東京都千代田区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形民俗文化財 神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石(せっしゅうなだおおいし)」と「筋違外(すじかいそと)」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかります。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起されます。 PR 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 所在地 千代田区外神田1-9-2 講武稲荷神社縁起由来(町会所有) 当社は旅籠町3丁目にあり、安政4年(1857)の鎮座にして神体は宇之御魂命なり 一説に運慶作なりと伝ふ 昔時大貫伝兵衛なるもの当講武所附属地の払下を出願し其の許可を得んが為め浅草橋なる長昌寺に安置せる此稲荷神社に参詣し 祈念怠ざりしかば遂に安政3年(1856)5月22日を以て 払下免許となりたる由 これが為翌年社祠を造営し其の本体を橋場より本社に移したるを以て創始として居たる今尚ほ毎年5月22日を大祭日としている。 尚段の社域は大正12年(1923)の震災の際焼失せるも其後区画整理により現在地に安置せられたり 一般に火伏せの神なりと其の霊の灼さを伝へられ更に此の火伏護神と共に花街の繁昌に貢献顕著だと伝ふので近隣の三業関係人は勿論遠く向島辺から参詣人が多く時ならぬ賑かさも有りと申されて居る。(古文のまま) 戦災で復興・昭和55年(1980)改装・このたび銅板にて由来板を新装しました。 平成6年(1994)2月 初午外神田旅籠町会 所在地 千代田区外神田2-18-15 (天野屋糀店 地下室) 千代田区指定有形文化財(建造物) 糀室 附 明治37年糀室之図 平成21年(2009)4月1日指定 天野屋地下糀室 天野屋の糀室は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。 天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年(1904)糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期の増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。 変損する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造使節の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。 なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。 平成21年(2008)10月 千代田区教育委員会 明治37年糀室之図 Koji Muro(Mold Cultivation Room) Appended with a deagram of the koji muro in 1904 Amanoya's koji muro(mold cultivation room)was built in 1904 and is still used to cultivate mold known as koji to make such products as amazake(a sweet,cloudy drink with a low or zero alcohol content [Amanoyo makes the nonalcoholic version])and miso,which Amanoya makes and sells.This room,an underground cell with an arched ceiling,was built by digging into the Kanto loam to a depth of six meters and lining the walls and ceiling with bricks. Amanoya is said to have started business in 1846,and a deagram of the koji muro made in 1904(owned by Chiyoda City and donated by Mr.Hiromitsu Amano)reveals that in its early form,the koji muro consisted of multiple rooms extending radially from a vertical pit.However,the radially arranged rooms were demolished in 1991,save for some areas,including tokova(a compartment in which koji is mixed with rice and left to propagate). The existing koji muro retains its original structure,having survived the Great Kanto Earthquake(1923)and air raids during World War Ⅱ.It is the only one in Chiyoda City and one of a very few in Tokyo that has been in continuous use for more than 100 years.The koji muro is valuable not only as a koji making facility but also as a rare cultural property that illustrates how the making and selling of koji have changed since the Edo period. Please note that because th koji muro is still in use,it is not open to the public. 所在地 千代田区外神田2-19 (宮本公園) 遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家(屋号「井政」)の店舗兼住宅として昭和2年(1927)に鎌倉河岸(現内神田1丁目)に建てられました。その後、昭和48年(1973)に都心の開発に伴う建替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。 この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木問屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから、貴重な建築物といえます。文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。 また、1階6畳の茶の間は、茶室として改修されています。 平成21年(2009)4月 千代田区教育委員会 Old Stone and Main House of the Endo Family(Single Building) The Endo family,who started a lumber business in the Edo period,built a comvined store(called Imasa) and main house in Kamakura-bashi(currently Uchi-Kanda 1-chome) in 1927. In 1973,as the downtown area was being developed,the old building was saved from destruction by being relocated to Fuchu City. However,follwing its designation as a cultural asset,the structure was mas moved yet again,this time to Miyamoto Park. The building is considered highly valuable because it typifies the structure of prewar stores,reflects construction techniques from the Edo period,and embodies the lumber trade in its use of high-quality materials and choice wood throughout.Being designated a cultural asset,the vuilding's doma(earthen floor) has been recreated in an effort to restore as much of the building's original appearance as possible. Furthermore,the six-mat chanomo(sitting room)on the first floor has been renobated as a tea ceremony room. April 2009 Chiyoda City Board of Education 所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社) 銭形平次の作者 野村胡堂ゆかりの紅梅 この紅梅は、『銭形平次捕物控』の作者として有名な野村胡堂が昭和7年(1918)から昭和14年(1925)まで居宅とした世田谷区砧8丁目・佐藤様宅に植えられていたものである。銭形平次が神田明神界隈を舞台に活躍し神社境内に「銭形平次の碑」も建設されていることから、平成23年(2011)4月に佐藤家より植樹した。かつて胡堂もこの梅を見ながら平次親分の活躍する捕物の創作にふけったのであろう。 |
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永山
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