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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区飯田橋

 明治22年(1889)、新宿~八王子間に甲武鉄道が開業し、明治28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。明治37年(1904)我が国で始めて飯田町~中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。

 明治39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川橋側にありました。

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所在地 千代田区飯田橋3丁目

 明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。

 明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって国学院が開校しました。現在の国学院大学です。

 大正12年(1923)、渋谷に移りました。

所在地 千代田区飯田橋1-9

 文久2年(1862)に出羽浪人清河八郎によってつくられた浪士組は新徴組(しんちょうぐみ)と名を改め、ここの武家屋敷を屯所として幕末の江戸の警備に当りました。清河は幕府に献策をして浪士組をつくり、将軍警護のため上洛します。しかし清河のねらいとする所は幕府の意に反する浪士組による尊皇攘夷の実行でした。そのため彼は策をもちいて江戸に戻りますが暗殺されてしまいます。京に残った浪士組の一派が幕末史に華を添える新撰組となります。その後新徴組は庄内藩主酒井左衛門尉に従い戊辰戦争を戦い、明治になってからは山形県鶴岡で開拓生活を送り悲劇的な話を残しています。

所在地 千代田区飯田橋2丁目

 江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武艦にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。

 その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。

所在地 千代田区飯田橋3丁目

 明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にあった皇典講究所内で開校しました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ヶ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。

所在地 千代田区飯田橋3-5 (東京区政会館)

 日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。

 日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及び医療の発展に大きく貢献してきた、平成9年(1997)9月30日閉院した。

所在地 千代田区飯田橋4-5先

 明治10年(1877)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護事業を開始しました。明治19年(1886)、旧麹町区飯田町4丁目、現在のJR飯田町貨物駅のところに博愛社が病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌明治20年(1887)に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治27年(1894)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(1912)に芝大門に移るまでここにありました。

所在地 千代田区飯田橋3丁目

 明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣で所長である山田顕義により日本法律学校が創立されました。

 これは日本大学の前身にあたります。

 明治28年(1895)に三崎町に移りました。

所在地 千代田区飯田橋3・4丁目~新宿区

 江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。

 明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。

所在地 千代田区飯田橋1-5

 榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が4,50頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。

所在地 千代田区飯田橋1丁目

 この奥、大神宮通り向って左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業(きしょうぎょう)のはじめて、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章(きしょう)の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業(きしょうぎょう)の方々の大多数は、この商会の流れを汲み、徽章業(きしょうぎょう)は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業(きしょうぎょう)に従事する人が沢山います。

 

所在地 千代田区飯田橋4-9

 明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農業用地取得のため大塚窪町に移転しました。



所在地 千代田区飯田橋1-1 (ホテルグランドパレス前)

 吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌明治34年(1901)4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転。のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災(1923)までありました。

所在地 千代田区飯田橋3-5

 明治15年(1882)、有栖川宮幟仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと 明治22年(1889)、日本法律学校(現 日本大學) 明治23年(1890)、國學院(現 國學院大學)を開設す

 昭和60年(1985)11月吉日 建立

                 日本大學      

                 國學院大學



所在地 千代田区飯田橋1-12-6

 大正15年(1926)、地域の発展・繁栄のため有志200余名と相計い京都伏見稲荷のご分霊を相受け御祀り奉り、白菊稲荷として現在の場所に鎮座せられました。御紋章は水穂の國の稲穂を飾り、守護神となす。


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