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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 この練兵館(れんぺいかん)は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)の剣客 斉藤弥九郎(さいとうやくろう)により、それまで俎(まないた)橋付近にあった練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。 

 練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥次郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。

 なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。


    Site of the former "Renpeikan"
The "Renpeikan"was one of the three most famous "kendo"(Japannese fencing)training schools at the end of the Edo era.
A powerful samurai and kendo master,Yakuro Saito,rebuilt it here after the original school burnt down nearby in 1838.
Many famous samurai active in the Meiji Restoration trained here.
Some of them subsequently held important posts in the Meiji gobernment.

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 大鳥居(第一鳥居)は靖国神社御創建50周年記念として大正10年(1921)に、建立されたが、昭和18年(1943)戦力増強のため撤去されそのあとに小さな檜の鳥居が建てられていた。
 全国約17,000名の芳志に基づく浄財1億6,000万円によってこの大鳥居を再建復原して御祭神245万余柱の英霊に捧げるものである。

 耐候性高張力鋼版(12mm)を使用し、総重量約100t、柱の内部は相当の高さまでコンクリートを充填して補強、技術的計算によれば1200年の耐久性を有する。
 高さは25m(8階建のビル高さに相当し)、日本一の規模である。 

竣工 昭和49年(1974)10月7日
設計施工  日本鋼管株式会社
              靖国神社大鳥居再建事業委員会

所在地 千代田区九段北1-15先

 南十字の星の下 身を捧げた友のあゆんだ途は遠く険しかった

 今は昔ながらの故国に生きて 立ち直る国の礎となっている御霊に限りない敬意と溢れる愛情を覚え不変の石に心をこめて 亡き友よ永遠に安かれと祈って此処にこれを建てる

 昭和39年(1964)11月3日 濠北方面戦没者慰霊会


                                                                                                                  行雲亭

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 行雲亭は、陸軍省の建築技師内藤藤太郎と柳井平八の設計により、昭和8年(1933)6月25日、(財)日本刀鍛錬會の鍛錬所として竣工された建物である。
 昭和62年(1987)9月に五つの鍛冶場の全てが茶室に改装されたが、外観は当時のままの優美な姿を残しており、特に屋根上の吹抜は、 鍛錬場にみられる様式で、行雲亭本来の姿を物語っている。
 (財)日本刀鍛錬會は、昭和7年(1932)12月、明治維新とともに衰退の一途をたどった鍛刀界の復興、国民の愛刀心の向上、そして有事に際した軍刀の整備などを目的に発会。理事長には歴代の陸軍次官があたり、延べ11名の刀匠と21名の先手(さきて)からなる刀工集団を中心に組織され、終戦までの間、8100口に及ぶ良質な日本刀を製作し続けた。そこで製作された日本刀は「靖國刀」、刀匠達は「靖國刀匠」と呼ばれ、靖國刀匠達は、当初の靖廣・靖徳・靖光をはじめ、陸軍大臣より「靖」の字を冠する刀匠銘を授与された。
 また、大正15年(1926)頃には、日本古来のたたら製鉄は途絶え、日本刀の材料となる高品質の玉鋼(たまはがね)の入手は困難な状態にあった。そこで、(財)日本刀鍛錬會は、古代から良質の砂鉄を産出する島根県仁多郡横田町に、「靖國鑪(やすくにたたら)」を開設し、生産された玉鋼は50数tに及んだ。
 終戦を迎え、日本刀の製作は一時禁止されたが、昭和28年(1953)には、靖國鑪の技術を継承し、作刀技術の保存を目的に、(財)日本美術刀剣保存協会が「日刀保たたら」として復活させた。そこで生産された良質な玉鋼は、日本刀の材料としてだけでなく、茶湯の釜や、東大寺仁王像修復などにも広く用いられている。
 ここに、日本刀鍛錬會が、我が国の伝統文化の継承に寄与した業績を、永く讃えるものである。
  平成7年(1995)7月3日 日本刀鍛錬會顕彰会
                      
代表 鈴木嘉定



所在地 千代田区九段北4-1-31

 この坂を一口坂といいます。「麹町区史」には”一口坂の一口は大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である”とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもとよんで、疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。


所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

千代田区指定有形民俗文化財 
 築土神社の狛犬
          平成8年(1996)4月指定
  
 本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5メートルほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永九庚子十一月」との銘文が刻まれています。



 元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の咲かした一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の葛西で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。



 社殿によれば築土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久戸明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して築土明神となり、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年(1945)空襲で社殿などを悉く焼失し、昭和29年(1954)には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
 元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、築土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。元飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだともいえます。
 また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。



 区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの築土神社の狛犬は、私たちに築土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。
 平成9年(1997)3月  千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

  山本社司之碑
昭和20年(1945)3月10日 戦災に 御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
 総理大臣 鳩山一郎書


所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 築土神社の力石
     平成元年(1989)4月指定

 「力石」とは、一定重量の代償の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 古来、わが国民間振興では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは意思を依代としている神々も多い。
 また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 境内にある「力石」の由来は詳らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
 なお「力石」に刻まれている「元飯田町」とは、「中坂」を南北にはさんだ現九段北1丁目にあたり、江戸時代からの町名である。
 平成2年3月  千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北1 ・ 飯田橋1

 この坂を冬青木坂といいます。『新編江戸志』には「此所を冬青木坂ということを、いにしへ古びたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず、此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。
  平成14年(2002)3月  千代田区教育委員会



所在地 千代田区九段北1-12

 この地に明治時代の文学結社、硯友社の社屋がありました。
 硯友社は、明治18年(1885)2月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、明治21年(1888)市販されるにおよび明治20年代の文壇に多くの影響を与えました。
 同人には、川上眉山、巌谷小波・広津柳浪らも参加しています。
 明治30年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。

 平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北1-5-7(東建ニューハイツ九段)

 都指定文化財(旧跡)
滝沢馬琴宅跡の井戸
   昭和30年(1955)3月28日指定

 ここは、滝沢馬琴が寛政5年(1793)から文政7年(1824)の31年間住まい、名高い里見八犬伝などの書を著述したところであった。
    千代田区


所在地 千代田区九段北1

 この坂を中坂といいます。「御府内沿革図書」によると、元禄3年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄10年(1697)の図以降になると中坂が記載され、元禄14年(1701)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中阪と称するは、冬青木坂九段坂の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。
 平成13年(2001)3月建替 千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北4-4

 この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。
 寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手の遺構、寛永16年(1639)に修築された外郭門の石垣などが、昭和31年(1956)「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。
 なお、平成7年(1995)3月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年(1989)から8年に渡って発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発掘成果の一部を展示公開しております。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北1-14

 九段坂・牛が淵の碑  葛飾北斎
葛飾北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては”九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新しい西洋風の写生的空間表現となっている。


                                    東京国立博物館所蔵

      Kudanzaka・Ushigafuchi       Katsushika Hokusai
Katsushika Hokkusai(1760-1849) was born in the Honjo section of Edo (now Tokyo).He produced a wide variety of art pieces which incorporated his unique sense of aesthetics.His woodblock prints from the end of the Kansei period to the beginning of the Kyowa period (around 1800) were influenced by Western art,which was a radical departure for Japanese art.This print is one of his most typical,charabterized as it is by the title and the artist's name written on  their side in hiragana and running from left to right.
The steep,obher slope on the right-hand side is Kudanzaka ("slope with nine steps"),which once had nine gently sloping  steps.A Bukeyashiki (samurai's dwelling ) with stone walling and Nagayabei (Japanese-style hedge) stands to the right,facing the slope.Silhouettes of people and other premises are also shown.On the left of the slope is a deep-green cliff,the height of which has been exaggerated by Hokusai.On the left-hand  side of the print is a broad panorama,an original style of Hokusai.
Hokusai used silhouettes for the trees and criff,rather than outlinig  them in derail,in order to give a three-dimensional effect.
The upper part of the cliff to the left of the print is called Chidorigafuchi and the lower part is called Ushigafuchi,The path going  leftward leads to Tayasumon,now the entrance to the famous Budokan hall.
The towering summer clouds,which depict the scene very realistically,are in the Western style  that was new to Japan at that time.
    東京九段ライオンズクラブ 2000年3月


所在地 千代田区九段北3-3-15 (三輪田学園)

高濱虚子句碑 
   蔓もどき情はもつれやすき哉  虚子
 この句は高浜虚子の作品で、1947年に詠まれ、1948年10月の「ホトトギス」に掲載されました。その後、1958年12月に、虚子の集大成である「虚子百句」が出版され、これを機会に、終生の友情の証しとして、三輪田元道校長にこの句が贈られ、1959年6月に、校内に、句碑が建設されました。現在の句碑の位置は、1901年9月から1909年12月にかけての虚子の住居、及び、「ホトトギス」の発行所(麹町区富士見町4丁目8番地)の筋向かいに当たります。高濱家と三輪田家が、松山市が縁で、筋向かいに住み、親しく付き合っていたことから、校舎改築を機会に、この場所に句碑を移設しました。
 虚子は1910年12月から鎌倉市に転居しましたが、三輪田眞佐子(当時の校長)と養子の元道も鎌倉市に別宅を持っており、親しい付き合いが、そこでも続いていました。
 また、虚子の長女の眞佐子は、本校高等女学校を1915年に卒業しました。
 三輪田学園 


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