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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区外神田1丁目 神田須田町1・2丁目

 この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約150m上流に筋違橋門に附属する橋がありました。明治5年(1872)に門が解体されとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが目鏡のようなので、目鏡橋の愛称で呼ばれました。
 
明治36年(1903)に元万世橋と改称しましたが、明治39年(1906)に撤去されました。橋名を刻んだ石の親柱は神田神社の境内に保存されています。
 
この場所に初めて橋が架けられたのは、明治17年(1884)のことで、上流の昌平橋が流失したため代用として昌平橋が架けられました。上流の昌平橋が復旧すると、この橋は新万世橋と改称し、明治36年(1903)には鉄橋に改架されて万世橋と再度改称しました。
 
現在の橋は、関東大震災の後の昭和5年(1930)に架け替えられました。
  
平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 荷田東丸は、京都伏見稲荷社家に生る。通称羽倉斎本名信盛なり。
 
元禄13年(1700)3代将軍家光50年祭に勅使として、大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で、享保7年(1722)まで在府せり。
 
その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり。その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり、当時神主は芝崎宮内少輔好高、その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の3代約100年に亘れり、然も好全妻女は東丸の女直子なり、されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽し学園の場を供して国学振興に寄与せり。師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき。
 
殊に元禄15年(1702)、門弟の宗徧流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る。この東丸出てて吾が国学は加茂真渕、本居宣長と伝統して今日に至る。
 
今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ。
     神田神社

所在地 千代田区外神田2-16-2

社殿は登録有形文化財

 社伝によると天平2年(730)、武蔵国豊島郡柴崎村の浜辺(現 平将門首塚 千代田区大手町1-2)創建されました。延慶2年(1309)、時宗二祖真教上人は東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門公の霊を当社に合祀し、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
 
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、当社は徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、慶長5年(1600)9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、家康公の合戦勝利に因み縁起の御守り『勝守(かちまもり)』を授与するようになり、現在でも多くの参拝者に授与しております。徳川江戸幕府が開かれると幕府の深く尊崇するところとなり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し幕府により社殿が造営されました。江戸時代を通じて江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。
 
明治時代に入り東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められ、明治7年(1874)に明治天皇が親しく御参拝になりました。大正時代、関東大震災(1923)による社殿焼失後、昭和9年(1934)に氏子崇敬者の浄財により画期的な権現造の鉄骨鉄筋コンクリート・総漆塗の社殿が造営されました。
 
昭和20年(1945)、東京大空襲が神田・日本橋界隈を直撃しましたが、社殿はわずかな損傷のみで戦災を耐えぬき戦災で苦しむ人々に勇気と希望を与えました。
 
戦後、隨神門などの建造物などが再建され江戸時代にも劣らぬ江戸東京を代表する神社としての景観を整えるにいたりました。さらに平成七年より「平成の御造替事業」として社殿等の塗替・修復及び資料館の造営等が大規模に行われ、平成17年(2005)には境内の整備事業が実施され、鳳凰殿や祖霊社などが新たに造営されました。

  


【 御祭神 】

一の宮 大己貴命(おおなむちのみこと)(別名 大国主命)
          <だいこく様>    平成2年(730)創祀

二の宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
          <えびす様>    明治7年(1874)奉祀

三の宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
          <まさかど様>    延慶2年(1309)奉祀



   【 神田祭 】
 日本三大祭・江戸三大祭のひとつに数えられる代表的な日本の祭です。
 
江戸の昔より、徳川将軍をはじめ江戸庶民の厚い崇敬を受けたことから天下祭・御用祭とも称えられ、神田・日本橋を中心とする町々より36本の勇壮な山車と、それに加え毎回趣向を凝らして人々の目を楽しませた附祭(つけまつり)も加わり江戸城内に参入して徳川将軍の上覧にあずかった由緒ある祭礼です。
 
今日の神田祭は、2年に一度賑やかに行われます。当社の鳳輦・神輿三基をはじめとする平安絵巻さながらの祭礼行列が東京の中心である神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内の氏子108ヶ町を一日がかりで巡行します。また、各氏子の町神輿約200基が街中を練り歩き、次々と宮入参拝する様は実に壮観です。蔭祭の年には、当社の宮神輿が氏子中により担がれ渡御いたします。



 境内には『随神門』、『少彦名命(えびす様)ご尊像』、『大己貴命(だいこく様)ご尊像』、『鉄製天水桶』、『小唄塚・小唄作詞塚』、『水盤』、『力石』、『銭形平次碑』、『石獅子』、『角田竹冷の句碑』、『水野年方顕彰碑』、『籠祖神社』、『籠祖講関係石造物群』、『三宿稲荷神社・金刀比羅神社』、『浦安稲荷神社』、『末広稲荷神社』、『魚河岸水神社』、『小舟町八雲神社』、『小舟町八雲神社の鉄製天水桶』、『大伝馬町八雲神社』、『大伝馬町八雲神社の鉄製天水桶』、『江戸神社』、『国学発祥の地碑』、『阿部宵人の句碑』、『明治天皇御臨幸記念碑』、『献燈台奉献の碑』、『銭形平次の作者 野村胡堂ゆかりの紅梅』、『明神男坂』、『明神女坂』があります。


    Edo Sochinju Kanda Myojin
     Kanda Shirine,the Tutelary Shrine of All Edo
〔Deities Enshrined〕
Ichi-no-miiya(First Shrine):Onamuchi-no-mikoto("Daikoku-sama")
Ni-no-miya(Second Shrine):Sukunahikona-no-mikoto("Ebisu-sama")
San-no-miya(Third Shrine):Taira no Masakado-no-mikoto("Masakado-sama")
Kanda Shrine is formally known as Kanda JInja but is also more popularly called Kanda Myojin.The deities enshrined are the guardian deities for 108 Tokyo neighborhoods,including Kanda,Nihombashi,Akihabara,Ohte-Marunouchi,the Old Kanda Market and the Tsukiji Fish Marked.Prayers to the deities enshrined at Kanda Myojin are partivularly efficacious for family happiness,marriage,prosperity and success in business,recobery from illness,and protection against accidents and disasters,among many other things.

〔History〕
Kanda MYojin was founded in 730(the 2nd year of the tempyo era,or Tempyo 2).With its almost 1,300 years of history,the shrine is one of the oldest in Tokyo.Originally,it was located near the Masakado-zuka (Masakado Tomb)in present-day Chiyoda-ku,not far from the Imperial Palace.In 1309 (Enkei 2),Taira no Masakado(903?-940),a famous warrior hero of Eastern Japan,was enshrined at Kanda Myojin.In 1603 (Keicho 8),when Shogun Tokugawa Ieyasu established his government in Edo(now Tokyo)and rebuilt Edo Castle on a larger scale,the shogunate moved Kanda Shrine to its present site in order to guard against misfortune entering the castle from the inauspicious Omote Kimon(demon gate)direction.Throughout the Edo period,many people both in the government and among the general public honored the shrine as the Tutelary Shrine of All Edo.

During the Meiji period (1868-1912),Kanda Myojin was named one of the ten shrines in Tokyo to which an Imperial emissary was sent on the occasion of festivals and was officially regarded as the guardian of the City of Tokyo and the Imperial Palace.In 1874,another deity,Sukunahiko-no-mikoto,who was originally worshipped at Oharai Isosaki Shrine in Ibaragi Prefecture,was enshrined as the second guardian deity of Kanda Myojin.It was also in this year that Emperor Meiji paid a personal visit to the shrine.

Following the destruction of the shrine complex in the Great Kanto Earthquake of 1923,the shrine buildings were rebuilt in Gongen style,but instead of the traditional wood,reinforced concrete was used,an innovation in shrine-construction methods.The fire bombing of Tokyo in 1945 nearly destroyed the Kanda and Nihombashi areas,but the shrine buildings survived with only minimal damage.

After the war,the Zuishin Gate and other structures were rebuilt,restoring the shtine to its Edo-period grandeur as one of the most important and scenic shrines of Tokyo.In 1995,as part of the Heisei Grand Restoration Project,the shrine buildings were thoroughly refurbished and a new museum was added to the complex.In 2005,further renovation work was carried out,and the new Ho-ou-den (Phoniw Hall)and Soreisha(Shrine for Ancestral Sporits)were built.

〔Shirine Precincts〕
The Kanda Shrine complex has been designated a National Cultural Property.The buildings are constructed In the Gongen style of reinforced concrete painted with vermilion lacquer.The Zuishin Gate is built entirely of hinoki cypress in the Irimoya style.Decorating the gate are carved wooden reliefs depicting such subjects as the legend of the white ravvit of Inava,the four mythical vreatures of the four directions,and a tethered horse,which was Taira no Masakado's family emblem.The Ho-ou-den is a multifunctional hall where talismans can be obtained and worshipers can rest their feet or wait for triends.The Myojin Kaikan(the shrine hall)is used for various ty;es of gatheringa,invluding wedding receptions for couples who have been married at the shrine.The Shiryokan(the Shrine Museum)exhibits important artifacts related to the history of Edo culture and the Kanda Festival.Within the shrine precincts aremany sculptures,including images of Daikoku-sama(the largest stone sculpture of Daikoku-sama in Japan)and Ebisu-sama coming ashore amid waves,and also cultural properties such as the Shishi-yama(Lions on the cliff),the Tensui-oke(the Temsui pail) and other monuments.

〔Kanda Matsuri〕
The Kanda Matsuri is one of the three most famous festivals in Japan and also one of the three great festivals of Edo.During the Edo preod,the Kanda Matsuri was supported by both th government and the people of Edo and thus became known as the Edo Tenka Matsuri (the Edo Grand Festival) and Goyo Matsuri (Government-Authorized Festival).During th festival,elaborately decorated floats and parades of costumed townspeople came from the Kand and Nihombashi neighborhoods to Edo Castle,where they were permitted to enter the parace grounds to entertain the shogun.

Today  the Kand Matsuri is held once every two years in May.It consists of two main events.During the Jinkosai (Deity Parade Festival),the shrine's own horen (imperial palanquins) and mikoshi (portable shrines)are paraded through  the streets of the 108 neighborhoods that regard Kanda Myojin as their tutelary shrine.Then during the Mikoshi-miyairi,the machi-mikoshi--mikoshi belonging to individual neghborhood associations-- are carried through their respective neighborhoods and on to Kanda Shrine in a glorious pageant of color,movement,noise,and energy,to be purified and blessed by the deities of the shrine.

In alternate years when the full Kanda Matsuri is not held,one of Kanda Shrine's grand mikoshi is also carried through the neighborhood on the shoulders of houndreds of people with a lot of cheers and enthusiasm.

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 石造では日本一の大きさを誇る。
 
一の宮・大己貴命(おおなむちのみこと)<だいこく様>(別名 大国主命)は国土経営・夫婦和合・縁結びの神様。
 大己貴命は少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに力を合わせ日本の国づくりをなさり、農耕漁業をすすめて日本人の生活の基礎をお築きになられました。さらに、医薬の道を伝え多くの人々を病苦からお救いになられた慈愛の御心をお持ちの神様です。
  
昭和51年(1976)建立
     神田神社

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 神田明神の二の宮・少彦名命(すくなひこなのみこと)は「えびす様」として親しまれ、篤い崇敬をお受けになられています。
 
えびす様は七福神のお一人で「商売繁昌」の神様として、また魚群を岸に追い込み大漁をもたらすイルカやクジラにも例えられる海の幸を象徴する神様です。
 
少彦名命(すくなひこなのみこと)は海のかなた「常世(とこよ)の国」から来られた、小さいお姿の神様ですが、大きな「だいこく様」(一の宮・大己貴命) と力を合わせて、日本の国づくりをなさり、「国土開発・事業繁栄」の神様として仰がれております。また医薬の道を伝え多くの人々を病苦からお救いになられたところから「病気平癒・健康増進」の祖神とも言われております。



 鳳凰殿竣成記念として、多くのご神徳をお持ちになる「少彦名命(えびす様)」のご尊像を、金工作家で東京藝術大学学長・宮田亮平氏が制作しました。少彦名命(すくなひこなのみこと)がイルカやタイ・ヒラメに守られて大海原をわたる姿をあらわしています。
 
この少彦名命(すくなひこなのみこと)のお姿は、皆様の願いを掌におのせして神様にお伝えし、さらに神様からのお恵みを掌におのせして皆様にお届けくださるお姿を表現しています。
     神田神社

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 昭和51年(1976)に建立。総檜・入母屋造。関東大震災(1923)で焼失して以来約50年ぶり(昭和天皇御即位50年の記念)の再建。平成10年(1998)に『平成の御造替事業』により鮮やかに塗替えられました。
 
各所に「因幡の白兎」の神話や四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、平将門公ゆかりの繋ぎ馬の彫刻がちりばめられています。



  【随神門欄間彫刻】
 
随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大国主命(だいこく様 別名:大己貴命)の神話(因幡の白兎)が描かれている。



四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、

東は青龍(蒼龍)


西は白虎(白虎)


南は朱雀(朱鳥)


北は玄武(玄武亀)


 夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。
 
またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。
 
近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。
     神田神社

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形文化財
 神田神社の力石
     平成3年(1991)4月指定

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守(ちんじゅ)、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 
古来、わが国民信仰では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多い。
 
また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病(えきびょう)の侵入を防ぐための神であり、呪い(まじない)等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 
境内にある「力石」の由来は詳(つまび)らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
 
本力石は、その銘文から文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされる。
  
平成3年(1991)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
 
平次の住居は、明神下の元台所町ということになっている。
 
此の碑は、昭和45年(1970)12月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
 
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 神田神社の石獅子
     平成3年(1991)4月指定

 本石獅子は、千代田区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。

 『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。

 神社境内の獅子山に据えられていたが、大正12年(1923)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され、再建された獅子山に据えられた。

  平成3年(1991)12月 千代田区教育委員会

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 一の宮
 大宝2年(702)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
 
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道潅築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長8年(1603)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和2年(1616)に当地に遷座された。
 
江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治18年(1885)に江戸神社と腹称された。
 
この神社は、江戸開府の頃、幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態がが整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
 
現社殿は平成元年(1989)神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日 5月14日

  三天王祭・一の宮江戸神社の祭
 慶長18年(1613)より始まったと伝えられる神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町2丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して14日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
 
現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田際に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 二の宮
 この神社は江戸時代以前に祀られていあたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、6月5日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(1615)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町1丁目・本町3丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
 
尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日  6月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 三の宮
 この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町「貞享年間(1684~)までは小伝馬町」お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。
 
明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。
 
東京歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
 
神輿は6月10日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは13日か14日その間里程は十三里に及んだといわれる。このことから十三里天王ともいわれた。
 
近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日  6月6日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 小舟町八雲神社の鉄製天水桶
     平成17年(2005)4月1日指定

 この天水桶は、地上からの高さが1.4mほどになる一対のものです。なお、四角形の基壇と台座は石製です。
 
銘文によれば、天水桶の奉納者と鋳造者は次のとおりです。
 
奉納したのは、江戸の魚問屋仲間に属する商人、遠州屋新兵衛他十名で、文化8年(1811)6月に奉納しています。魚問屋仲間とは、塩干肴や乾物などの流通を担った商人のことで、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べていました。小舟町八雲神社は、最初、日本橋にあった伝馬町の一つ小伝馬町が宮元となっていましたが、のち魚問屋仲間が祭礼費用を賄うなど神社の活動に関与していきました。その後は、彼らが集住していた小舟町の人々により崇敬され、今日に至っています。
 
鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師太田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)です。釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640)に出府しています。当初は芝に居を構えましたが、万治元年(1658)に大島村に転居しました。梵鐘・天水桶・茶釜・鍋・釜などを製造し、明治維新後に廃業しました。また、釜屋六右衛門家は、神田神社において、小舟町八雲神社右隣の大伝馬町八雲神社の天水桶(平成16年(2004)4月1日付で文化財指定)も作製しています。
 
なお、鳥居を入って左側の天水桶は、安政4年(1857)に再建されたもので、右側の銘文をもとに鋳造したものの、文字の輪郭が丸みを帯びるなど違いが生じています。
 
この天水桶は、江戸時代以来の魚問屋仲間、そして小舟町の人々の神社に対する信仰を、私たちに教えてくれています。
  
平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 大伝馬町八雲神社の鉄製天水桶
     平成16年(2004)4月1日指定

 この天水桶は、地上からの高さが1.4mほどになる一対のものです。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製です。天水桶の口縁には「巴(ともえ)」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されています。
 
銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である太田近江大掾(おおたおうみのだいじょう)藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物(ふともの)問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。
 
大伝馬町八雲神社は、江戸時代には祇園牛頭(ごず)天王社(一の宮)と呼ばれ、当地に祀られていた地主神でした。その運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、のちには太物問屋仲間が賄うようになり、運営主体が代わっていきます。そのため、天水桶には、元々の宮元である大伝馬町の名とともに、当時の神社運営に携わっていた太物問屋仲間の名も見ることができます。
 
江戸の問屋仲間と神社との関わりを、私たちに教えてくれます。
  
平成17年(2005)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 角田竹冷(つのだちくれい)の句碑 

 白うおや はばかりながら 江戸の水

 安政3年(1856)5月に静岡県富士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
 
明治28年(1895)10月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌明治29年(1896)11月俳詩「秋の声」を創刊した。明治30年(1897)6月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
 
正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正8年(1919)3月20日66歳で没す。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形文化財(歴史資料)
 水野年方顕彰碑
     平成13年(2001)4月1日指定

 この顕彰碑は、神田神社本殿の北側、裏参道の脇にあり、正六角形の燈籠ををかたどった小塔です。高さが3m78cm余、正六角柱断面の六角形の一辺は40.7cmです。
 
この碑は、浮世絵系の日本画家である水野年方みずのとしかた(慶応2年・1866~明治41年・1908)を顕彰するために、大正12年(1923)5月に門人らが建設したものです。
 
水野年方は左官棟梁の子として、江戸神田山本町に生まれています(一説に、神田紺屋町ともいわれています)。明治28年(1895)ころまで、つまり彼の画業の前半期を神田東紺屋町で過ごしており、千代田区にとって関わりの深い画家のひとりです。
 
水野年方は、14歳で歌川派の月岡芳年つきおかよしとしの門に入ります。さらに、芝田芳洲ほうしゅう・三島蕉窓しょうそう・渡辺省亭しょうていらの画風も学んでいます。年方が実際に活躍したのは明治時代で、人物画のほか草木風景の描法にも独自の様式を樹立したといわれ、明治中後期には戦争画も描いています。
 
さらに、「やまと新聞」を始めとする新聞や雑誌の挿絵も手がけており、新聞挿絵は年方にとって一段の進展を遂げたといわれています。
 
年方の門弟としては鏑木清方かぶらききよかた・池田輝方いけだてるかた・池田(榊原)蕉園・荒井寛方ひろかたらが、また鏑木清方の門弟としては伊東深水しんすい・山川秀峰しゅうほうがいるなど、水野年方一門からは近代日本画を代表する画家たちが多数輩出されています。
 
この顕彰碑は、水野年方とその一門が、神田周辺に深く関わりをもっていたことを示すものであり、千代田区内における絵画の歴史を考えるうえで重要なものといえます。
  
平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 神田神社の水盤
     平成14年(2002)4月指定

 この水盤は、左右の側面にある銘文によれば文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納されたことがわかります。さらに、背面の銘文によると、安政3年(1856)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む45名の人々によって再建されたと考えられます。安政3(1856)年の人物について調べてみますと、「諸問屋名前帳」(国会図書館所蔵)からこれらの人々の中には川辺炭薪問屋仲間・炭薪仲買・人宿・六組飛脚問屋などといあった職業を持つ町人たちであることがわかります。また再建にあたり揮毫を書家の平林惇一が行っていますが、平林惇一は書家細井広澤の流れを汲み、江戸日本橋室町で代々書屋を営んでいた平林家に関わりがある人物と考えられます。
 
この水盤は、千代田区における江戸時代の信仰の一端、特に神田神社やその末社である金刀比羅神社・三宿稲荷神社と江戸の町人たちとの関わりを知ることができるものです。
  
平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。
 
元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。
 
当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災(1923)により烏有に帰した。
 
その後、昭和30年(1955)江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久2年(1862)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田際には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。

御祭神  弥都波能売命(みづはのめのみこと)

祭礼日  5月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 当社御創建の年代は不詳でありますが、元和2年(1616)頃のもので、極めて古い神社であります。
 
昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして尊崇されている。
 
現社殿は、昭和41年(1966)2月28日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。

御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ

祭礼日  3月午の日

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 この神社は、住吉江戸平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573~)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町成立と共にその守護神として勧請されました。寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵に入り、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷社として伝えられています。
 
その後天保14年(1843)8月、町割改めに際し神田明神社御境内に遷座、さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷社五社を合祀し今日に至っている。

御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

祭礼日  3月午の日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三宿稲荷神社
 創建の年は不詳。江戸時代より神田三河町2丁目(他に皆川町・蝋燭町・旭町の一部が合併され、昭和10年(1935)に司町1丁目に改称。更に昭和41年(1966)より住居表示に関する法律により、内神田1,2丁目の一部に編入され、内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていた。その後当社12代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年(1966)10月7日に再建され、金刀比羅大神と共にご鎮座された。
 御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ
 祭礼日  10月初旬

  金刀比羅神社
 天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が齋行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められた。
 
住吉は、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。
 
昭和41年(1966)10月7日、宗教法人を解散して氏神のこの地に社殿を建立し、三宿稲荷大神と共にご鎮座された。
 
御祭神  大物主命(おおものぬしのみこと)
       
金山彦命(かなやまひこのみこと)
       
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
 祭礼日  10月10日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 
猿田彦大神(さるたひこのかみ)は、天孫ににぎの尊降臨の時日向の高千穂の峰に御先導申し上げた神で、営業の方向や土地の方位等に霊験あらたかな神として崇められて居ります。
 
塩土翁神(しおつちおうのかみ)は、竹工の神、塩の神、又船の神として古事記に、山幸彦(火遠理命)が兄海彦(火照命)から借りた釣針を失いお困りの時無間勝間の小舟(すき間なく編んだ竹籠の舟)を作り与え海神の宮に渡り給えと教えられた神で器物を産み造る始祖として古くから崇め祀られて居ります。
 
籠祖神社は、古く寛政7年(1795)5月亀井組(現小伝馬町)の籠職及び、つづら職のの人々斯業の祖神として神田明神境内に鎮座されたのが始まりで、商売繁昌・招福開運の御利益を願い祖神講を設けて今日迄166年の間絶ゆる事なく毎年11月5日に盛大な御祭祀を致して居ります。
  
 昭和36年(1961)11月吉日 籠工商祖神講

御祭神  猿田彦大神(さるたひこのかみ)
      
塩土翁神(しおつちおうのかみ)

祭礼日  11月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 籠祖講関係石造物群
     平成17年(2005)4月1日指定

 


 籠祖神社は、寛政7年(1796)5月に鎮座したという社伝もありち塩土翁神(しおつちおうのかみ)と猿田彦大神(さるたひこのかみ)を祭神とする神社です。現在もこの両神を職神として信仰する籠祖講の人々により、信仰されています。

 

 かつての亀井町(現在の千代田区岩本町伊1丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)には、神田の青物市場や日本橋の魚市場などで用いられる籠や笊などを作製する籠職人・葛籠職人たちが多く居住しており、彼らによって籠祖講は結成されました。

 

 境内には、嘉永3年(1850)から昭和36年(1961)に作製された9点の石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。これらの石造物から、私たちは講の活動について知ることができます。
 
鳥居及び記念碑からは、嘉永3年(1850)10月に亀井町の人々により奉納された鳥居が、昭和13年(1938)9月1日の大暴風雨で倒壊し部材が破損したため、講員一同が協力して笠木及び島木を新調して再建したことが判ります。また、戦時下の空襲で本殿と玉垣が被災したため、昭和27年(1951)11月に再建されましたが、その際に関わった講の人々の名を玉垣から読み取ることができます。一方、狛犬には、昭和34年(1961)11月の銘があり、再建から10年という節目の年の記念として講が奉納したということがうかがえます。
 
千代田区内には、かつて商工業や信仰にちなむ講が数多く存在しましたが、現在ではその活動を知ることはほとんどできません。籠祖講は現在も引き続き活動を続けており、毎年11月には例大祭を執行しています。これらの石造物は、江戸時代から現在に続く商職人の講活動を物語る、区内でも希少な文化財です。
  
平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 神田明神の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田際は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名 吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、昭和31年(1956)3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
 
その後昭和62年(1987)6月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立30周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
 
茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 この坂を明神男坂(みょうじんおとこざか)といいます。明神石坂(みょうじんいしざか)とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消(まちびけし) 『い』 『よ』 『は』 『萬』 の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺(あわかずさあたり)から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。



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