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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区九段南2-2(区立九段坂公園)

 靖国神社(当時は東京招魂社)正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設されました。正式名称は高燈篭ですが、常燈明台ともいわれています。
 当時、九段坂の上からは、遠くの山々を見渡すことができ、海を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。
 当初は靖国神社に建てられていましたが、道路の改修に伴い昭和5年(1930)に道をはさんで向かい側の区立九段坂公園に移転しました。




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所在地 千代田区九段北1-5-7(東建ニューハイツ九段)

 都指定文化財(旧跡)
滝沢馬琴宅跡の井戸
   昭和30年(1955)3月28日指定

 ここは、滝沢馬琴が寛政5年(1793)から文政7年(1824)の31年間住まい、名高い里見八犬伝などの書を著述したところであった。
    千代田区


所在地 千代田区神田錦町2-2 (東京電機大学)

1907年9月1日、電機学校この地に設立さるなる 幾多の有為なる人材を世に送り、その使命を今東京電機大学に託す


          創立者 廣田精一           創立者 扇本眞吉


                             大正時代初期の校舎


                           第一回卒業式の記念写真



所在地 千代田区神田錦町3-2 (千代田印刷会館)

      中西乕之助翁功業顕彰のことば
中西乕之助翁は、慶応2年(1866)京都に生れ、早く印刷業に志し、明治13年(1880)本木昌造氏創業の点林堂印刷所に入社して以来多年斯業に精励し、その進歩発達に日夜意を盡くす。功業まことに顕著なものがあった。今その梗概を回顧すれば、明治24年(1891)若くして京都になかにし英成堂を創業し、石版印刷を起こす。次いで明治27年(1894)ここに印刷業において初めて電動機使用のことを始め、後、更に村井兄弟商会のたばこの外函その他の電機銅凸版法による印刷に成功し、続いて明治32年(1899)海外からアルミニユーム平版印刷機を購入して、アルミ輪轉使用の創始者となる。越えて大正3年(1914)3月神田鎌倉河岸7号地において、神戸の人市田幸四郎氏の協力を得てオフセット印刷合名会社を創立し、初めてアメリカよりハリス式自動オフセット印刷機を輸入して、その操業を見る。ここにわが国における近代オフセット印刷の基幹は、まさに確立せられるに至った。世にこの地を、實にわが国オフセット印刷発祥の地と称せられる。翁は、以来なお一層この業の探求発展に力を注ぎ、その終生を捧げられて、昭和15年(1940)10月13日、行年74歳で惜しくも逝去された。ここに斯界における沖なの往事を偲び、わが国オフセット印刷の開拓者としての多年の功業を顕彰する。
由来、千代田区は、幕府の蕃書調所の活版術創始以来、わが国印刷の歴史に深いゆかりを持つ。このたびこの地に千代田区印刷会館が建設せられるにあたり、近代平版印刷草創のことを思い、先人の功業を敬慕して、永くこの奉を後世に傳えようとするものである。
 昭和46年(1971)6月
 中西乕之助翁顕彰会代表 八十九歳翁従三位勲二等鎌田弥壽治識



所在地 千代田区神田小川町3-9

   五十稲荷神社由緒
御祭神 倉稲魂命(食物を司る保食神)
例大祭 4月15日
 祭祀び時代は詳らかではなく、慶長の頃(西暦1700頃)既に当地に御鎮座され、徳川家に於いて安産守護神として篤く崇敬せられたと伝えられています。
 正徳の頃(西暦1750頃)栃木県足利の戸田長門守が当地を拝領し、屋敷を構えるに及び、当社地もその邸内に入り、戸田家で当地の鎮守として奉祀され、故郷の足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神(現雪輪町稲荷神社)も合わせ祀り、栄寿稲荷大名人と崇め奉り、崇敬の誠を尽されたのであります。
 当社は昔から「五十稲荷」といわれていますが、起源は古く戸田領足利で織物の市が五と十のつく日に開かれるのが慣わしであり、江戸の戸田邸でもその繁栄を祈願する為に、毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と2月の初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許しました。
 明治になり、廃藩置県制度により大名屋敷が町谷となり当社の御祭祀も崇敬者等により承け継がれ、1年を通し毎月五と十のつく日には多くの参詣があり、後には縁日が立ち「五十様の縁日」と呼ばれ、東京市内でも有名になり、俗称として「五十稲荷」と呼ばれるようになりました。
 当社の公の社号は「稲荷神社」であり、明治5年(1872)に公認の「神社」として列格致しました。
 大正12年(1923)の関東大震災迄は現在地のすぐ横に約2百坪の境内地がありましたが、震災後の東京市土地区画整理により、現在の地に縮小移転させられました。
 平成7年(1995)5月吉日 記



所在地 千代田区神田須田町1-8-4先

   神田青果市場発祥之地碑

 この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三大市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制服を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華と云われた。いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、蓮雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正十二年九月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まることができず、昭和二年十二月一日を期して現市場である神田山本町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永く発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打込んで旧市場の跡を偲ぶものとした。



所在地 千代田区神田多町2-9

 国指定文化財(建造物)
松本家住宅主屋
       平成12年(2000)4月28日指定

 旧神田青果市場の一角に、昭和6年(1931)に建てられた木造3階の建物です。建物正面は、出桁造の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りです。東京の下町における震災復興期の和風町家として大変貴重な建物です。


所在地 千代田区大手町2-1-1 (大手町野村ビル)

東京都選定歴史的建造物
   丸ノ内野村ビル(旧日清生命館)

 昭和7年(1932)に日清清明保険株式会社の本社ビルとしてこの地に建てられた旧日清生命館は、昭和16年(1941)に同社が野村生命保険株式会社(現東京生命保険相互会社)と合併した際に、丸ノ内野村ビルチンクと改称されました。
 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上8階、塔屋1階の当時の建物は、2階外壁の大部分が彫刻付テラコッタ(装飾焼物)貼り、7階及び塔屋の彫刻部分もテラコッタ造りで、繊細な衣装が壁面全体を覆うネオルネッサンス風の壮麗な建築でした。
 古典主義を規範とした丹精で清楚なその姿は、ランドマークとして周辺の人々にも親しまれてきました。
 その外観の一部、時計塔、列柱、尖塔などのほか2階部分のレリーフや玄関の門構えが、旧ビルと同じデザインで忠実に復元され、東京の歴史的都市景観を後世に伝える「大手町野村ビル」として生まれ変わりました。
 東京都生活文化局 平成9年(1997)1月



所在地 千代田区大手町2-2 (新大手町ビルヂングと大手町野村ビルの間)

 昔ここに道三堀という堀があり、そこに架かっていた橋を道三橋といいました。
 道三堀というのは江戸城の数ある堀割の1つで、竜の口(和田倉門のそば)から銭瓶橋まで蛇行する堀割でした。堀の中程には橋が架かり、南東の端には幕府典薬寮の医官今大路玄朔延寿院道三法眼の屋敷がありました。
 西側には細川越中守の屋敷があり、越中守の幼名を彦次郎と称したので、越中守橋とか彦次郎橋とも呼ばれていたようです。『江戸砂子』には今大路を今大和の姓としているので、大和橋ともいわれたのではないでしょうか。
 この堀橋には道三の外、本道、外科、針の医師も住んでいたといい、この道さんが或日将軍の御召しに遅れ、御咎めがあった時、堀を廻ったので遅れた旨答えたところ、それならば橋を架けよということになって架けられたという話が伝えられています。
 慶長(1596~1614)の頃は堀に沿って材木屋等の町屋が多くできましたが、その後武家地となり、明治42年(1909)堀は埋立てられてしまいました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会

 


所在地 千代田区内幸町1-1-7 (NBF日比谷ビル)

 ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
 この中に明治16年(1883)鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった
 千代田区


所在地 千代田区内神田2-6

       出世不動尊の由来書
 出世不動尊は、智証大師の御作にして、東潮院不動尊と申しあげ、江戸城内一ツ橋徳川水戸家の表鬼門除けとして祭祀せられましたが、明治以後は神田松下町の有志によって守護せられ、第二次世界大戦後は神田鎌倉町の要請を受け、出世不動通りが中心となってご守護いたすことになりました。
 都内でも屈指の由緒ある不動尊として知られ、一般庶民の信仰厚く、其の霊験は誠にあらたかで父子数代に及ぶ篤信家有り、27日のお縁日、歳末の羽子板市など往時の盛況は都内でも有名で古老の語り草となって居ります。
 今次大戦までは、院内に川越喜多院(天海僧正開基)より野川良源師が来院居住され、供奉に専念教化されて居られました。
 昭和20年(1945)2月の戦災により本堂は焼失いたしましたが、御本尊様は、野川氏が身を持って之れを御守護いたし、生国九州天草に難を逃れて、幸い事無きを得ました。
 爾来、川越喜多院と関係の深い植えの寛永寺水上大僧正を煩わし、節分豆撒式、毎月27日のお縁日に信徒各位のお冥福、家内安全、商売繁盛の祈願を行っております。
 現在の御本堂は昭和63年(1988)7月に完成致し、落慶法要を機に「出世不動尊奉賛会」を結成し、お守りいたしております。合掌
 平成6年(1994)7月 出世不動尊奉賛会


所在地 千代田区隼町4 (区立三宅坂小公園)




 広告がわが国仁平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年(1950)7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。
 西暦1950年 株式会社 日本電報通信社

     建設者 株式会社日本電報通信社
            社長 吉田秀雄
     制作者 菊池一雄
     鋳造者 伊藤忠雄
     施工者 松井建設株式会社


大橋佐平 博文館主 1835-1901
岸田銀次郎(初代吟香) 楽善堂主 1833-1905 
小林富次郎(初代) ライオン歯麿本舗・小林富次郎商店店主 1852-1910
長瀬富郎(初代) 合資会社長瀬商会代表社員 1863-1611
江藤直純 弘報堂主 1839-1919
岩谷松平 岩谷商会主 1849-1920
村井吉兵衛 株式会社村井兄弟商会社長 1864-1926
日比翁助 株式会社三越取締役会長 1860-1931
鈴木三郎助(二代) 味の素本舗・株式会社鈴木商店社長 1867-1931
森永太一郎 森永製菓株式会社社長 1865-1937
野間清治 株式会社大日本雄辯会講談社社長 1878-1938
瀬木博尚 株式会社内外通信社博報堂社長 1852-1939
三輪善次郎(二代) 丸見屋商店店主 1871-1939
高木貞衛 株式会社萬年社社長 1857-1940
平尾賛平(二代) 株式会社平尾賛平商店社長 1874-1943
森下博 森下仁丹株式会社社長 1869-1943
光永星郎 株式会社日本電報通信社社長 1866-1943
     1950年広告功労者選考委員会選

塩原又策 三共株式会社社長 1877-1955
     1955年広告功労者選考委員会選

中山太一 株式会社中山大陽堂社長 1881-1956
小林一三 東宝株式会社社長 1873-1957
小林富次郎(二代) ライオン歯磨株式会社社長 1874-1958
     1960年広告功労者選考委員会選

松崎半三郎 森永製菓株式会社社長 1874-1961
鳥井信治郎 株式会社壽屋社長 1879-1962
衣笠静夫 株式会社丸見屋副社長 1895-1962
吉田秀雄 株式会社電通社長 1903-1963
澁澤敬三 日本ABC協会会長・日本広告主協会会長 1896-1963
新田宇一郎 日本ABC協会専務理事 1896-1965
     1966年広告功労者選考委員会選

山本爲三郎 朝日麦酒株式会社社長 1893-1966
神谷市太郎 ライオン歯磨株式会社専務取締役 1876-1967
松宮三郎 株式会社三越広告部長 1883-1968
     1971年広告功労者選考委員会選

長澤千代造 社団法人全日本広告連盟専務理事 1893-1972
足立正 社団法人全日本広告連盟会長・社団法人日本民間放送連盟会長 1883-1973
鈴木三郎助(三代) 味の素株式会社社長 1890-1973
三島海雲 カルピス食品工業株式会社社長 1878-1974
     1976年広告功労者選考委員会選

城戸四郎 松竹株式会社会長 1894-1977
澤村三木男 株式会社文芸春秋社長 1909-1979
江崎利一 江崎グリコ株式会社会長 1882-1980
三輪善兵衛(三代) 社団法人日本ABC協会会長・ミツワ石鹸株式会社会長 1889-1980
     1981広告功労者選考委員会選

石井光次郎 社団法人全日本広告連盟会長・社団法人日本広告業協会会長 1889-1981
百瀬結 日本ビクター株式会社社長 1897-1982
森永太平 社団法人日本広告主協会会長・森永製菓株式会社社長 1900-1983
永野重雄 社団法人全日本広告連盟会長 1900-1984
野間省一 社団法人日本雑誌広告協会会長・株式会社講談社社長 1911-1984
藤山愛一郎 社団法人全日本広告連盟会長 1897-1985
     1986広告功労者選考委員会選

白川忍 社団法人日本広告会理事長・株式会社資生堂常務 1899-1986
稲山嘉寛 社団法人経済団体連合会会長・新日本製鐵株式会社社長 1904-1987
千葉源蔵 社団法人日本雑誌広告協会理事長・株式会社文芸春秋社長 1915-1988
日比野恒次 社団法人日本広告業協会会長・株式会社電通社長 1903-1989
五島昇 社団法人全日本広告連盟会長・東京急行電鉄株式会社社長 1916-1989
松下幸之助 松下電器産業株式会社社長 1894-1989
稲生平八 社団法人日本広告主協会理事長・森永製菓株式会社社長 1905-1989
田丸秀治 社団法人日本広告業協会会長・株式会社電通社長 1914-1990
竹岡稜一 株式会社ナショナル宣伝研究所社長 1909-1990
     1991広告功労者選考委員会選

杉浦欣介 味の素株式会社常務取締役 1925-1991
中畑義愛 社団法人日本広告業協会会長・株式会社電通社長 1910-1991
河口静雄 社団法人全日本広告連盟理事長・三共株式会社副社長 1898-1991
佐川幸三郎 花王株式会社会長 1919-1992
小西新兵衛 武田薬品工業株式会社会長 1907-1995
加藤誠之 トヨタ自動車販売株式会社社長 1907-1995
     1996広告功労者選考委員会選

亀倉雄策 グラフィックデザイナー 1915-1997
塚本幸一 株式会社ワコール会長 1920-1998
盛田昭夫 ソニー株式会社名誉会長1921-1999
佐治敬三 サントリー株式会社会長 1919-1999
小林敦 ライオン株式会社会長 1926-2000
徳間康快 株式会社徳間書店社長 1921-2000
     2001広告功労者選考委員会選

中楚又左エ門 株式会社ミツカングループ本社社長 1922-2002
岡内英夫 株式会社資生堂会長 1908-2004
鳥井信一郎 サントリー株式会社会長 1938-2004
茂木克己 キッコーマン株式会社社長 1915-2005
石川六郎 鹿島建設株式会社名誉会長 1925-2005
     2006広告功労者選考委員会選


所在地 千代田区隼町4 (最高裁判所)

 ここに、三河田原藩の上屋敷が、かつてありました。
 渡辺崋山は、名を定静、通称を登といいます。三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政5年(1793)に上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。
 天保3年(1842)に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め、尚歯会を結成しました。
 天保10年(1839)、いわゆる「蛮社の獄」により捕縛・投獄され、同天保10年(1839)12月に在所蟄居を命ぜられ田原に向かうまで、40年余りをこの地で過ごしました。
 昭和30年(1955)3月 千代田区教育委員会
 (平成22年〔2010〕1月補修)



所在地 千代田区北の丸公園1-1 (国立近代美術館 工芸館) 

国指定重要文化財(建物)
 旧近衛師団司令部庁舎
            昭和47年(1972)10月2日指定



 明治43年(1910)3月の建築、陸軍技師の田村鎮の設計です。近衛師団司令部は、坂下門内にありましたが、明治43年(1910)年5月29日に当地に移転してきました。昭和20年(1945)の終戦を当地で迎える。終戦後は皇宮警察の寮として使用されていましたが、昭和38年(1963)北の丸地区の森林公園化に伴い一時は取り壊しが決定されましたが、建造物としての文化財価値が認められ保存の方向で計画変更されました。屋根はスレート葺きになり、内装にも変更が加えられたが、昭和52年(1977)に東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わり、建物内の一部が一般公開されています。



所在地 千代田区北の丸公園1



 近衛歩兵第二連隊記念碑

 近衛歩兵第2連隊は、明治7年(1874)1月23日、日本陸軍最初の歩兵連隊として創設され明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清日露の各戦役に出戦し更に昭和には、日支事変にて南支、佛印へ出征し、輝かしい動功を残した。
 近衛兵は毎年全国から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年(1998)1月23日 近歩ニ会



近衛歩兵第ニ連隊は、明治七年(1874)一月二十三日、明治天皇から軍旗を親授せられこの地駐屯して以来 日夜皇居の守護に任じ また佐賀西南の役 日清日露戦役台湾征討日支事変大東亜戦争に従って武功をたてた
昭和二十年大東亜戦争の終結により七十余年の歴史をとしたが その遺勲を顕彰するため 有志相はかって記念碑を建て永く後世に伝える
 昭和四十三年一月二十三日
 元近衛歩兵第二連隊 将兵有志一同



 歴代連隊長
第1代  國司順正
第2代  黒木為慎
第3代  奥保肇
第4代  仲木之植
第5代  諏訪好和
第6代  福原豊功
第7代  坂井重季
第8代  須永武義
第9代  児王如忠
第10代 深谷又三郎
第11代 落合偉平
第12代 大庭二郎
第13代 村河正彦
第14代 金久保万吉
第15代 高島友武
第16代 津野一輔
第17代 安満欽一
第18代 河内茂太郎
第19代 尾田源太郎
第20代 佐藤子之助
第21代 熊村久次郎
第22代 大谷一男
第23代 古荘幹郎
第24代 川原
第25代 前田利為
第26代 安井藤治
第27代 阿南惟幾
第28代 飯沼守
第29代 土屋兵馬
第30代 冨永恭次
第31代 深堀游亀
第32代 小薗江邦雄
第33代 岩根清夫
第34代 芳賀豊次郎
第35代 道家章麿


所在地 千代田区北の丸公園2-1

 科学技術館は、昭和39年(1964)4月に開館しました。現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く国民に対して普及・啓発する目的で公益財団法人日本科学技術振興財団が設立した施設です。



所在地 千代田区北の丸公園2

  吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
  昭和五十六年(1981)九月

     船越保武 作
     安岡正篤 文
     桑原翠邦 書



所在地 千代田区一番町4 三番町

 この坂の名前は、五味坂といいます。「ごみ」という名前から「芥坂(ごみざか)」や「埃坂(ごみざか)」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたといいます。
 『麹町区史』には、「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば、甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で坂を登ると「上二番町」なので、二つの町を結ぶ坂として「五二坂」と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに、昭和13年(1938)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。


所在地 千代田区一番町

 この坂を南法眼坂といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名が付けられたのでしょう。坂の下は3丁目谷と呼ばれています。
 法眼の名は、『紫の一本』に”斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり”とかかれています。法眼とは僧の階級の1つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。
 平成7年(1995)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2

 この坂を新坂といいます。新しくできた坂ということでその名がつけられています。明治9年(1876)の地図には道が入っていませんが、明治17年(1884)参謀本部の図では現在にちかい道路がみえています。おそらくその頃できた坂でしょう。
 また、別の名を遅刻坂ともよばれていますが官庁街にむかう役人、登校を急ぐ学生がカバンをかかえてかけあがる風景から呼ばれたともいいます。
 昭和50年(1975)年3月


所在地 千代田区永田町1

 この坂を茱萸坂(ぐみざか)といいます。またの名を番付坂ともいいました。『新編江戸志』には丹羽家の表門側から見通すことができ、内藤紀伊守、本多伊勢守の間をぬけて九鬼長門守の屋敷前へ出る小坂で、「両にぐみの木ありし故の名なり」とかかれています。また、『東京名所図会』には「番付坂  茱萸坂の一名にして昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の所に花車の番付札ありて、其行列を改めしよりいう」とかかれています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


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