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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区三崎町1 猿楽町2

 この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。
 昭和50年(1975)3月 千代田区



所在地 千代田区三崎町2-11-15 (日本大学法学部3号館)

 三崎座は明治24年(1891)この地に建てられた劇場です。
 建坪は、200坪の小劇場でしたが、この劇場の特色は東京で唯一の常打ち女優劇場あったことです。有名な俳優には、岩井米花・松本金糸・市川久米八(いずれも女優)などがあり、学生や文人の観客が多く、明治文化史の上で異色の存在となっています。のちにはここに中村花扇が拠って、大正期を代表する女役者として人気を集めたといいます。
 なお、三崎町一帯は東京座(現三崎町2丁目3番)川上座(現三崎町2丁目15番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町2-15-6 (株式会社加藤文明社)

 川上座は明治29年(1896)6月、新派劇の祖といわれる川上音二郎によって建てられ、開場した劇場である。建坪は、212坪・桟敷定員150・土間577、大入場354人で立見場はなかったと記録されています。川上音二郎はオッペケ節で自由民権思想の普及・歌舞伎劇に対抗して壮士芝居(新派劇)を興したことで有名です。また女優川上貞奴は彼の妻であることは周知のとおりです。
 明治34年(1901)1月から改良座と改称しましたが明治36年(1903)4月6日失火して焼失、以後再建されませんでした。
 なお、三崎町一帯は三崎座(現三崎町2丁目11番)東京座(現三崎町3丁目3番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町3-3-23 (ニチレイ水道橋ビル)

 東京座は明治33年(1900)3月この地で開場しました。その舞台開きには当時の名優九世市川団十郎が出演し、以後の興行からは主として猿之助を初め市川門下の若手俳優が出演しました。
 明治30年代後半には市川左団治・芝翫・猿之助などを中心として一本は新作ものを上演するのを特徴とし、演劇界に新風を吹き込む役割をにないました。
 建坪は335坪、客席定員2千名で東京有数の大劇場でした。
 なお、三崎町一帯は三崎座(現三崎町2丁目11番)川上座(現三崎町2丁目15番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町2

 この標識の立っている前の道から神田川までの一帯に、かつて講武所がありました。
 講武所とは、ペリー来航後の政情から、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせる必要を感じて、幕府が設けた施設です。
 安政元年(1854)4月に、築地の下総佐倉藩堀田家中屋敷の跡地(中央区築地6丁目)に講武所が開校しましたが、安政4年(1857)に築地は全て軍艦操練所用地となり、講武所は移転を余儀なくされました。
 安政6年(1859)1月から、小川町の越後永岡藩牧野家上屋敷とその周辺が上地され、翌安政7年(1860)に移転しました。
 明治時代になると。陸軍の練兵場として使用されましたが、明治23年(1890)に三菱に払い下げられ、新たに三崎町という町ができました。
 平成16年(2004)6月 千代田区教育委員会



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