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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区鍛冶町1・2丁目

 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。
 神田掘は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 
昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 
下図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
  平成4年4月吉日



 すぐそばに『今川橋跡碑』があります。

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所在地 千代田区鍛冶町1-10-4

 国指定登録文化財
丸石ビルディング
    (旧太洋ビルディング)
             平成14年(2002)2月14日指定

中央区との区境、旧龍閑川沿いに立地するオフィスビル。設計は、山下寿郎。昭和6年(1931)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)、地下1階付地上6階建。一部が同8年(1933)に増築されている。1階は石貼、2階以上は主にスクラッチタイル貼の外装であります。また1階開口部のアーチ迫石や付柱の柱頭を動植物のレリーフで飾っています。

所在地 千代田区鍛冶町1-8

 このお稲荷さんは何時頃から此の地に祭られたか記録がないのでさだかではありません。
 
古老の話によりますと「昔から俗に『伊勢屋、稲荷に犬の糞』と謂われて江戸時代には神田日本橋の町内には、お稲荷さんと伊勢屋は必ずあったそうだ。従って江戸時代の末期頃ではなかったか」という事でした。
 
明治41年(1908)にこのあたりで続けて三件の火災が発生し、誰れ言うとなく「お稲荷さんを粗末にしたせいではないか」と早速、町内有志が集まって荒れ果てていたお宮や境内を清掃修復し、改めて豊川稲荷赤坂別院より導師をお迎えし、御祈祷を願い、それからは豊川稲荷の末社となり、商栄講を組織して、毎年2月の午の日にはお祭りをする様になりました。それ以後火災はピタリとなくなり、その後に関東大震災(1923)、第二次世界大戦と二度の災厄に焼失しましたが、その都度町内一同の努力をもって復興しました。
 
今回も新しい街づくりの為やむなく取り壊されましたが信仰厚い皆様によって再建され町内各位の『家内安全』『商売繁昌』の守護神として今もなお崇敬を集めて居ります。
  
平成3年(1991)11月吉日 神田商栄講



所在地 千代田区鍛冶町2-3-3 (神田中央通ビル)

 明治27年(1894)堀井新治郎父子が我が国初の簡易印刷機を発明し「謄写版」と命名、発売と同時に鍛冶町の此の地に謄写堂を創業した。



所在地 千代田区鍛冶町1-5-7 (江原ビルディング)

 今川橋跡碑
元禄4年(1691)この地、東西に堀割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と堀割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きくかんだの職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の協会として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和25年(1950)竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。
 平成元年(1989)1月吉日 鍛冶町1丁目町会
 場所提供者 江原富夫氏


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