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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区霞が関3-2 (霞が関コモンゲート)

 千代田区指定有形文化財(歴史資料)
       工部大学校阯碑



霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地域は、日本の工学発祥の地です。明治6年(1873)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、明治10年(1877)には工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された外国人教師に依って教授されていました。しかし工部大学校は明治19年(1866)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の全身です。工部大学校の移転後、工部大学校地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし、大正12年(1923)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も倒壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影がなくなってしまいました。そこで工部大学校出身者たちは、かつてこの地に工部大学校地があったことを記念して、昭和14年(1939)「工部大学校阯碑」を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際に倒壊した建造物の煉瓦などが用いられています。「工部大学校阯碑」は、千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を後世に語りかけてくれます。さらに、震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。
    平成6年(1994)3月
       千代田区教育委員会(平成22年(2010)10月補修)



  碑文
此地ハ明治天皇ノ聖跡ニシテ又実ニ我国工学発祥ノ処ト為ス初メ明治4年(1871)工部省工学寮ヲ此ニ置ク明治6年(1873)寮内ニ工学校ヲ開テ明治10年(1877)改メテ工部大学校ト称シ工作局ノ所管ト為ス翌明治11年新築校舎成ルヲ以テ7月15日明治天皇親臨シテ開校ノ典ヲ挙ゲ給フ皇族大臣参議以下参列シ其義極メテ荘厳ナリ天皇勅語ヲ賜フ中ニ百工ヲ勤ムルハ経世ノ要ニシテ時務ノ急ナリ自今此校ニ従学スルモノ■勉シテ以テ利用厚生ノ源ヲ開カンコトヲ望ムノ語アリ次ニ校舎ノ鍵鑰ヲ工部省御用取扱参議伊藤博文ニ賜ヒ伊藤博文之ヲ拝受シテ工作局長大鳥圭介ニ授ケ又奉答ノ辞ヲ奏ス式畢リテ天皇各教場ヲ巡覧シ学生ノ進講ヲ聴キ理科学ノ実験ヲ視給ヒテ後還幸アラセラル抑モ此地ハ麹町区三年町ニ在リ旧延岡藩邸ノ遺趾ニシテ面積約1万2千坪本校舎ハルネイサンス式二階建ニシテ之ヲ中心トシテ博物館実験室工作場生徒館等前方及フィ左右ニ排地セラレ堂々トシテ虎之門濠頭ニ聳ユ総テ煉瓦造ニシテ宏壮偉観ヲ極ム是ニ於テ土木機械電信造家化学鉱山冶金ノ諸学科備ハリ尋イテ造船学科ヘ俊才輩出ス明治18年(1885)工部省廃セラレタルヲ以テ文部省ノ所管トナリ翌明治19年(1886)帝国大学令ノ発布セラルルニ及ヒ工科大学トナリ綜合大学ノ一部ヲ為ス後本郷区ノ新校舎成ルニ及ヒ之ニ移り虎之門ノ土地諸建造物ハ挙ゲテ宮内省ノ所管ニ帰シ或ハ帝室博物館ノ倉庫トナリ或ハ維新史料編纂事務局東京女学館等ニ使用セシメラル大正12年関東地方大震火災ノ起ルヤ諸建造物皆甚シク害ヲ被リ復用フ可カラサルニ到ル既ニシテ帝都復興ノ事業始マルニ及ヒ旧地ヲ掃清シテ文部省会計検査院華族会館東京倶楽部東亜文化学院等ノ諸建造物新ニ此ニ経営セラル両シテ遂ニ一物ノ旧容ヲ留ムルモノナシ我等工部大学校出身者ハ頗ル懐古の情ニ堪ヘサルモノアリ及チ相謀リテ小記念塔ヲ作り之ニ石版ヲ嵌入シテ此一大学園ノ由来ト処在トヲ記ス庶幾クハ聖跡ト史蹟トヲ永ク後世ニ伝フルヲ得ン工学博士大熊喜邦夙ニ思ヲ之ニ致シ辛苦シテ当時ノ遺物ナル煉瓦石材鋼材等ヲ拾集シ以テ此塔ヲ作成ス塔ノ位置ハ蓋シ本校舎左翼館ノ中央ニ当ルト云フ
   昭和14年(1939)4月
        工部大学校出身虎之門会作之
           虎之門会員工学博士 曽禰達蔵撰



Historical Relic Designated by Chiyoda City as a Tangible Cultural Heritage
Monument to the Old Kobu Daigakko (Imperial College of Engineering)

The Kasumigaseki Common Gate and its surroundings constitute the birthplace of engineering education in Japan.Kogakko an engineering college,was opened in 1873 to develop domestic humanresources for industry.It was renamed Kobu Daigakko in 1877,and courses in civil engineering,mechanical engineering,architecture ,etc.,were taught by foreign instructors invited from abroad .In 1886,the college was moved to Hongo.

The college's old premises were subsequently used as a school and museum before being destroyed in the Great Kanto Earthquake in1923.Then, in 1939,graduates of the college built this monument using bricks and other remains of the destroyed building.

The Monument to the Old Kobu Daigakko is a reminder of Japan's first engineering educational institution,which wad edtablished in Chiyoda City,and the history of the city's severe suffering from the great earthquake.

March 1994
                                         Chiyoda City Board of Education
                                                 (Repaired in Octover 2010) 

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所在地 千代田区麹町1-5-4

御祭神 倉魂稲命(うかのみたまのみこと)

 麹町 太田姫稲荷神社 縁起

 当神社は、駿河台太田姫稲荷神社の分社と思われますが両社の伝説も共通のものがありますので左記に記します。
 伝説によれば、室町時代太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病み、薬石効なく一日一日と悪化の道をたどりつつあったとき、友人に「山城国一口の里にある稲荷神社に祈願しなさい。どんな重い天然痘でも忽ち平癒するから」と言われ、太田道灌は早速稲荷神社に参詣祈願、帰国すると姫の病は忽ち平癒した。江戸築城のとき太田道灌は崇敬、感謝の念で一口稲荷を伏見より勧請、江戸城内にお祀りした。時は長禄元年(1457年)のころであったと言われます。



 後、徳川家康・江戸入府、慶長11年(1606年)江戸城改築の際、城内にあった神社、仏閣を城外に移したが、太田姫稲荷神社も駿河台の淡路坂(一口坂=いもあらいざか)上に遷座され、その御変遷を経て現在の地に鎮座しております。



 一口坂は、「いもあらい坂」と言われており、九段の一口坂神田一口坂昌平橋(いもあらいばし)などがあります。いもあらい(一口)の意味は、当時天然痘を「いもがさ又はへも」とも呼ばれたので「天然痘を洗い流して直す」からきたものと解釈されています。
 現代は、病気平癒、商売繁盛の神として崇敬されております。
 平成6年(1994年)5月20日 祭祠再開20年を記念して建之
           麹町 太田姫稲荷神社


所在地 千代田区九段北4-1-31

 この坂を一口坂といいます。「麹町区史」には”一口坂の一口は大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である”とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもとよんで、疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。


所在地 
千代田区外神田1-9-2 

  講武稲荷神社縁起由来(町会所有)

 当社は旅籠町3丁目にあり、安政4年(1857)の鎮座にして神体は宇之御魂命なり 一説に運慶作なりと伝ふ 昔時大貫伝兵衛なるもの当講武所附属地の払下を出願し其の許可を得んが為め浅草橋なる長昌寺に安置せる此稲荷神社に参詣し 祈念怠ざりしかば遂に安政3年(1856)5月22日を以て 払下免許となりたる由 これが為翌年社祠を造営し其の本体を橋場より本社に移したるを以て創始として居たる今尚ほ毎年5月22日を大祭日としている。



 尚段の社域は大正12年(1923)の震災の際焼失せるも其後区画整理により現在地に安置せられたり 一般に火伏せの神なりと其の霊の灼さを伝へられ更に此の火伏護神と共に花街の繁昌に貢献顕著だと伝ふので近隣の三業関係人は勿論遠く向島辺から参詣人が多く時ならぬ賑かさも有りと申されて居る。(古文のまま)
 戦災で復興・昭和55年(1980)改装・このたび銅板にて由来板を新装しました。

    平成6年(1994)2月 初午外神田旅籠町会    


所在地 千代田区神田須田町1-11 
               (旧連雀町18番地)

御祭神 倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )



山城国稲荷山の分魂・柳森神社攝社にして蓮雀街創立の頃より町内鎮守神と祭祀す。青果商う者、出世奉賽の為に建立すとも云う。其後延享年間火災の折、柳森神社に合掌祭祀し例年2月上の午日、町内に迎え祭典執行居りしも明治7年(1874)5月町内地続き武家地新開成るに及び蓮雀町18番地に信者奉願造営遷座せるものなり。明治8年(1875)東京府境内見捨地とす。
大正12年(1923)5月社殿改築の議起り、柳森神社へ神璽を遷し、9月竣工の運びとなりしも、9月1日突如起りし関東大震災の為、新営・町家共に灰燼に帰す。幸いにも神璽は柳森神璽と共に偶然にも神田川いなり河岸に繁留ありし稲荷丸という船(多町青果市場納入便船)に遷奉し猛火を潜り河口を脱出難を避けた。



現社殿は昭和3年(1928)遷座建立せしものにて、年々9月15日町内及び信者一統相寄り柳森神社柳原宮司のもと祭祀司る。
其後町内戦火にも免れ、火災災厄一つとしてなく遠地よりの参拝も多く、火防・商売繁栄学業成就の神として多大の崇敬を集めている。
                          謹 記


所在地 千代田区猿楽町

 この坂を男坂といいます。駿河台2丁目11番地の端から猿楽町へ下る石段の坂”女坂”に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。
 男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。


所在地 千代田区猿楽町2・千代田区神田駿河台2

 この坂を女坂といいます。駿河台1 丁目七番地の端から猿楽町に下る坂「男坂」に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので、「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは、大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。


所在地 千代田区神田駿河台4・神田淡路町2

 この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形になりました。『東京名所図会』には、”紅梅坂は””往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す。”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。


所在地 千代田区神田駿河台1-1 (明治大学 駿河台キャンパス)

建設者 鵜澤聡明博士顕彰会
       会長 天野伴睦
       副会長 阿保浅次郎
             石井滋

彫塑

  鵜澤先生は 明治大学総長に就任すること五回に及び 在任中の昭和三十年十月二十一日逝去される 行年八十三
 郷土の有志先生の遺徳を永遠に伝えんつぃ 高原正高氏等の協力に依りそn顕彰会が生れたのである

  昭和三十六年十月吉日


所在地 千代田区平河町1-7-5

御祭神 菅原朝臣道眞公(学問の神)

    相殿 誉田別命(八幡宮)
        徳川家康公(東照宮)

 拝殿

摂末社
  平河稲荷神社(商売の神)
  三殿宮    大鳥神社(おとりさん)
           塩神社(生活の神)
            浅間神社(せんげんさん)

 神楽殿

祭事例大祭4月25日
    梅花祭(3月) 夏祭(八月)他、恒例祭



江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
慶長12年(1607)2代将軍徳川秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。

 境内には『銅鳥居』、『狛犬』、『常夜燈』、『慰霊平和記念碑』、『百度石』、『力石』、『筆塚』、『三殿宮』、『平河稲荷神社』、『石牛』があります。


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形文化財(建造物)
 平河天満宮銅鳥居
     平成6年(1994)4月指定

 この銅鳥居は、高さ5メートルにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。



 童謡に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは、『文政武鑑』に「御鋳物師 西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘・灯籠・水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。



 なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政時らによって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかっています。
 平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会
 

所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の狛犬
     平成7年(1995)4月指定

 本殿向かって右側の石像の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、嘉永5年(1852)にこれらを補修して再設置した、とのことです。
 「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に『紫宸殿堅聖障子』といわれるものであると思われます。「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10センチ、深さ5センチほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対になっているといえます。
 平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮す人々の平河天満宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮



大鳥神社(おとりさん)

 御祭神 日本武尊命(やまとたけるのみこと)
           
塩神社(生活の神)

 御祭神 豊斟渟神(とよくみぬのかみ)

浅間神社(せんげんさん)

 御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の常夜燈 一基
     平成17年(2005)4月1日指定

 この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げて往時をしのばせています。
 寸法は、高さ3.45m余、幅・奥行ともに1.26mです。
 材質は、安山岩ですが、火袋には花崗岩が、基礎にも新しい石材が使用され、ともに後世に補われたものです。
 装飾は、火袋の左面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。
 銘文は、竿に「常夜燈」(正面)・「奉納」(左側面)・「別当常全代」(背面)・「嘉永五王子年閏二月吉祥日」(右側面)とあります。また。基壇にも、「雲龍堂」(三段目の正面)とあるほか、二段目及び三段目全体に世話人・発起人をはじめ「雲龍堂充國門弟」・「龍海堂門弟」・「充國門弟」の肩書をもつ多数の人名があり、嘉永5年(1852)閏2月にこれらの人々により奉納されています。
 雲龍堂と龍海堂は区内にあった寺子屋です。雲龍堂は、文政年間から文久年間(1818~1864)まで麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあり、町人の光國が教師となり、生徒数は250名(男150名・女100名)でした。龍海堂は、文化元年(1804)松田町(現在の鍛冶町2丁目)に開業し、町人の布施タキが教師となり読み書き・算術・活花を教え、生徒数は160名(男55名・女105名)でした。
 なお、嘉永5年(1852)は菅原道真公の950遠忌であり、当社でも2月25日から4月5日まで開帳が行なわれ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ケ所、発句連の句会開催、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われました。また、境内には、この開帳にあわせて作製・奉納されたと考えられる石造物が3件あります。(狛犬〔再建〕・百度石筆塚)。
 この常夜燈は、区内の寺子屋とその関係者の天神社に対する信仰の様子を物語るものです。
 平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

千代田区指定有形民俗文化財
 平河天満宮の百度石 
     平成15年4月1日指定

 百度石とは、百度参りを行うために使用される石標で、百度参りが行われる神社が境内に立て、そこから往復参拝するよう目印としたものです。百度参りは、個人的な心願のため特定の神社に百度参詣を行うことで、最初は百日間にわたり毎日参詣する形でしたが、のちには一日のうちに百度参詣する形に変化したといわれます。ただし、この百度石の場合は、背面に奉納者と思われる多数の人名がありますので、何らかの結願の結果として建立・奉納されたと思われます。
 この百度石は、銘文から、高橋丈鯉が制作したものを、嘉永5年(1852)2月に鮫ヶ橋の岸岡仙太郎ら67名が奉納したものです。奉納者67名は、①鮫ヶ橋など地名を肩書きに持つもの、②松浦藩・永井藩・本郷藩・片桐藩という藩名を肩書きに持つもの、③肩書きがなく名前だけのものが混在しています。奉納者は地縁的な繋がりは考えにくいため、学問上の繋がりの中で奉納したとも思われ、平河天満宮と、周辺の町や人々との関わりを考えることができます。 
 奉納された嘉永5年(1852)は、菅原道真公の950年遠忌にあたり、江戸市中でも平河天神のほか亀戸天神牛天神で会長が各60日行われています。平河天神では、嘉永3年(1850)の火災による修復入用を賄うために別当龍眼寺が出願し、2月25日から4月5日まで開帳が行われ、御真筆・御影・神宝が公開され、作庭が3ヶ所、発句連の句会が開催され、境内では曲馬・手妻・鉄割りなど興行も行われ、百度石の他にも、狛犬常夜燈筆塚の3件がこの開帳に合わせて奉納されています。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

   千代田区指定有形民俗文化財
       力石(天龍石)  指定 平成5年(1993)4月

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位のむらではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多いとされています。
 また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の進入を防ぐための神であり、呪い等であったようです。(疫病は道を伝わって来ると信じられていました)。
 平河天満宮の力石の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
 なお、本力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。
 平成6年(1994)12月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町1-7-5 平河天満宮

    碑 文
 南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は 平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地に転戦し 勲功を挙げた 終戦50周年を向かえ生存者及遺族相倚り賛華した戦友を慰霊し萬世泰平を祈念し ここ所縁の地平河天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を 後世に伝えんとするものである
           平成8年(1996)11月15日

    附 記
 昭和14年(1939)11月15日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結11月28日品川駅より勇躍征途に着く 11月30日宇品港出帆12月7日 広東省黄浦港上陸翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた 翁英作戦 賓陽會戦 南寧地区警備 欽寧附近掃討作戦 江南作戦第二次西路作戦 仏印国境作戦南寧地区警備欽寧撤去作戦 中山附近警備 賓陽會戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与 昭和15年12月12日広東省唐家出帆 昭和16年1月3日東京芝浦港に上陸帰還 
1月13日復員完結
    南支派遣  近衛歩兵第一聯隊第八中隊 梅鉢会


    平河天満宮に建碑の由来
昭和14年(1939)11月近衛歩兵第一聯隊に動員下令され 第八中隊は麹町2丁目の家庭に分宿し、町会、麹町小学校、在郷軍人会、国防婦人などの温かいご協力を得て動員業務を完結した
天満宮より社紋入りの小林茂隊旗を賜り梅鉢隊と呼称し退院は梅鉢の社紋を襟に付けて歓呼の声に送られ勇躍征途についた
終戦50周年に当たり慰霊平和の記念碑を所録の地天満宮に建立し併せて当時の恩義に対して深甚なる感謝の意を表すものである


所在地 千代田区九段南1-2

 早稲田大学創立者大隈重信(1838~1922)は、明治新政府に出任し、大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
 大隈重信は、1876(明治元年)年10月から1884(明治17年)年3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
    創立125周年を記念して

        2007(平成19)年10月  早稲田大学・千代田稲門会


  大隈重信邸(奥には九段坂上の常燈明台がみえる)(提供:平凡社)

    大隈重信邸跡

 近代なるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年(1876)には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
 その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

    江戸幕府蔵屋敷の礎石

 江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城附属の施設が置かれました。 
 平成16年(2004)の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え、小さな石材は床を支える基礎と考えられます。
    
                監修:千代田区教育委員会


所在地 千代田区霞が関3-8-1 (虎の門三井ビルディング)

 洋学者子安峻(こやすたかし)らが 当時虎の門外琴平町1番地の旧武家屋敷に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治7年(1874)11月2日である
 江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号とし 漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで「千里を走る虎の門 ことにひらがなは一番なり」と歓迎された
 維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞史上類例のないことである

   昭和49年(1974)11月 東京都港区教育委員会


所在地 千代田区霞が関3-8-1 (虎の門三井ビルディング)

 国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台
  National Historic Sites
   Site Edo Castle Outer Moat
    Masonry wall at the Turret Tameike
         (指定:昭和31年〔1956〕3月26日付)



 この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。この地域の堀は明治時代に埋められましたが、これらの石垣によってかつての外堀をしのぶことができます。



 江戸城外張りの隅櫓は、このほかに筋違橋門と浅草橋門だけにあり、唯一この石垣だけが現存しています。これらの櫓は、江戸の南北をかんな通する主要道に面しており、特に2つの櫓を置くこの地域は、江戸初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にあたります。この石垣は、江戸城防備の要衝とともに、都市政策上も重要な地域であったことを示しています。

 平成21年 文化庁・千代田区



 江戸城外堀跡は、寛永13年(1636)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠のうち、史跡指定された約4kmの範囲です。この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。


所在地 千代田区大手町1-5-1 (大手町ファーストスクエア)

中原市五郎は、この地に、明治40年(1907)6月、公立私立歯科医学校指定規則に基づくわが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治42年(1909)に現在の千代田区富士見1丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和22年(1947)に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を承継し、生命歯学部と新潟生命歯学部の2学部をはじめ、大学院2、附属病院3、短期大学2、博物館1を有する世界最大の歯科大学となった。

 日本歯科大学創立100周年記念 2006年1月吉日建立
  日本歯科大学校友会
  




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