返り憲友幾万の心の碑であるこの碑が永久に護持され且つ靖國の御社頭の永遠なる御安泰を願って真心籠る多額の基金が寄せられた。



所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 招魂齋庭は、神霊を本殿へ奉祀するに先立って、予め御魂を招き奉る齋場である。
 
齋庭の設定は、明治7年(1874)8月、第2回の合祀祭にはじまり、その場所は既ね現社務所所在地にあたっていたが、明治36年(1903)拝殿の南側に移し、明治38年(1905)5月の臨時大祭からその地を齋庭とした。



 しかるにこの齋庭は、支那事変の勃発に伴い、規模狭小、参列者並びに合祀祭神遺族の激増により、種々支障を来たすようになったので、昭和13年(1938)4月、此の地に齋庭を遷し、大東亜戦争中及び戦後合祀の際の齋場とした。
 
その面積は700坪(約2300㎡)正面に鳥居を設け、庭内には清砂を敷きつめ、中央一段高い所に縦三間(約5.5m)横四間(約7.3m)の浄域を定め、招魂祭にあたっては、此所に黒木造りの假殿が設けられた。
 
齋場の鳥居、燈籠、標柱、植樹等一切は、東京市連合女子青年団員の奉納により、標柱の『招魂齋庭』は、第三代宮司賀茂百樹の揮毫によるものである。

 昭和20年(1945)11月20日、この齋庭に天皇殿下の行幸を仰ぎ奉り当神社史上最大の臨時大招魂祭が齋行された。
 
昭和60年(1985)、上齋庭のうち浄域のみを縮小保存し、その大部分を駐車場として使用するにあたり、当神社史蹟の一環としてその変遷を記し、後世に傳えるものである。
  
靖国神社

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

『常陸丸殉難記念碑』
            元師伯爵東郷平八郎書

 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸(ひたちまる)に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃(たお)れた。
 
野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 
武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
  
昭和61年(1986)6月15日
             殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
                       
常陸丸遺族会
                                   全国近歩一会

 碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

名勝 靖國神社 神池・庭園 

 この庭園は明治時代を代表する名園で、維新直後の明治5年(1872)頃より着手されたものです。滝石組は明治11年(1878)に完成しており、当時四谷から玉川上水を引いていたこともわかってきました。その後、明治37年(1904)に二つの中島も作られ、現在の姿が完成しました。茶席「靖泉亭」「洗心亭」は昭和30年代に建てられています。

 主景である滝石組は、深山幽谷を思わせる一大渓谷美で、数ある日本庭園の中でも有数の名作といえます。この左上には獅子頭を思わせる奇石があって、左手の築山が獅子の築山とされているのは、古庭園中でも大変珍しいことです。

 
靖泉亭

 中島東部にある切石橋は6mを超える貴重な作で、また中央の阿波青石橋は神池の中心的な景となっています。大島南部にある石浜は、鬼怒川石を用いて復元されたもので、美しい水景が見られます。

 洗心亭

 特に池泉を引き立てているのが
、南部中央にある岩島(蓬莱岩島ほうらいがんとう)で、どの角度から見ても美しい八方正面と遠近法造形美を見せています。
 
西南部の入江もよく保存されておりますが、新たにその奥に隠れ滝を設け新鮮な水を供給しています。
  
日本庭園研究会会長 吉河功
                           靖国神社


 < 錦鯉献納の主旨 > 
 
上越新幹線の開通を記念して新潟県特産の錦鯉を靖国の神池に献じ、英霊のご冥福と国土の豊穣を祈願すると共に、御参拝の方に錦鯉の美を観賞され、憩のひと時を過されます様願うものであります。
  昭和57年(1982)12月20日 遥山書
          新潟県靖国神社錦鯉献納奉賛会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 安政元年(1854)、伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦デイアナ号は、大地震の津波により座礁した。
 
乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した。
 後露国政府はデイアナ号の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。
 
本砲はその一門である。

    口径  160mm
    
全長 2570mm 

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この砲は安政元年(1854)、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。

 口径  250mm
 全長 3830mm

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この砲は嘉永2年(1849)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條を施した。

 口径  290mm
 全長 4220mm

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 明治初期から昭和20年(1945)8月15日の終戦に至るまで、幾多の戦役にかり出されおよそ100万頭の馬が戦陣に斃れた。軍馬補充部で育成された軍馬や農家からの購買または徴発馬が、斥候、行軍、戦闘のため戦場を駆巡る乗馬として、あるいはいかなる難路にも屈せず重い火砲を引く輓馬、軍需品を背負い搬送する駄馬として戦地に赴いた。
 
御国のために戦場を駆巡り、屍を野辺に晒したもの数知れず、終戦まで生き長らえても、再び懐かしい故国に還ったのは僅か1,2頭である。山紫水明の生まれ故郷を思い起こしたことであろう。それでも黙々として生を終えた。
 
この馬像の作者・伊藤国男氏(明治23年・1890~昭和45年・1970)は生涯に千数百点もの馬像を手掛けた彫塑家である。同氏は戦場において輝かしい功績を遺した戦歿馬のことが脳裏から一時も離れず、私財を傾け鎮魂の証としてこの像を制作、靖国神社に献納したが、台座に費やす財はなく、数年間建立されることはなかった。
 
かつて馬術の選手として2回もオリンピックに出場し、戦後は皇居内の乗馬クラブで教官を務めた城戸俊三氏は、この話を聞くや早速、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年(1957)4月に戦歿馬慰霊像奉献協賛会を結成、広く浄財を募り、翌昭和33年(1958)4月7日に建立除幕式を行い、靖国神社に奉納した。
 
台座の「戦歿馬慰霊」の揮毫は元皇族の北白川房子様の染筆である。
 以来、毎年桜花爛漫の4月7日を「愛馬の日」とし、《戦歿馬慰霊祭》がこの場で行われる。

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年(1866)、第2次長州征伐の折に、石州口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同11月5日大阪にて歿した。46歳。

 明治2年(1869)6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖国神社創建者としての功績は大きく、明治15年(1882)、伯爵山田顕義らにより銅像が建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作がが委嘱された。
 
大熊氏廣は明治9年(1876)、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、明治15年(1882)に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻製作に従事、明治十八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年(1893)にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 第一次世界大戦は、4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年(1917)3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストラリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の車に投降し、連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウライオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等にの各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
 日本から第十二師団がはけんされることとなり、大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支援が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正8年(1919)2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名のの外全員戦死した。支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共にした。
 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を慰めるため昭和9年(1997)2月26日、九段坂下に建立されたものを平成8年(1996)9月3日現在地に移設したものである。
 本碑台座部分には、大正8年(1919)2月27日、第十二師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和43年(1968)2月27日再建復刻)が刻まれている。
  平成8年(1996)9月3日 歩兵第七十二聯隊戦友会
                    靖國神社

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車態 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
 その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
   平成17年(2005)6月28日
        財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 強くきびしく
 やさしかった母
 おかげで私がある
 お母さんありがとう
 私たちのかなしみが
 くりかえされることの
 ないように
  昭和49年(1974) 日本遺族会青年部



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