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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園)

 澁澤榮一(渋沢栄一・渋澤栄一)

青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり。後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり。爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百。常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の
發展に偉大な貢獻をした。
 
また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

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所在地 千代田区大手町1-4先 (清麻呂公園)

ここに立たせるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の室命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れつ偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の出御代に祝行添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沼へる地に建設せるなり


公の英霊は千載生けるが如く嚴然として宮闕の下を離れず我が國體を擁護しまつり天地と倶にごとしへに存せむ
  
昭和十五年十二月 大日本護王會

所在地 千代田区大手町1-4先 (清麻呂公園)

 この木は、震災イチョウ(震災銀杏・震災いちょう)と呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。大正12年(1923)9月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみ、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。
 平成13年(2001)3月 千代田区教育委員会



  岡田武松(1874~1956)
千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長を経て明治37年(1904)、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線放送受信設備の完成、海洋気象観測設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正13年(1924)にイギリスの王位気象学会からサイモン金牌をおくられ、昭和25年(1950)には文化勲章を受ける。

  清野長太郎(1869~1926)
 香川県に生まれ、東京大学法科卒業後、旧内務省警保局にはいり、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治36年(1903)に人口学万国会議の委員としてベルギーへ派遣される。明治39年(1906)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正2年(1913)までこの職にあった。大正5年(1916)以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。

所在地 千代田区大手町1-2 

 東京都指定文化財(都旧跡)
平将門首塚(将門塚)
          昭和46年3月30日指定

 平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。
 
通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。
 
嘉元年間(1303~1305)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。
  
昭和46年(1971)10月1日  東京都教育委員会



 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして、関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望をを受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田際の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
     江戸総鎮守 神田明神

   将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子 将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定。自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱(~940年)という。
 
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 
その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治2年(1307) 時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 
天慶の乱の頃は平安期の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが、遠い坂東では、国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものであると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
     
将門塚保存会 

 

   将門首塚の碑(故跡保存碑)

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 
明治2年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。故跡保存碑は明治39年(1906)5月建立されたもので、裏面の阪谷芳郎構文になる碑文は将門塚の由来を記している。
  
平成3年(1991)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区大手町1-2 (将門塚)

 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の『先代萩』で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。

 

所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園)

 常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。また天正十八年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治十年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代

『  色かへぬ  松によそへて  あづま路の 

                 常盤の橋に  かかる藤なみ  』

の歌に因みつけられたものといわれる。

所在地 千代田区大手町1-4

 一橋徳川家は、寛保元年(1741)徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。

 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。

当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。

 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。

所在地 千代田区大手町2-3 (逓信総合博物館)

 明治のはじめ幣制を整備確立することは急務であった。新貨条例の制定、新紙幣の発行による藩札の回収などが行われたほか、政府が自ら紙幣を製造する方針が決定された。これに基づき明治9年(1876)10月、第3代紙幣頭 得能良介によりこの地に大蔵省紙幣寮の紙幣印刷工場が建設された。

この工場は、正面玄関上部に高さ約26mの鳳凰像を据えた赤煉瓦造り2階建で、朝陽閣と呼ばれ、近代的な西洋建築としても錦絵にも描かれた。

 紙幣寮は後に印刷局となり、また事業の拡張にともなって建物も増築され最盛期にはその敷地は、現在の常盤橋公園から神田橋付近に及ぶ広大な地域を占めるに至ったのであるが、大正12年(1923)の関東大震災によりこれらの建物はすべて灰燼に帰した。

 昭和46年(1971)11月、大蔵省印刷局は創立100年を迎えたのであるが、その記念事業の一つとして紙幣寮がこの地に工場を建設して紙幣の製造をはじめた事績を永く後世に伝えるため、この碑を建てたものである。

所在地 千代田区大手町2-2 (NTTデータ大手町ビル)

日本電信電話公社発足以来の念願であった 「すぐつく電話」 「すぐつながる電話」 の二大目標がこの程達成された

われわれ日本電信電話公社に職を奉じその達成に努力してきたものとしては 真に喜びに堪えない

ここに わが国電気通信事業が豊かな情報化社会の実現に向って さらに飛躍し発展することを祈念し その一里塚として記念碑を建立する

  昭和55年(1980)10月

     日本電信電話公社現退職者有志一同

 

記念像  日本芸術院会員 清水多嘉示 作

碑    文  阿部翠屋 書



所在地 千代田区大手町1-5-1 (大手町ファーストスクエア)

中原市五郎は、この地に、明治40年(1907)6月、公立私立歯科医学校指定規則に基づくわが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治42年(1909)に現在の千代田区富士見1丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和22年(1947)に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を承継し、生命歯学部と新潟生命歯学部の2学部をはじめ、大学院2、附属病院3、短期大学2、博物館1を有する世界最大の歯科大学となった。

 日本歯科大学創立100周年記念 2006年1月吉日建立
  日本歯科大学校友会
  




所在地 千代田区大手町2-1-1 (大手町野村ビル)

東京都選定歴史的建造物
   丸ノ内野村ビル(旧日清生命館)

 昭和7年(1932)に日清清明保険株式会社の本社ビルとしてこの地に建てられた旧日清生命館は、昭和16年(1941)に同社が野村生命保険株式会社(現東京生命保険相互会社)と合併した際に、丸ノ内野村ビルチンクと改称されました。
 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上8階、塔屋1階の当時の建物は、2階外壁の大部分が彫刻付テラコッタ(装飾焼物)貼り、7階及び塔屋の彫刻部分もテラコッタ造りで、繊細な衣装が壁面全体を覆うネオルネッサンス風の壮麗な建築でした。
 古典主義を規範とした丹精で清楚なその姿は、ランドマークとして周辺の人々にも親しまれてきました。
 その外観の一部、時計塔、列柱、尖塔などのほか2階部分のレリーフや玄関の門構えが、旧ビルと同じデザインで忠実に復元され、東京の歴史的都市景観を後世に伝える「大手町野村ビル」として生まれ変わりました。
 東京都生活文化局 平成9年(1997)1月



所在地 千代田区大手町2-2 (新大手町ビルヂングと大手町野村ビルの間)

 昔ここに道三堀という堀があり、そこに架かっていた橋を道三橋といいました。
 道三堀というのは江戸城の数ある堀割の1つで、竜の口(和田倉門のそば)から銭瓶橋まで蛇行する堀割でした。堀の中程には橋が架かり、南東の端には幕府典薬寮の医官今大路玄朔延寿院道三法眼の屋敷がありました。
 西側には細川越中守の屋敷があり、越中守の幼名を彦次郎と称したので、越中守橋とか彦次郎橋とも呼ばれていたようです。『江戸砂子』には今大路を今大和の姓としているので、大和橋ともいわれたのではないでしょうか。
 この堀橋には道三の外、本道、外科、針の医師も住んでいたといい、この道さんが或日将軍の御召しに遅れ、御咎めがあった時、堀を廻ったので遅れた旨答えたところ、それならば橋を架けよということになって架けられたという話が伝えられています。
 慶長(1596~1614)の頃は堀に沿って材木屋等の町屋が多くできましたが、その後武家地となり、明治42年(1909)堀は埋立てられてしまいました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会

 


所在地 千代田区大手町1-1-1 (三菱東京UFJ銀行大手町ビル)

 明治6年(1873)に設置された内務省の庁舎は、この地に建設されました。
 内務省は、明治維新後内政全般の振興を図るため、初代内務卿となった大久保利通により創設されたもので、近代日本の発展に大きな足跡を残しましたが、昭和8年(1933)霞ヶ関に移転するまでこの地にありました。
 昭和62年(1987)10月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町2-6

 昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町2-6

 以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
 「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
 古くは後藤橋といへり。〔寛永中江戸絵図〕呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。〔江戸紀聞〕今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。(後略)
 これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~1643)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
 なお、外堀が昭和29年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含めて外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。
  平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町 丸の内 千代田



 明治8年(1875)「ニセアカシア」を、この道路に植えた。
 蘭学者津田仙翁が明治6年(1873)ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹である。
 なお、現在この通りの街路樹は「エンジュ」である。
 東京都



所在地 千代田区大手町2-6-3 (JX日鉱日石エネルギー株式会社
 本社)

 以前港区西新橋(旧新日本石油ビル)にあったものが、この地に移されました。このプロメテウス像は、エネルギーの安定供給をその社会的使命として歴史を刻んだ日本石油が、昭和63年(1988年)5月創立百周年を迎えたことを記念し、全国特約店各位より寄贈されたものである。新世紀への第一歩をしるすにあたり最もふさわしいものをとの願いから『人類に火を与えるプロメテウス像』が題材に選ばれ、文化功労者 日本芸術会員 富永直樹氏の手により制作されたものである。



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