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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区大手町1-2 

 東京都指定文化財(都旧跡)
平将門首塚(将門塚)
          昭和46年3月30日指定

 平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。
 
通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。
 
嘉元年間(1303~1305)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。
  
昭和46年(1971)10月1日  東京都教育委員会



 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして、関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望をを受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田際の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
     江戸総鎮守 神田明神

   将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子 将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定。自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱(~940年)という。
 
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 
その後もしばしば将門の怨霊がが崇をなすため、徳治2年(1307) 時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 
天慶の乱の頃は平安期の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春謳歌していたが、遠い坂東では、国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものであると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
     
将門塚保存会 

 

   将門首塚の碑(故跡保存碑)

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 
明治2年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。故跡保存碑は明治39年(1906)5月建立されたもので、裏面の阪谷芳郎構文になる碑文は将門塚の由来を記している。
  
平成3年(1991)3月 千代田区教育委員会

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