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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。

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所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

東京都指定有形文化財(建造物)  
 
旧日比谷公園事務所
     平成2年(1990)3月22日指定

 旧日比谷公園事務所(東京都公園資料館)は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910)11月に竣工した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。
 
建物の規模は桁行12.6m、梁間7.2m。現在、内部は一階部分に倉庫・物入・厨房・便所、二階部分にベランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。
 
昭和51年(1976)に公園資料館として使用するため内部を改造しているが、構造の躯体、軸組、外観の変更は僅かでよく旧態をを留め、二階の展示室にある腰板・棹縁天井・ベイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残りがある。
 
この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒(しょうしゃ)な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。
     
東京都教育委員会

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この石柱は、明治8年(1875)築造された京橋の欄干柱(らんかんばしら)で、大正11年(1922)架け替えの際にここに移されたものです。
 
当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年(1934)京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 スカンジナビアの人々が、1957年2月24日ヨーロッパより北極経由で、日本への空路を開拓しました。この碑は、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑を模したものです。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 今から3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質(けいさんしつ)の液がしみこんだものを珪化木といいます。
 
北九州の炭田では、炭素中に珪化木が含まれ、これを松石または松炭と呼んでいます。
 
ここにあるものは、昭和初期、福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 心字池は日比谷公園ができる前は濠でした。
 その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。
 このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。
 心字池は開園前の濠を偲び造られ、開園当初からの面影を残す伝統的な日本庭園です。池の周辺は、周囲の森と共にシラサギやカモなどの野鳥の生息場所になっています。また、6月にはハナショウブが咲き、冬には松の雪吊りが見られます。池の中央にはカメの形をした小さな『カメの噴水』があります。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。
 一般に、1.直径の大小 2.表面が滑らかか粗いか 3.形のよしあし 4.運搬の難易によって価値が決められました。
 
この石貨は直径1.35m短径1.00mのほぼ円形で、大正13年(1924)頃、1000円位で通用したと言われています。
  
大正14年(1925)1月 ヤップ島支庁長寄贈

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
 
明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、永く保存するためこの日比谷公園に移されました。

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。
 
ちなみに1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園
 
当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。 

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この石は、南極昭和基地から4kmの地点にある、東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取しました。重さは150kgの片麻岩(へんまがん)です。
 
南極観測船『ふじ』が持ち帰り、昭和41年(1965)4月14日、日比谷公園に設置されました。

所在地 千代田区日比谷公園1-3 (日比谷公園)

東京都選定歴史的建造物

 設計者 佐藤功一
 
建築年 昭和4年(1929) 

 大正9年(1920)に東京市長に就任後、東京市政のための中世独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正11年(1922)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。
 
建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計をもとに、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和4年(1929)に竣工した。全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。一部の窓に使われた黄色テラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけている。
     
東京都

 

所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 日比谷公園開設当時(明治36年)の照明灯(アーク灯)と、同じデザインで作られた鋳鉄製の水飲みです。陸上交通の重要な部分をになっていた馬が、水を飲んだといわれています。

  この水飲みは、日比谷公園開設当時〔明治36年(1903)〕のものです。
 鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。
 また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。
 



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この元アークライト灯は、開園当時の公園灯で、園内には10基設置され、1200燭光の明るさがあったといわれます。これ以外はガス灯70基が設置されていました。
 右手にある水飲み場と同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっており、両方とも明治の記念物として1基づつ園内に残っています。



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

    鴎かもめ

うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻。
     1986 作者 淀井敏夫


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 昭和40年(1965)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原さいとばる古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体を東京都に贈られました。
 宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ  たくさんの古墳がありますが  その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ園で  第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園のなかにあります。
  昭和40年(1965)8月21日
           宮崎県知事 黒木博


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 東洋の偉人 ホセ・リサール博士 記念碑

フィリピンの国民的英雄 ホセ・リサール博士

1888年この地 東京ホテルに滞在す

      1961年6月19日 建立


       DR.JOSE RIZAL
NATIONAL HERO OF THE PHILIPPINES
               STAYED IN 1888
             AT TOKYO HOTEL
         LOCATED AT THIS SITE
                            UNVEILED JUNE 19,1961



     社団法人 日本リサール協会(RIZAL SOCIETY OF JAPAN)
       東龍太郎
       神保信彦
       木村毅

     比国駐日大使
       マヌエル・アデバ


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 自由の鐘は1776年米国の独立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。しかし、この鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての国とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米国民間の匿名有志はその複製を連合軍総司令官リッジウェイ大将に託し、これを広く日本国民に贈りたいと申出た。よってリッジウェイ大将は自由の擁護者たる新聞を通じ広く日本国民に贈ることが最も寄附の趣旨に副うものとして昭和27年(1952)4月日本新聞協会に寄贈された。日本新聞協会には日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し広く国民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
  昭和27年(1952)10月 社団法人日本新聞協会



DEDICATED TO YOU,A FREE CITIZEN IN A FREE LAND

THIS REPRODUCTION OF THE FAMOUS LIBERTY BELL IN INDEPENDENCE HALL,PHILADELPHIA,WAS PRESENTED TO THE PEOPLE OF JAPAN BY A GROUP OF AMERICAN COMPANIES AT THE SUGGESTION OFGENERAL DOUGLAS MacARTHUR.THIS PRESENTATION WAS ARRANGED BY THE HONORABLE JOHN W.SNYDER,SECRETARY OF THE UNITED STATES TREASURY.

THE DIMENSIONS AND TONE ARE IDENTICAL WITH THOSE OF THE ORIGINAL LIBERTY BELL WHEN IT RANG OUT THE INDEPENDENCE OF AMERICA IN 1776,BECOMING THEREBY A SYMBOL OF FREEDOM TO NOT ONLY AMERICANS BUT ALL MANKIND.

IN STANDING BEFORE THIS SYMBOL,YOU HAVE THE OPPORTUNITY TO DEDICATE YOURSELF,AS DID THE FOUNDING FATHERS OF THE UNITED STATES,TO THE PRINCIPLES OF FREEDOM WHICH YOU SHRE WITH FREE CITIZENS EVERYWHERE.



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点脇)にあったものです。
 明治32年(1899)頃、道路拡張の為、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた、日比谷公園生みの親、本多静六ほんだせいろく博士が東京市参事会の星享ほしとおる議長に面会を求め、博士の進言により移植されました。
 移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行された木なので、この呼び名があります。



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

 この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
 素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。



所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

   日比谷見附跡
 この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
 城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
 当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていました、公園造成時の面影を偲び、心字池(しんじいけ)としました。



This stone wall is a part of Hibiya Gate,one of fhe outer defenses of the Edo Castle.
Outsaide of the castle,theKoma gate,square,turreted passageway,and guardhouse used to be surrounded by the stone wall,but only part of the stone wall remains today.
On the west side of the stone wall was the moat ,which was later converted into Shinji-ike Pond and recalls the appearance at the time the Park was constructed.


所在地 千代田区日比谷公園 (日比谷公園)

   三笠山
 この小丘を含むテニスコート西側の一帯は三笠山と呼ばれています。
 公園造成時に池などを掘った残土で作られた人工の山で、その当時は全体が三つの笠をふせた形に似ていたのでこの名が付いたといわれたいます。
 その後、テニスコートの造成など周辺の整備に伴い、山の形は変わりましたが、三笠山の名は残りました。


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