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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 鉄製天水桶
     平成11年(1999)4月指定

 神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石(せっしゅうなだおおいし)」と「筋違外(すじかいそと)」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかります。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起されます。
 
諸問屋の株仲間は、享保時代(1716~1736)から特権化しはじめた商人が、田沼時代以降幕府に公認されてきたものです。この株仲間は、物価騰貴の一因として見做され、天保12年(1841)に解散が命じられました。しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間は僅か10年後の嘉永4年(1851)新たな商人層を加えて再興されました。なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」には、碑文にある世話人や願主などの名前を見出すことができます。
 
天水桶の奉納は株仲間の開催期間中のため、その碑文は「下り・地廻酒屋中」とされています。しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、前述した通り奉納に係わる商家は再興後の株仲間として組織されていることからみても、恐らくは「問屋中」などと表現されたことでしょう。
 
他の碑文の内、江山関根為宝(こうざんせきねいほう)は、幕末の書家であり、天保12年(1841)前後の著作が幾つか残されています。書道ばかりではなく歌をも詠み、音韻の学にも通じていたとされています。また二人の鋳物師(いもじ)の名前が見られますが、おそらくは神田の堀口武兵衛が仕事を請負って、川口の永瀬源七に鋳造させたものと思われます。
 
神田神社の「鉄製天水桶」は、江戸時代の信仰の一端、特に神田神社と周辺の人々との関わりを考える上で、欠くことのできない貴重な資料です。
  
平成11年(1999)9月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  阿部宵人(しょうじん)の句碑

山茶花や散るや己の影の中

所在地 千代田区外神田2-16 (宮本公園)

千代田区指定有形文化財(歴史資料) 
 三谷長三郎胸像
     平成14年(2002)4月指定

 
この胸像は、背面や台座部分にみられる銘文によれば、昭和7年(1932)に逝去した三谷長三郎氏の三回忌にあたる昭和9年(1934)12月25日に故三谷長三郎翁胸像建設会により三谷翁の功績を讃えるために建てられ、彫刻家北村西望氏に胸像の制作を依頼し、昭和9年(1934)6月に作品は完成しています。
 
三谷長三郎氏は、神田在住の実業家です。明治2年(1869)2月1日に神田塗師町に生まれ、幼名は銀次郎といいます。三谷家は、紀伊国屋の屋号を持ち、万治3年(1660)の創業以来銅・真鍮を商っていた商家です。長三郎氏は、明治19年(1886)に10代目を襲名してから大いに経営手腕を発揮し、財をなしたといわれています。
 
三谷氏は、財団法人三谷報恩会を結成して、神田区の学校教育のために多大な貢献をしています。例えば、列車を仕立てて毎年、春には鎌倉・由比ヶ浜へ遠足を、夏には箱根で林間学校を開催するほか、神田区内の学校に映写機・ピアノなどを寄贈しています。今川小学校には市内では初めてとなるプールを建設しました。また、進学優良児童には奨学金を贈っています。
 
像の作者である北村西望氏(明治17年・1884~昭和62年・1987)は、長崎の平和祈念像の作者として著名です。
 
この胸像は、当初は隣接する神田神社の裏側、東北隅にあった大銀杏のそばにありましたが、神社境内の整備のため、昭和36年(1961)に現在の宮本公園へと移設されています。
 
この胸像は教育に関する人物を顕彰したものであり、千代田区の教育史を考えるうえで欠くことのできない資料です。
  
平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2 ・ 文京区

 神田川対岸の駿河台の淡路坂(あわじざか)と並ぶので相生坂という。
 
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。 

これやこの孔子聖堂あるからに
     幾日湯島にい往きけむはや
  
                     法月歌客

  昭和53年(1978)3月 文京区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

   奉納  献燈台壹対  神田明神献燈会

 今般神田市場の有志相議りて氏神である神田神社の廣前に御燈を献じ以て神田市場の隆昌と関係各位の安泰を祈念すべく  神田明神献燈会を結成し随神門前の左右に銅板葺反屋根造り朱塗飾金具付献燈台壹対を奉献御社頭神域に一層の威を添える事となった  ここに奉賛者各位の芳名を記し  永く久しく其の徳をたたえるものである

  昭和55年(1980)11月吉日
 
           神田神社宮司  大鳥居吾朗誌



所在地 
千代田区外神田1-9-2 

  講武稲荷神社縁起由来(町会所有)

 当社は旅籠町3丁目にあり、安政4年(1857)の鎮座にして神体は宇之御魂命なり 一説に運慶作なりと伝ふ 昔時大貫伝兵衛なるもの当講武所附属地の払下を出願し其の許可を得んが為め浅草橋なる長昌寺に安置せる此稲荷神社に参詣し 祈念怠ざりしかば遂に安政3年(1856)5月22日を以て 払下免許となりたる由 これが為翌年社祠を造営し其の本体を橋場より本社に移したるを以て創始として居たる今尚ほ毎年5月22日を大祭日としている。



 尚段の社域は大正12年(1923)の震災の際焼失せるも其後区画整理により現在地に安置せられたり 一般に火伏せの神なりと其の霊の灼さを伝へられ更に此の火伏護神と共に花街の繁昌に貢献顕著だと伝ふので近隣の三業関係人は勿論遠く向島辺から参詣人が多く時ならぬ賑かさも有りと申されて居る。(古文のまま)
 戦災で復興・昭和55年(1980)改装・このたび銅板にて由来板を新装しました。

    平成6年(1994)2月 初午外神田旅籠町会    


所在地 千代田区外神田2-18-15 (天野屋糀店 地下室)

 千代田区指定有形文化財(建造物)
糀室 附 明治37年糀室之図
           平成21年(2009)4月1日指定


                                 天野屋地下糀室

 天野屋の糀室は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。
 天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年(1904)糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期の増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。
 変損する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造使節の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。
 なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。
  平成21年(2008)10月 千代田区教育委員会


                                                                    明治37年糀室之図

        Koji Muro(Mold Cultivation Room)
        Appended with a deagram of the koji muro in 1904
Amanoya's koji muro(mold cultivation room)was built in 1904 and is still used to cultivate mold known as koji to make such products as amazake(a sweet,cloudy drink with a low or zero alcohol content [Amanoyo makes the nonalcoholic version])and miso,which Amanoya makes and sells.This room,an underground cell with an arched ceiling,was built by digging into the Kanto loam to a depth of six meters and lining the walls and ceiling with bricks.
Amanoya is said to have started business in 1846,and a deagram of the koji muro made in 1904(owned by Chiyoda City and donated by Mr.Hiromitsu Amano)reveals that in its early form,the koji muro consisted of multiple rooms extending radially from a vertical pit.However,the radially arranged rooms were demolished in 1991,save for some areas,including tokova(a compartment in which koji is mixed with rice and left to propagate).
The existing koji muro retains its original structure,having survived the Great Kanto Earthquake(1923)and air raids during World War Ⅱ.It is the only one in Chiyoda City and one of a very few in Tokyo that has been in continuous use for more than 100 years.The koji muro is valuable not only as a koji making facility but also as a rare cultural property that illustrates how the making and selling of koji have changed since the Edo period.
Please note that because th koji muro is still in use,it is not open to the public. 


所在地 千代田区外神田2-19 (宮本公園)

 遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家(屋号「井政」)の店舗兼住宅として昭和2年(1927)に鎌倉河岸(現内神田1丁目)に建てられました。その後、昭和48年(1973)に都心の開発に伴う建替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。
 この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木問屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから、貴重な建築物といえます。文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。
 また、1階6畳の茶の間は、茶室として改修されています。
 平成21年(2009)4月  千代田区教育委員会  



  Old Stone and Main House of the Endo Family(Single Building)
 The Endo family,who started a lumber business in the Edo period,built a comvined store(called Imasa) and main house in Kamakura-bashi(currently Uchi-Kanda 1-chome) in 1927.
 In 1973,as the downtown area was being developed,the old building was saved from destruction by being relocated to Fuchu City. However,follwing its designation as a cultural asset,the structure was mas moved yet again,this time to Miyamoto Park.
 The building is considered highly valuable because it typifies the structure of prewar stores,reflects construction techniques from the Edo period,and embodies the lumber trade in its use of high-quality materials and choice wood throughout.Being designated a cultural asset,the vuilding's doma(earthen floor) has been recreated in an effort to restore as much of the building's original appearance as possible. Furthermore,the six-mat chanomo(sitting room)on the first floor has been renobated as a tea ceremony room.
 April 2009  Chiyoda City Board of Education


所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 銭形平次の作者 野村胡堂ゆかりの紅梅
この紅梅は、『銭形平次捕物控』の作者として有名な野村胡堂が昭和7年(1918)から昭和14年(1925)まで居宅とした世田谷区砧8丁目・佐藤様宅に植えられていたものである。銭形平次が神田明神界隈を舞台に活躍し神社境内に「銭形平次の碑」も建設されていることから、平成23年(2011)4月に佐藤家より植樹した。かつて胡堂もこの梅を見ながら平次親分の活躍する捕物の創作にふけったのであろう。


所在地 千代田区外神田6文京区

  嬬恋坂(妻恋坂)
 大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。
 『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ」とある。
 この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町1丁目あたりから移ってきてからであろう。
 文京区教育委員会 平成21年(2009)7月

 


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