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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区紀尾井町3

寒椿眼に沁(し)む朝(あした)予算成る

       学校法人城西大学

            創立者  水田三喜男

 

 本学の創立者水田三喜男先生は、明治38年(1905)4月3日、千葉県安房郡曾呂村(現鴨川市西)に生まれ、京都帝国大学を卒業。

 第二次世界大戦後の荒廃した我が国の復興のために、戦後最初の衆議院議員選挙に自由党より立候補して初当選、爾来連続当選13回、自由民主党政調会長、吉田内閣の経済審議庁長官、石橋内閣・岸内閣の通産大臣、池田内閣・佐藤内閣の大蔵大臣などを歴任、30年にわたって国政に参与された。

 

 先生は「国の礎は教育にある」との信念から、昭和40年(1965)4月、「学問を通しての人間形成」を建学の理念として、城西大学を創立、若い人々の教育と将来の日本社会を担う人材の育成に心を尽くされた。

 これらの功績により、先生は昭和51年(1976)、勲一等旭日大綬章を受勲されたが、同年12月22日没、享年72歳。

 本学の創立40周年にあたり、我々一同は心を合わせて創立者水田三喜男先生の事績を顕彰し、生前、「京子(きょうし)」という俳号でこよなく俳句を愛された先生を偲んで、この句碑を建立する。

   平成17年(2005)11吉日

                  城西大学同窓会

                  城西大学父母後援会

                  城西国際大学同窓会

                  城西国際大学父母後援会 

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所在地 千代田区大手町2-2 (NTTデータ大手町ビル)

日本電信電話公社発足以来の念願であった 「すぐつく電話」 「すぐつながる電話」 の二大目標がこの程達成された

われわれ日本電信電話公社に職を奉じその達成に努力してきたものとしては 真に喜びに堪えない

ここに わが国電気通信事業が豊かな情報化社会の実現に向って さらに飛躍し発展することを祈念し その一里塚として記念碑を建立する

  昭和55年(1980)10月

     日本電信電話公社現退職者有志一同

 

記念像  日本芸術院会員 清水多嘉示 作

碑    文  阿部翠屋 書

所在地 千代田区丸の内1 (東京駅丸の内北口先)

 現在、東京・神田駅間の外濠(日本橋川)に架かる鉄骨鉄筋コンクリート造鉄道アーチ橋は大正8年(1919)に日本で最初に架設された長大スパンのコンクリート橋である。

 

 表面は石張りで化粧され、アーチの中央には鉄道のシンボル「動輪」が刻まれ、その端部には高さ約十メートルの石造の橋塔が威容を誇っていた。

 

 外国からの輸入技術を脱皮しようやく日本人の技術が開花した代表的な橋梁である。

 この橋塔は中央線の重層化工事に支障したため撤去し、この地に移設したものである。

  平成9年(1997)12月8日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

   奉納  献燈台壹対  神田明神献燈会

 今般神田市場の有志相議りて氏神である神田神社の廣前に御燈を献じ以て神田市場の隆昌と関係各位の安泰を祈念すべく  神田明神献燈会を結成し随神門前の左右に銅板葺反屋根造り朱塗飾金具付献燈台壹対を奉献御社頭神域に一層の威を添える事となった  ここに奉賛者各位の芳名を記し  永く久しく其の徳をたたえるものである

  昭和55年(1980)11月吉日
 
           神田神社宮司  大鳥居吾朗誌



所在地 千代田区内神田2-1

 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道おなりみち(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。


                  明治30年(1897)頃の神田橋付近(レオ マカラズヤ蔵)


所在地 千代田区一番町

 この坂を永井坂(ながいざか)といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。
 嘉永4年(1851)の「東都番町大絵図とうとばんちょうおおえず」という切絵図を見ますと永井勘九郎ながいかんくろう・永井奥之助ながいおくのすけという旗本が道をはさんで、ちょうど向かいあっているかのようにみえます。


所在地 千代田区三番町

 この坂を御厩谷坂(おんまやだにさか)といいます。『新撰東京名所図絵』には「一番町と六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り此名あり。」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。

  平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区一番町

 この坂を袖摺坂(そですりざか)といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた坂は他にも見られます。

  平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区一番町6

 都旧跡
  
滝廉太郎居住地跡

 滝廉太郎は、この交差点から西に100m程の所(一番町6-4・ライオンズマンション一番町第二)に、明治27年(1894)ごろから明治34年(1901)4月まで居住していました。今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。

 滝廉太郎は明治12年(1879)東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、明治27年(1894)東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。

 明治34年(1901)、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、明治36年(1903)6月29日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。

 滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。

  平成17年(2005)8月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区三番町24

  東京都指定旧跡 大正7年(1918)4月指定
 
 塙検校(はなわけんぎょう)(1764~1821)は江戸時代の国学者。幼名寅之助のち保己一(ほきのいち)と改名。武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼くして失明したが、江戸に出て賀茂真淵らに国学を学ぶ。和漢の学に通暁し、天明3年(1783)検校、文政4年(1821)に総検校となる。

 この間、寛政5年(1793)江戸麹町に和学講談所を設立し、講義・会読のほか京都・名古屋などにも史料を採訪して「群書類従」「武家名目抄稿」「史料」などの編纂事業を行なった。これらの編纂は明治以後の国史・国文学研究に大きな影響を及ぼした。

  昭和52年(1977)3月31日 東京都教育委員会



所在地 千代田区紀尾井町~港区 

橋下  弁慶堀

 文化財  弁慶橋・弁慶堀

 この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。

 ところで、ここには江戸時代は橋が架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。

 ここに、橋が架けられたのは明治22年(1889)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治18年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。



 和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。

 現在の橋は、昭和60年(1985)12月に改築されたもので、全長41.06m、幅22mです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。

  平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区紀尾井町

 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。

 紀伊徳川家は、徳川家康の十男便頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。

 明治5年(1872)、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


所在地 千代田区紀尾井町

 紀尾井町きおいちょうを南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上った交差点の辺りは江戸時代から「清水谷しみずだに」と呼ばれてきました。



 尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。
 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。
 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。
 平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区紀尾井町2

 清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。
 清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年(1889)5月、都市計画決定し、明治23年(1890)3月に開園しました。
 開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。



 園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。
 自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。




 園内には『大久保利通公哀悼碑』、『江戸水道の石枡』、『
秋元裕氏顕彰碑(偕香苑)』があります。


所在地 千代田区紀尾井町2-1 (清水谷公園)

 清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治23年(1890)に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。
 昭和31年(1956)都立公園となり、昭和40年(1965)、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。
 移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」を昭和59年(1984)に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。
 平成18年(2006)3月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。



 千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。
 秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。
   平成18年(2006)5月 千代田区


所在地 千代田区紀尾井町2-1  (清水谷公園)

 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)
               平成4年(1992)4月指定

 明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三にしむらすてぞう、金井之恭かないゆきやす、奈良原繁ならはらしげるら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」が完成しました。
 「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑(大久保利通公哀悼碑)」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
  平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会



  大久保利通公記念碑の裏面碑文内容の説明

 ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。
 大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。


所在地 千代田区紀尾井町2-1 (清水谷公園)

 この石枡は、昭和45年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町3-2先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
 江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応2年(1653)に着工され、翌承応3年(1654)6月に、羽村出身の清右衛門・庄内衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋もくひ
による暗渠あんきょとなり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
 発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線で、数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。このように当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられていました。この巨大な石枡は、江戸水道幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
 なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館(千代田区四番町1)で保管されています。
  平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区一番町1 (イギリス大使館前)

 明治31年(1898)、ときの英国大使アーネスト・サトウ氏(明治28年~33年在任)が英国大使館前の空地に桜の木を植え、東京府に寄付しました。
 のちに、それが見事な桜並木となり多くの人々に親しまれましたが、戦災等で枯木となったため戦後再びこのあたりに桜の木が植えられました。
 以後、新たな桜並木の名所として生まれ変わり人々に愛され続けています。
  平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区麹町1-12 (ふくおか会館)

 海獄楼跡かいごくろうあと

 幕末の鴻儒安井息軒こうじゅやすいそっけんは、慶応元年(1865)ここに居を定め、西に富嶽を望み、東に金杉の海の見える所から、海獄楼と称した。
 
 明治元年(1868)2月類焼した。

  平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)

昭和45年(1970)10月吉日
  麹町高等小学校 同窓会建立

   佐口安治 筆



< 校 歌 >昭和六十二年参月 増田先生 他 同窓会之建


ここは日本の東京市

 帝国一の大都会

我君まします皇城の

 み垣をめぐる麹町

区名をいただく小学校

 我らはここに学ぶなり
   


                                麹町高等小学校 校舎全景


所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)

 新聞紙は現代人の生活必須の容器である。我国の新聞事業が日本の進運福祉に貢献したるもの極めて多大である。仍て我国の新聞事業先覚者20名を顕彰し、茲に自由の群像を建立す。其の銓衡は現在業界の代表的人士の衆議に諮り公正審重である。
 是れ株式会社電通が創立55周年に際会し。斯界に盡さんとする微意の一である。

   西暦1955年(昭和30年11月3日)
            蘇峰徳富猪一郎 撰
            緒方竹虎 書



柳河春三     中外新聞社社長       1832~1870
成嶋柳北     朝野新聞社社長       1837~1884
子安峻      讀賣新聞社社長       1836~1898
福沢諭吉     時事新報社創立者      1835~1901
岸田吟香     横浜新報もしほ草社主・東京日日新聞社主筆  1833~1905             
福地源一郎   東京日日新聞社社長     1841~1906
陸實        日本新聞社社長        1857~1907
征矢野半彌    福岡日日新聞社社長    1857~1912
上野理一     朝日新聞社社長       1848~1919
黒岩周六     萬朝報社社長         1862~1920
島田三郎     東京毎日新聞社社長    1852~1923
阿部宇之八    北海タイムス社理事     1861~1924
一力健治郎    河北新報社社長       1863~1929
三木善八     報知新聞社社主        1856~1931
矢野文雄     報知新聞社社長・大阪毎日新聞社副社長  1850~1931
本山彦一     大阪毎日新聞社社長    1853~1932
村山龍平     朝日新聞社社長       1850~1933
岩永裕吉     同盟通信社社長       1883~1939
大島宇吉     新愛知新聞社社長      1852~1940
光永星郎     日本電報通信社社長    1866~1945
                1955年 新聞人顕彰選考委員会選

奥村信太郎   毎日新聞社社長        1875~1951
進藤信義     神戸新聞社社長       1878~1951
簗田金久次郎  中外商業新報社社長     1875~1954
緒方竹虎     朝日新聞社副社長      1888~1956
馬場恒吾     読売新聞社社長        1875~1956
徳富猪一郎    国民新聞社社長       1863~1957
                1960年 新聞人顕彰選考委員会選

藤田茂吉     報知新聞社主幹        1852~1892
箕浦勝人     報知新聞社社長        1854~1929
安藤和風     秋田魁新報社社長      1866~1936
菊竹淳      西日本新聞社副社長兼主筆 1880~1936
下村宏      朝日新聞社副社長       1875~1957
伊達源一郎   島根新聞社社長         1874~1961
板倉卓造     時事新報社社長        1879~1936
野村秀雄     朝日新聞社代表取締役・熊本日日新聞社社長  1888~1964
阿部真之助   毎日新聞社取締役主筆     1884~1964
                 1966年 新聞人顕彰選考委員会選

古野伊之助   同盟通信社社長        1891~1966
城戸元亮     大阪毎日新聞社会長     1881~1966
阿部暢太郎   西日本新聞社社長       1884~1966
高石真五郎   毎日新聞社社長        1878~1967
与良ヱ      中部日本新聞社社長・東京新聞社社長  1908~1968
正力松太郎   読売新聞社社主        1885~1969
上野精一    朝日新聞社社主         1882~1970     
一力次郎    河北新報社社主         1893~1970
                 1971年 新聞人顕彰選考委員会選

小汀利得     日本経済新聞社社長      1889~1972
田中寛次     神戸新聞社社長         1900~1972
美土路昌一   朝日新聞社社長         1886~1973
松方三郎     社団法人共同通信社専務理事  1899~1973
萬直次      日本経済新聞社社長       1902~1973
御手洗辰雄   東京新聞社論説委員長      1895~1975
                    1976年 新聞人顕彰選考委員会選

村山長挙     朝日新聞社社主・社長        1894~1977
人見誠治     秋田魁新報社会長         1898~1978
長谷川才次    時事通信社代表取締役     1903~1978
伊豆富人     熊本日日新聞社社長        1888~1978
岡村二一     東京タイムズ社社長        1901~1978
高橋雄豺     読売新聞社副社長        1889~1979
高田元三郎    毎日新聞社代表取締役     1894~1979
本田親男     毎日新聞社社長        1899~1970
上田常隆     毎日新聞社社長        1900~1980
                    1981年 新聞人顕彰選考委員会選

石井光次郎    社団法人全日本広告連盟会長・朝日新聞社代表取締役専務 
                                 1889~1981   
大軒順三     日本経済新聞社社長        1911~1982
栗山利男     読売新聞大阪本社社長        1909~1982
畠中季隆     南日本新聞社社長          1903~1982
原為雄       毎日新聞社代表取締役専務    1900~1983
宮下與吉     北国新聞社社長            1896~1984
三浦秀文     中日新聞社社長            1907~1985
大島一郎     中日新聞社社主            1903~1985
田中香苗     毎日新聞社社長            1904~1985
                    1986年 新聞人顕彰選考委員会選

前田久吉     産業経済新聞社社長         1893~1986
平岡敏男     毎日新聞社社長            1909~1986
福島慎太郎   社団法人共同通信社社長・ジャパンタイムズ社長  1907~1987
山内大介     毎日新聞社社長            1925~1987
松本重治     同盟通信社常務理事・国際文化会館理事等  1899~1989
原四郎      読売新聞社副社長・日本記者クラブ理事長   1908~1989
千葉雄次郎   朝日新聞社顧問・東京大学新聞研究所所長   1898~1990
                    1991年 新聞人顕彰選考委員会選

白石古京     京都新聞社社主・社長         1898~1991
務臺光雄     読売新聞社社長             1896~1991
石原俊輝     信濃毎日新聞社社長          1913~1993
渡辺喜久雄    北海道新聞社社長           1921~1993
円城寺次郎    日本経済新聞社社長          1907~1994
加藤巳一郎    中日新聞社社長             1917~1995
                    1996年 新聞人顕彰選考委員会選

稲葉秀三     産業経済新聞社社長           1907~1996
大石益光     静岡新聞社社長              1926~1997
山本朗      中国新聞社会長              1919~1998
森田康      日本経済新聞社社長           1924~1998
松下宗之     朝日新聞社社長              1933~1999
西村二郎     新潟日報社会長              1903~1999
小林與三次   読売新聞社名誉会長            1913~1999
                    2001年 新聞人顕彰選考委員会選

福田利光     西日本新聞社会長             1912~2001
広岡知男     朝日新聞社会長               1907~2002
坂上守男     京都新聞社社長               1925~2004
新井明      日本経済新聞社社長             1925~2004
渡邉孟次     社団法人共同通信社社長         1913~2005
                    2006年 新聞人顕彰選考委員会選



     建設者 株式会社電通 社長 吉田秀雄

     制作者 菊池一雄

     設計者 谷口吉郎

     鋳造者 伊藤忠雄


所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)

 対墨日本人移住百周年記念

メキシコ国民より日本国民へ贈呈

   1897 - 1997

    作者:セバスティアン

    作品名:「移住」

    製作年:1997年

    材質:スチールプレート

    寸法:420×420×240cm

    重量:1,000kg


所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)

第一東京市立中学校発祥之地

大正13年(1924)4月  成田千里校長のもと開校す

第一精神と智・徳・体 三位一体の新教育を行い

昭和3年(1928)1月  九段上の新校舎に移る

東京都立九段高等学校の原点なり

  昭和63年(1988)5月5日 菊友会


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