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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区紀尾井町2-1  (清水谷公園)

 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)
               平成4年(1992)4月指定

 明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう、金井之恭かないゆきやす、奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
  平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会



  大久保利通公記念碑の裏面碑文内容の説明

 ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。
 大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。
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