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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区岩本町1-1 (地蔵橋東児童公園)

 明暦三年(1657)一月十八日の江戸大火は、俗に本郷の振袖家事と呼ばれています。この大火では、江戸城のうち西丸を除いた天守閣・本丸御殿などを焼き尽くしました。その後、天守閣は再建されていません。資料によって差がありますが、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も十万人を数えたといわれています。
 
この大火ののち、まず防火のために八丁(約870m)にわたる土手が築かれました。天和三年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。その後、元禄四年(1691)頃になると町人自ら費用を負担して明地に掘割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。白銀町堀とも呼ばれ、のちに竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
 
掘割は、東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田二丁目一番)の南側のあたりで外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。東神田一丁目の所から南南東に向きをかえて大川(隅田川)に注いでいました。のちには、東神田一丁目の所から、北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていまいた。
 
この堀には、西から竜閑橋・白旗橋・西仲之橋・今川橋・東仲之橋・地蔵橋・火除橋・九道橋・甚兵衛橋・小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りには、かつて地蔵橋が架っていました。

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所在地 千代田区岩本町3-10先(区立岩本町馬の水飲み公園)

 この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。

                          千代田区区役所

所在地 千代田区岩本町3-11 (区立和泉橋南東児童遊園)

 江戸幕府が開かれた慶長年間(1595~1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。

 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。

 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。

 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代りました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。

 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。

  平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会



所在地 
千代田区岩本町2-1-5

     金山神社御由緒
祭神   金山彦命 金山姫命
祭典日 1月8日新年祭 5月8日春祭 11月8日例大祭(鞴祭)
 古典によればニ柱の御祭神は伊勢に鎮座される 天照大神の御兄姉神にあたらせられ、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司られる祖神と仰がれ給い御神徳は洵に宏大無辺にして、剣の神感からは破魔除災の神として、亦金宝の霊感を以って厚く金運招福の神と崇敬されてきた大神様にあらせられます
 我が金属業界の遠い祖先等は、この高き御神徳を敬仰して、總本宮にまします岐阜県不破郡鎮座の元国幣大社南宮大社より御分霊を奉遷して、各地に金山神社を創建奉祀して来た処、東京金物同業組合に於いても昭和年代の初頭より御分霊を組合事務所に奉斎して厚く崇敬の誠を捧げて来ました。併し第二次大戦の災禍に遇って祭祀中絶の止むなき仕儀と成りましたが、崇敬心聊かも変ること無く平和の世を迎えるに及んで、直ちに業界挙げて神社創建の計画を興し、広く奉賛会を結成して由かり深いこの地を鎮座地に選び定め、昭和27年(1952)秋10月新たに總本宮より御分霊を奉迎して假殿に奉安申し、社殿造営工事は着着と進められ、ニヶ年に及ぶ歳月をかけて目出度く本殿以下現社殿の諸工事を竣工致しました。昭和29年(1954)11月8日、由緒深い鞴祭の吉日をトして御鎮座奉祝の大祭を盛大に斉行なし、以来宗教法人の神社として年々の祭儀を厳粛に奉仕して今日に至りました
 茲に御鎮座30周年の意義深き年を迎えるに当り帝都中枢の地に重鎮される金山神社の御神徳愈々御栄えまし、敬い奉る業界の末永き和協協栄をひたすら祈念して、謹みて御由緒記を建立いたす次第であります
 昭和57年(1982)11月8日  金山神社崇敬会



所在地 千代田区岩本町2-3-11

  史蹟
北辰一刀流 千葉周作先生
 玄武館道場跡
       神田お玉ヶ池畔(お玉が池)



     神田お玉ヶ池
 此の辺のビル街は地盤も硬く元は池だったとは思えぬ程ですが、江戸時代徳川公が武家屋敷建設の為、「池を埋めよ」との命令をして家来一同駿河台辺りから土を運び池を埋めました。この池の傍らに竜神様の石碑が立っていましたが、土を沢山入れた為、水があふれ石碑が池に倒れ沈んでしまい徳川公に相談すると、なかった事にしようと云われ、竜神様を信仰していた人が探していても知らぬふりをするのも大変だったと思います。徳川公は竜神とは云えぬので日光に「泣き竜」とか、輪王寺に「金の竜」を書いても神と書かず、その因縁か徳川家も、池の担当大名家も相続者が死に、養子が多かったようです。竜神界の統治者「天之宇氣之大神様」命令で天地人と宇宙を守り、物を育て罪けがれ病を祓い清め神として桜が池の金色の竜神王なので日光にだけお祀りされても大神様との約束が果たせず、昔、御降臨下されたこの池に戻られたのは偶然ではないと思います。法華経徳行品に「われ人、天、竜神王の為にし」とあるので、法華経で御降臨願った処、ラップ現象でガラス戸が地震かと思う程鳴り「今、帰ったぞ」と云うように感じ大喜び致しました。此の土地に祀られて居られた神様を、四世紀も断絶した罪深さをお詫びしつつ金色竜神王様を御認識頂きたく御知らせ申し上げます。   合掌



所在地 千代田区岩本町2-5 (繁栄お玉稲荷神社)

東京都指定文化財 旧跡
  お玉が池
           昭和30年(1955)3月28日指定

 

 この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。
 近所には、お玉ヶ池のレリーフ・石碑・説明板があります。

お玉ヶ池種痘所記念レリーフ
  (千代田区岩本町2-5-9 パステルコート神田岩本町)

お玉ヶ池種痘所跡
  (千代田区岩本町2-7-11 加島ビル)


お玉ヶ池跡碑
  (千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館)
 

お玉ヶ池湖畔 玄武館道場跡レリーフ
  (千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル)


お玉ヶ池説明板
  (お玉が池児童遊園)


所在地 千代田区岩本町2-5-9 (パステルコート神田岩本町)

お玉ヶ池種痘所記念レリーフ



いまから百十年まえ 1858年・安政5年5月7日このちかくにお玉ヶ池種痘所ができました
それが発展していまの東京大学医学部になりました
すぐそこにある記念碑はそのゆかりですえられたのです
 1968年・昭和43年5月7日
 東京大学名誉教授 緒方富雄



所在地 千代田区岩本町2-7-11 (加島ビル)

お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです



一時は池のほとりに
 梁川星厳の玉池吟社
 市川寛齋の江湖詩社
 大窪詩佛の詩聖堂
 東條一堂の瑤池塾
 佐久間象山の象山書院
 剣士千葉周作の道場玄武館
 磯又右衛門の柔道道場
 永坂石埭宅 清元太左衛門宅など文武の萃が咲きほこりました



この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和33年(1958)に迎えた創立百年の記念に昭和36年(1961)文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にここに元標を立てられました
 お玉ヶ池史蹟保存会



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