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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

 この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集結して大きくなる。
 やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代・八千代年を過ぎてさざれ石巖となりて苔のむす、その景観誠に目出度い石である。
 全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく知ることができる。

   春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。
 



 さきに昭和37年(1962) 文部省の中庭に贈られた「さざれ石」の木札に記された通り この「さざれ石」は岐阜県揖斐川町出身の故小林宗閉氏によって世に広められた。
 昭和56年(1981)6月17日 小林文治 奉納





所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

千代田区指定有形民俗文化財 平成12年(2000)4月指定

 日枝神社の境内社、山王稲荷神社の本殿と、八坂神社(やさかじんじゃ)猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)両社を合
祀した本殿の前に、一対の石製狛犬があります。幅55cmほど、高さは70cmほど、台座部分を含めても大人の背くらいの高さです。
 像の台座には「奉献ほうけん」「文政三庚辰かのえたつ年六月吉日」「南伝馬町三町目」「家主中」などと陰刻の銘文があり、向かって右側の像には「植草重左衛門(じゅうざえもん)」ほか10名と「地形方抱
(ちぎょうがたかかえ)三右衛門」 「石工(いしく) 新川勘兵衛」などの名前が、また同様に向かって左側の像には「亀田左兵衛(さひょうえ)」ほか11名の名前が見られます。この他に左側の像の中段台石外側の側面には「明治三十四年九月 自神田神社境内移之 南伝馬町三ヶ町」などと年代の異なる銘文も刻まれています。



 以上のことから、この狛犬はもともと文政3年(1820)に、当時神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものであることがわかります。しかしその後、明暦18年(1885)2月13日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿その他が焼失した後、南伝馬町の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を勧請しました。その時点では、おそらくこの狛犬は未だ神田神社境内に現存していたのであり、16年後の明治34年(1901)に石製燈籠などその他の南伝馬町天王社に由来する旧来の石造物とともに日枝神社境内に移転、再設置されたと思われます。
 この狛犬は、千代田区内に現存する狛犬としては、すでに文化財指定した2例[平河天満宮(ひらかわてんまんぐう)狛犬=享和元年(1801)、再建嘉永5年(1852)] [築土神社(つくどじんじゃ)狛犬=安永9年(1780)]と同様、江戸時代の銘文をもつものであり、区内においては貴重な文化財です。そして、江戸時代から明治時代にかけての人々の信仰の一端、特に日枝神社及びその境内社である八坂神社と神社周辺の人々や南伝馬町の人々との関わりを、私たちに語りかけてくれているのです。
  平成13年(2001)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2-10-5 
               (山王台又は星が岡の古称がある。)



  <御祭神>

主祭神   大山咋神(おほやまくひのかみ)

相殿神   国常立神(くにのとこたちのかみ)

       伊弉冉神(いざなみのかみ)

       足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

  < 例祭 >

 6月15日(10日から16日まで祭典行事多彩)



 御祭神の大山咋神(おほやまくひのかみ)は近江国(今の滋賀県)の日枝山(ひえのやま)(仏語で比叡山)に鎮り、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神であり、大年神(おおとしがみ)の子神であり、御年神と大國御魂神の兄弟神である。

 古事記に『亦の名は山末之大主神。此神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑(なりかぶら)を用うる神也』とある。山城国風土記によれば、「丹塗りの矢(にぬりのや)」とされております。この丹塗天は、また破魔矢(はまや)ともいわれ、厄除け、魔除けのほか、縁結び、子授けにもご利益があります。大山咋神(おおやまくひのかみ)は山・水(咋)を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う広大な御神徳は、山王の尊称に即して、比類のない人類の生命を司り給うこと如実である。



 江戸山王の始元は遥に鎌倉初期、秩父重継氏(江戸貫主を名乗る)の流れ重継は江戸太郎を名乗り、その館の中に日吉の大神(ひえのおおかみ)を勧請した。古記社伝によれば、文明10年(1478)足利の宰相太田道潅公が江戸の地を相して築城するにあたり、守護神として川越の山王社から勧請した。やがて天正18年(1590)徳川家康公江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として、此の城祠(江戸城内の紅葉山)に国家鎮護の基を定めた。3代将軍徳川家光は、一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座朱印地を600石に加増、やがて万治2年(1659)、振袖火事のため、4代将軍徳川家綱は、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉る大志をいだき、永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡(現在地)に結構善美を尽した権現造り社殿を造営した。歴代の将軍、世子の社参絶えることなく、都度、神馬、太刀(国宝)等を献じた(宝仏殿に出陳中)。明治元年(1868)東京奠都にあたり勅使奉幣の上、勅祭神社に准ぜられ、明治15年(1882) 官幣中社に更に大正14年(1925)官幣大社に列せられた。

 

万治2年(1659)造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)5月に戦禍に遭い焼失した。戦後の神社神道は、大変革を余儀なくされ、混沌たる社会情勢の中で、復興事業は困難を極めたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画された。昭和33年(1958)6月本殿遷座祭齋行、引続き神門、廻廊、参集殿等が逐次完成、更に本社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、全都をあげて之を慶賀し、昭和42年(1967)6月奉祝祭が先づ齋行されこの間、昭和33年(1958)6月現社地御鎮座300年祭が執行された。昭和52年(1977)7月江戸城内御鎮座500年奉賛会が結成され、500年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物収蔵庫」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が計画されて着々実施され、昭和53年(1978)6月15日の吉辰をトし500年大祭が厳粛に行われ、更に昭和54年(1979)6月13日、宝物収蔵庫の建設という有終の功竣つて、日枝神社御鎮座500年奉賛会事業達成感謝奉告祭を極めて意義深く執行し、朝野多数の御参列を賜りました。



 日枝神社の山王祭りは神田祭りと共に天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。明治維新、遷都により江戸城は明治天皇 皇居(宮城)となり日枝神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。
 現在も隔年に執り行われる6月の山王祭り「神幸祭」は氏子各町内(72ヶ町)を巡幸し、古式ゆかしく盛大に行われています。(平成は偶数年)



 < 氏子崇敬区域 >

 皇居を中心に外濠の内側、千代田中央・両区を中心に、永田町霞ヶ関平河町隼町麹町紀尾井町番町九段四谷大手町丸の内有楽町内幸町八重洲日本橋日本橋兜町日本橋茅場町京橋銀座八丁堀新橋等、首都東京の中心を占める。

     日枝神社



所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  倉稲魂神(うがたのみたまのかみ)

例祭  4月下午の日



 稲荷の大神は古来、生成発展・商売繁昌の守り神として全国に祀られ、ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿顧忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬治2年(1659)4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り日枝神社境内末社となった。




< 山王稲荷神社本殿 > 

 千代田区指定有形文化財 昭和63年(1988)4月

名称 日枝神社境内末社 山王稲荷神社本殿

構造 一間社春日造、本瓦葺型銅板葺、南面

規模 身舎 正面柱間 真々 1.518m
    身舎 側面柱間 真々 1.670m
    身舎 向拝間柱間 真々 1.285m



 山王稲荷神社は、日枝神社が万治2年(1659)麹町隼町から現在地に移されるより以前、当地が福知山藩主松平忠房の邸地であった頃、すでに邸内鎮守として祀られていたと考えられる。この地主稲荷社と現存する建物との関係は不明である。
 『日枝神社史』『江戸名所図会』『甲良家文書』等の資料や棟札(昭和20年・1945 焼失)、細部絵様、同時期の公儀譜請・浅草神社(慶安2年・1649 建立)等との比較、技法の共通性から、万治2年(1659)山王社造営奉行板倉甚太郎重直・横山内記知清両人により日枝神社造営時に新しく造営されたものであると推定される。江戸時代の多くの災害のほか昭和20年(1945)5月25日の空襲による日枝神社社殿焼失の際、校倉とともに戦災を免れて残った唯一の社である。本社復興までの間、日枝神社の仮本殿として用いられた。現存の社の建立年代を示す直接資料を欠くものの、日枝神社末社として本社とともに公儀普請により建設された可能性が高く、17世紀中葉の江戸における幕府建設活動を示す数少ない遺構例のひとつであり、加えて関東地方には希少の縋形式の春日造本殿であることは特筆される。
  平成元年(1989)3月 千代田区教育委員会
 

所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  素盛鳴神(すさのおのかみ)

例祭  6月7日



 日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、三ヶ町の鎮守で大伝馬町、小舟町と並び江戸三天王と称された。明治19年(1886)7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。

 

所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

祭神  猿田彦神(さるたひこのかみ)

例祭  初庚申の日



 萬治2年(1659)、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ御祭神は“道ひらきの神”として、また里俗の説に“山王のお使い”即ち神猿とも言われる。



所在地 千代田区永田町2-10-5 (日枝神社)

この坂を山王男坂といいます。日枝神社の表参道。左側のゆるやかな坂「女坂」に対して名づけられています。
二つの坂を比較して急な坂を男坂、ゆるやかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段の数五十三。山王の地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でありました。

 昭和50年3月 千代田区



所在地 千代田区永田町2-3-1


 
 総理大臣官邸敷地の沿革

 この敷地は、武蔵野台地の東縁部に位置し、眼下には近代の初めまで溜池が広がり、近世中期には風光明媚な池として人々の憩いの景観となっていたといわれています。また、縄文時代から近世に至るさまざまな時代における人々の営みがあったことが、敷地内で痕跡として確認されています。17世紀後半には敷地内は南北に二分割され、北側には旗本屋敷があり、その後信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷と移り変わります。一方、南側は越後村上藩内藤家中屋敷でした。明治維新後、敷地は一橋徳川家の居宅として使用され、明治3年(1870)に鍋島家の所有となります。明治25年(1892)に完成したれんが造りの洋館は大正12年(1923)9月の関東大震災により大きな被害を受け、その後復興局へ売却されています。大正15年(1926)、震災復興に伴う中央諸官衛計画の一環として、麹町区永田町二丁目一番地旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新営することとなりました。官邸は昭和4年(1929)に完成しましたが、当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていました。その後、官邸の老朽化、狭隘化が顕著となってきたことなどから、昭和62年(1987)、閣議了解により、従来の官邸敷地及びその西隣一帯の区域に新たな総理大臣官邸を整備することになりました。新官邸は平成14年(2002)に、また、旧官邸を改修した総理大臣新公邸は平成17年(2005)に完成し、現在に至っています。

平成17年(2005)10月         
                 設置:総理大臣官邸
                 監修:千代田区教育委員会 


所在地 千代田区永田町2

この坂を山王坂といいます。この坂のあたり、明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。
 
 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会
                        



所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 この時計塔は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔全面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。
 三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。
 時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。
 チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は2代忠広のときに改易され、屋敷も没収されました。
 その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)。
 幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

  京都制定有形文化財(建造物)
    日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)tpペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  東京都教育委員会



この日本水準原点標庫は、千代田区特別登録有形文化財(建築物)として登録されています。



       日本水準原点について
 日本水準原点は 全国の土地の標高をきめる基になるもので 明治24年(1891)5月国がここに設けたものです
 水準原点の位置は この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で その標高は24.4140メートルと定められています この値は明治6年(1873)から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです
  建設省国土地理院



所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

尾崎行雄は、民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例に座して首都を追われ、海外に亡命したが、国会開設とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年、世界議会史上の記録をなした。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力に弾圧に屈せず、つねに民衆の陣頭にあってたたかった。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護の起るや、世は彼を仰望して権勢の神と称した。軍国主義が一世を支配し、戦雲急なるに及んでも、平和の新年をまげず、三たび辞世をふところにして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。つとに世界連邦を提唱し、議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。高風を追慕する国民の支援と国際的賛助とにより、ここにこの記念会館が成ったのである。
 1960年2月25日しるす

1858年11月20日神奈川県津久井郡津久井町又野に生まる。父は行正、母は貞子、長男、幼名彦太郎。
1874年慶応義塾に入り、福沢諭吉に学ぶ。
1879年福沢諭吉の推薦により新潟新聞主筆となる。
1881年退社上京す。
1882年報知新聞に入り、1890年まで各紙貴社として活躍す。大隈重信をいただき改進党を組織す。以来政党活動に身を投ず。
1885年東京府会議員となる。
1887年保安条例により3年間東京退去を命ぜられたのを機会に欧米を視察す。
1890年日本最初の衆議院議員総選挙に三重県より立候補し当選す。以来同一選挙区より25回連続当選す。
1898年大隈、板垣連立内閣に文部大臣として入閣す。
1903年第2代東京市長に就任す。(国会議員はそのまま)
1912年桜苗木3000本をアメリカに贈る。水源林の確保、市街鉄道買収その他幾多の功績を残し東京市長を辞任す。
1914年大隈内閣の司法大臣に就任す。
1916年辞任す。
1919年第1次世界大戦後の欧米の惨状を視察す。
1931年アメリカを経てイギリスに渡り、日本国民に対する遺言ともいうべき「墓標に代へて」を執筆。また欧州各地を視察す。
1933年帰国す。
1942年田川大吉郎選挙応援演説にからみ不敬罪容疑で起訴さる。
1944年無罪の判決を受ける。
1950年渡米。第2次大戦後の日米国交に貢献す。
1953年衆議院名誉議員、東京都名誉都民に推薦さる。
1954年10月6日永眠す。北鎌倉円覚寺黄梅院に埋骨さる。
 碑文起草   阿部真之助氏
 碑文揮毫   文学博士石橋啓十郎氏
 花崗岩寄贈  株式会社鈴木石材店
 工事             柴田石材工業株式会社


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 東京都指定旧跡
江戸の名水「櫻の井戸(桜の井戸)」

 「櫻の井戸(桜の井戸)」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。山連式釣瓶井戸で、縦約1.8メートル、横約3メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶3杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。

 

 江戸名所図会に絵入りで紹介され、歌川広重(安藤広重)の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保14年〔1843〕)にも描かれている。安政7年(1860)3月3日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。
 大正7年(1918)史蹟に定められ、東京とは昭和30年(1955)旧跡指定。
 昭和43年(1968)道路工事のため交差店内から原形のまま10メートル離れた現在地に移設復元された。
平成19年(2007)彦根城築城
400年祭と東京金亀会設立90周年に記す
  平成19年(2007)10月
 東京金亀会(滋賀県立彦根中学校・彦根東高等学校同窓会)
 東京都教育委員会


所在地 千代田区永田町2-18-1 (衆議院議長公邸) 

東京所学館は、明治21年(1888)この地(旧松平出羽守邸、属に雲州屋敷、のち閑院宮邸)を皇室より貸与され、翌明治21年(1889)開校した。その后、麹町三年町(旧工部大学校)に移り、「虎ノ門女学館」と称せられた。大正12年(1923)関東大震災のため焼失したので渋谷御料地に移り、女史の一貫教育の場として今日に至っている。
ここに、往古を偲び、将来の弥栄を祈り、創立百周年を記念して碑を掲げる。
(昭和54年〔1979〕11月吉日)学校法人東京女学館



所在地 千代田区永田町2

 この坂を新坂といいます。新しくできた坂ということでその名がつけられています。明治9年(1876)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884)参謀本部の図では現在にちかい道路がみえています。おそらくその頃できた坂でしょう。
 また、別の名を遅刻坂ともよばれていますが官庁街にむかう役人、登校を急ぐ学生がカバンをかかえてかけあがる風景から呼ばれたともいいます。
 昭和50年(1975)年3月


所在地 千代田区永田町1

 この坂を茱萸坂(ぐみざか)といいます。またの名を番付坂ともいいました。『新編江戸志』には丹羽家の表門側から見通すことができ、内藤紀伊守、本多伊勢守の間をぬけて九鬼長門守の屋敷前へ出る小坂で、「両にぐみの木ありし故の名なり」とかかれています。また、『東京名所図会』には「番付坂  茱萸坂の一名にして昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の所に花車の番付札ありて、其行列を改めしよりいう」とかかれています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町1


 この坂を梨木坂といいます。『江戸紀聞』では、”梨木坂、井伊家の屋敷の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに。今は枯れて其の名のみ残れり”とかかれています。さらに『東京名所図会』には”陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨木坂といふ”とかかれています。
 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2-18-2 (参議院議長公邸)

 華族女学校遺跡碑
華族女學校ハ 昭憲皇太后ノ■者ニ出テ明治十八年四谷仲町ニ創立セラルニ二十二年此ノ地ニ遷リ三十九年學習院女學部ト■ス大正七年青山練兵場西南隅ニ遷リ女子學習院ト稱ス
レバ校舎ノ此ノ地ニ在ル實ニ三十年ナリ其ノ間 皇太后陛下■華族女學校ニ 皇后陛下ニハ學習院女學部ニ修學セサセ■■■■乃ナ碑ヲ遺蹟ニ建テ永久■■■記スト云フ
 昭和十八年十一月十二日 社圑法人■■■


所在地 千代田区永田町2

 この坂を三べ坂といいます。『新撰東京名所図会』には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂ともよばれています。
 平成5年(1993)1月



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