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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区紀尾井町3-27 (剛堂会館ビル)

 明薬は明治35年(1902)4月医薬分業確立を理念として学祖恩田重信先生により創立され明治40年(1907)7月現在地に明治薬学校校舎を建つ

 爾来震災戦災のため麹町笹塚野沢田無と変遷するも今日の大明薬に発展せしは創学精神の継承による茲に発祥の地を明記する碑を建て母校の発展を祈り明薬史の道標となす

 昭和51年(1976)6月吉日

   明治薬科大学同窓会 明薬会

                 会長 太田哲郎

 

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所在地 千代田区紀尾井町3

寒椿眼に沁(し)む朝(あした)予算成る

       学校法人城西大学

            創立者  水田三喜男

 

 本学の創立者水田三喜男先生は、明治38年(1905)4月3日、千葉県安房郡曾呂村(現鴨川市西)に生まれ、京都帝国大学を卒業。

 第二次世界大戦後の荒廃した我が国の復興のために、戦後最初の衆議院議員選挙に自由党より立候補して初当選、爾来連続当選13回、自由民主党政調会長、吉田内閣の経済審議庁長官、石橋内閣・岸内閣の通産大臣、池田内閣・佐藤内閣の大蔵大臣などを歴任、30年にわたって国政に参与された。

 

 先生は「国の礎は教育にある」との信念から、昭和40年(1965)4月、「学問を通しての人間形成」を建学の理念として、城西大学を創立、若い人々の教育と将来の日本社会を担う人材の育成に心を尽くされた。

 これらの功績により、先生は昭和51年(1976)、勲一等旭日大綬章を受勲されたが、同年12月22日没、享年72歳。

 本学の創立40周年にあたり、我々一同は心を合わせて創立者水田三喜男先生の事績を顕彰し、生前、「京子(きょうし)」という俳号でこよなく俳句を愛された先生を偲んで、この句碑を建立する。

   平成17年(2005)11吉日

                  城西大学同窓会

                  城西大学父母後援会

                  城西国際大学同窓会

                  城西国際大学父母後援会 



所在地 千代田区紀尾井町~港区 

橋下  弁慶堀

 文化財  弁慶橋・弁慶堀

 この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。

 ところで、ここには江戸時代は橋が架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。

 ここに、橋が架けられたのは明治22年(1889)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治18年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。



 和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。

 現在の橋は、昭和60年(1985)12月に改築されたもので、全長41.06m、幅22mです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。

  平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区紀尾井町

 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。

 紀伊徳川家は、徳川家康の十男便頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。

 明治5年(1872)、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


所在地 千代田区紀尾井町

 紀尾井町きおいちょうを南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上った交差点の辺りは江戸時代から「清水谷しみずだに」と呼ばれてきました。



 尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。
 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。
 平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区紀尾井町2

 清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。
 清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年(1889)5月、都市計画決定し、明治23年(1890)3月に開園しました。
 開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。



 園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。
 自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。




 園内には『大久保利通公哀悼碑』、『江戸水道の石枡』、『
秋元裕氏顕彰碑(偕香苑)』があります。


所在地 千代田区紀尾井町2-1 (清水谷公園)

 清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治23年(1890)に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。
 昭和31年(1956)都立公園となり、昭和40年(1965)、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。
 移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」を昭和59年(1984)に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。
 平成18年(2006)3月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。



 千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。
 秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。
   平成18年(2006)5月 千代田区


所在地 千代田区紀尾井町2-1  (清水谷公園)

 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)
               平成4年(1992)4月指定

 明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう、金井之恭かないゆきやす、奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
  平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会



  大久保利通公記念碑の裏面碑文内容の説明

 ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。
 大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。


所在地 千代田区紀尾井町2-1 (清水谷公園)

 この石枡は、昭和45年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町3-2先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
 江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応2年(1653)に着工され、翌承応3年(1654)6月に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋もくひ
による暗渠あんきょとなり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
 発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。このように当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
 なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館(千代田区四番町1)で保管されています。
  平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区紀尾井町1

 左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。


所在地 千代田区紀尾井町1

  史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附(みつけ)」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門(ますがたもん)」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城田安門桜田門には同じ形式の門をみることができます。

 高麗門

 赤坂御門には、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之(くろだただゆき)により、この枡形石垣が造られ、寛永16年(1639)には御門普請奉行(ふしんぶぎょう)の加藤正直(かとうまさなお)・小川安則(おがわやすのり)によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。



 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年(1991)に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線(現 東京メトロ南北線)建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されたいます。

  千代田区教育委員会


所在地 千代田区紀尾井町4-1 (ホテルニューオータニ)

 近江彦根藩井伊家屋敷跡



 この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
 井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした井伊直弼は、特に有名です。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


     Site of the Omi-Hikone-Ii domain family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion of the Ii family.The mansion stood here through most of the Edo period(1603-1867).Ii family members were top"fudai"hereditary vassals.Ii Naosuke was a famous chief minister of the shogun in the final days of the Tokugawa Shogunate.After the Meiji Restoration(1872)this destrict became known as Kioi-cho,after the first initials of the Kii-Tokugawa,Owari-Tokugawa and Ii families.
 カヤ

所在地 千代田区紀尾井町4-1 (ホテルニューオータニ)

千代田区指定天然記念物
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
 平成21年(2009)4月1日指定

 カヤ

 旧牛込門から旧赤坂門までの延長4kmの国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテルニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ、タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
 正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期に遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に成育していた樹木であることが確認されました。
 千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されない千代田区内にあって貴重なものです。
    平成21年(2009)10月 千代田区教育委員会

 イヌマキ

  Trees from the residences of the feudal lord of family
Hotel New Otani is situated within a historical area,what used to be the outer moat of the Edo Castle.Its garden features many trees that date back more than a century,of which two of the most remarkable are the Japanese Nutmeg (Torreya Nucifeta)seen directly ahead,and the Yew Plum Pine(Podocarpus Macrophyllus)standing beside the path further on.From the growth rings,these two trees have been accessed to be over 200 years old.Thus these trees are confirmed to have existed from the time this land was part of the residence of the feudal lord Ii family during the Edo era(1603-1868).
 
Chiyoda city,being a historical area with the remains of Ido castle and numerous Daimyo residences,had once been lush with greenery and magestic trees.However,today,trees dating back to the Edo era are very scarce and thus these two trees within the grounds of Hotel New Otani are of particular value.


所在地 千代田区紀尾井町6-12 (紀尾井町福田家ビル) 

 尾張名古屋藩徳川家屋敷跡



 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


     Site of the Owari-Nagoya domain Tokugawa family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion built by Yoshinao,the ninth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu.The shogun's tenth and eleventh sons,Yorinobu and Yorifusa, along with Yoshinao,were appointed as "daimyo",feudal lords.They were part of the "Gosan-ke"which gave them the right to potentially become the shohun.Yoshinao's family was called the Owari-Tokugawa.After the Meiji Restoration(1872)this destrict became known as Kioi-cho,after the first initials of the Kii-tokugawa,Owari-Tokugawa and Ii families.


所在地 千代田区紀尾井町6

 この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。」また「紀尾井坂は紀伊家尾張家井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。
 千代田区
 昭和50年(1975)3月


所在地 千代田区紀尾井町

 喰違見附跡



                             喰違外『絵本江戸土産』

 喰違見附跡は、江戸時代初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。
 この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。
 平成21年(2009) 千代田区


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