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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区三番町 四番町

 この坂を行人坂といいます。『新撰東京名所図会』には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方に上る坂を称す」とかかれています。また、『御府内備考』にも「行人坂、古某法印と称する行人この辺りに居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」とあります。もともと一連の坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と3つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区四番町1 (千代田区立四番町 図書館・歴史民俗資料館)

 網野菊(1900~1978)は「光子」、「さくらの花」に麹町界隈の庶民生活を描いた。幼少の頃よりこの地に親しみ、昭和17年(1942)からは空襲で焼けるまでここに住んだ。



Amino Kiku(1900-1978) depicted the life of the common from theneghborhood of Koujimachi in her bookd,"Mitsuko"and "Sakuranohana".She had a special affection for this place since her childhood,thus she lived here from 1942 until the house was destroyed by an air raid.


所在地 千代田区四番町 三番町

 この坂を東郷坂といいます。東郷元帥邸の西側にあるこの坂は、明治38年(1905)10月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂、法眼坂(行人坂)南法眼坂の3つの名にわかれていますが、古い地図をみると「法眼坂」のみかかれています。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田駿河台1-2

   太田姫稲荷神社

古社名 一口稲荷神社

御祭神 宇迦之御魂神
     菅原道真公 
     徳川家康公

末社   金山神社 金山彦命

氏子区域  千代田区神田駿河台1、2、3、4丁目
        千代田区神田錦町1丁目、小川町2丁目



 太田姫稲荷神社は、我国の数多い神社の中でも、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
 神社に伝わる古絵巻と、『駿河台文化史』(昭和10年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は9世紀の伝説に始まります。
 百人一首の名歌で知られる参議小野の篁(おののたかむら802-852)は、その詩才に白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。彼は、遣唐副史にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言され隠岐に流されたことは有名な出来事です。
 絵巻物の伝承によると、承和6年(839)はじめ、篁が伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出航してまもなく、海上にわかに6,7丈の大波が荒狂い。雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して船のへさきに座り、普門品(ふもんぼん=観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡(ほうそう=天然痘=当時しばしば大流行し多くの死者が出たがその治療法がないため非常におそれられていた。)患れべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう。」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。とのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに、山城国(今の京都府)の南にある一口の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
 江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の太田道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなくかの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたがこの日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。太田資長朝臣(後の太田道灌)は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立した。その後太田資長朝臣(後の太田道灌)はこの社を敬拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。今から約534年前第103代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
 慶長8年(1603)8月徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行い城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。

慶応2年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し

明治5年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。
例祭日は毎年4月18日と定められ、後に5月15日とあれたむ。

大正12年(1923)関東大震災で類焼。御神体のみ無事に湯島天神社に避難する。

大正14年(1925)仮社殿が落成し御神体を奉安す。

昭和3年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築さる。

昭和6年(1931)お茶の水駅、両国駅間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。


所在地 千代田区神田駿河台1-8-11 (東京YWCA会館)

 文政10年(1827)、この地に生まれ育った小栗上野介(1827~1868)は、幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いた。



This is the place of birth of Oguri Kozukenosuke(1827-1868),who took the lead of the fiscal policy and the Japanese diplomacy in the late days of the Tokugawa shogunate.Through construction of big shipbuilding yard in Yokosuka city,he inaugurated the way for the modernization of the Japanese shipbuilding  industry.


所在地 千代田区神田駿河台1-8-13 (駿河台日本大学病院) 

 法政大学の前身である東京法学社は、1880年(明治13年)4月、旧駿河台北甲賀町19番地池田坂上(現在、千代田区神田駿河台1丁目8番13)に設立されました。
 翌1881年(明治14年)5月、東京法学社の講法局が独立して東京法学校となり、その開校とともに日本近代法の礎を築いたフランス人法学者ボアソナード博士による講義が始まりました。
 その後、和仏法律学校を経て、1903年(明治36年)8月法政大学と改称されました。
 2011年(平成23年)5月建立





所在地 千代田区神田駿河台1-8 

  「杏雲堂」という名前の由来
 古く中国西晋時代の神仙伝の一節に、呉の国の薫奉(とうほう、字は君異)という名医の逸話として、「人のために病を治すも銭物をとらず、病の癒ゆる者、軽症の時には杏1株を植えしめ、重症の時には5株を植えしめたり。かくの如くすること数年にして10万余株となり、鬱然として林を成し、杏花雲の如く、杏子大に熟せり。」とあります。
 つまり、昔中国ある名医が治療費の代わりに杏の木を、重傷者には5株、軽症者には1株植えさせ、それが後に大きな杏の林になったというお話です。この故事から、医家・医師のことを「杏林」と言うようになりましたが、初代佐々木東洋は「杏花雲の如く」に感じて、明治15年(1882)6月1日の開院時に、「杏雲堂病院」と命名したと伝えられています。



 杏雲堂病院敷地内には『大久保彦左衛門屋敷跡碑』、『佐々木政吉胸像』、『佐々木東洋胸像』が、病院向かいの御茶ノ水杏雲ビル敷地内には『佐々木隆興胸像』あります。


所在地 千代田区神田駿河台1-8 (杏雲堂病院)

 佐々木政吉(1855~1939)
安政2年(1855)、江戸生まれ。
大学東校を卒業後、明治13年(1880)から5年間ドイツ遊学し、帰朝後、日本人として最初の東京帝国大学医科大学教授に就任。
明治21年(1888)、本邦医学博士第2号として医学博士授与。
明治24年(1891)、官命によりロベルト・コッホのベルクリン療法調査研究のためドイツへ出張。
明治27年(1894)、佐々木研究所の母体となる研究室を自邸敷地に新築。
明治29年(1896)、佐々木東洋の後を受け杏雲堂医院院長に就任、平塚市に結核療養所を設立。
大正5年(1916)、顧問に就任。大正13年(1924)、古希をもって引退。
昭和14年(1939)、85歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台1-8 (杏雲堂病院)

 佐々木東洋(1839~1918)
天保10年(1839)、江戸本所四つ目生まれ。
佐藤泰然の佐倉順天堂塾を経て長崎へ留学し、ポンペからオランダ医学を学ぶ。
東京に戻り、明治4年(1871)に大学東校医長に就任。
博愛舎、東京府立病院を経て、明治7年(1874)、36歳で大学東校病院長に就任。
辞任後、政府の脚気病院で洋方医部門を担当したが、明治15年(1882)に42歳で神田駿河台に杏雲堂医院設立。
東京府医師会本部幹事、西南戦争に軍医として参加。
明治29年(1896)、57歳で引退し佐々木政吉杏雲堂医院長に就任。
大正7年(1918)、80歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台2-2 (御茶ノ水杏雲ビル) 

 佐々木隆興(1878~1966)
明治11年(1878)、東京本所生まれ。養祖父は杏雲堂病院創立者である佐々木東洋、養父は2代目院長の佐々木政吉。
東京帝国大学医学部卒。ドイツに5年間留学し、化学、生理化学、細菌学、血清学などを学ぶ。
帰国後、京都帝国大学医学部内科教授を努め、大正5年(1916)、杏雲堂医院院長に就任。
昭和14年(1939)、私財を投じて佐々木研究所を創設し、理事長兼所長に就く。
癌研究会癌研究所長、結核予防会結核研究所長、帝国学士院会員、日本内科学会会頭、国際癌会議(東京)名誉会長などを歴任。
大正13年(1924)、『蛋白質およびこれを構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に関する研究』により帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和11年(1936)、『アゾ色素の経口投与によるラット肝癌の発生』により吉田富三と共に2度めの帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和15年(1940)、文化勲章受賞。
昭和26年(1951)、文化功労者に選ばれる。
昭和41年(1966)、88歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台2-3-1先

〔碑文〕
  お茶の水
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし
          「再校江戸砂子」より

慶長の昔 この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた
  お茶の水保勝会 坂内熊治
  高林寺       田中良彰
昭和三十二年九月九日


所在地 千代田区神田駿河台2-11先

 江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596~1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。
 上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。
 上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。
 懸樋は、万治年間(1658~1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区神田駿河台2

 この坂を皀角坂(さいかちざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河臺鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。
 平成18年(2006)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区神田駿河台3-11 (三井住友海上駿河台ビル) 

  中央大学駿河台校舎跡之碑
中央大学の創立者は増島六一郎ら新進の法曹を中心とした18人の思想家達であった。これら先覚は穏健な民主主義を基盤に実務と実証を重んじるイギリス法の理解と普及こそがわが国の近代化に不可欠であるとして明治18年(1885)9月10日東京市神田区神田錦町の地に英吉利法律学校を開校した。その後校名は東京法学院 東京法学院大学と改められ明治38年(1905)8月中央大学と改称し今日に至っている。この校名の由来は学術の中枢たるべきを期したものであり同時に所在地の神田が東京の中央 日本の中央であるとの意を含むものであった。その後大正12年(1923)の関東大震災により錦町校舎が消失したのを契機として大正15年(1926)8月31日ここ神田区駿河台南甲賀町に移った。爾来54年間の長きに亘ってこの地において着実な発展を遂げてきた本学は昭和55年(1980)3月八王子市東中野の校地に研究教育の近代的な殿堂を整えて移転を完了しあらたな飛躍に向けての努力を続けている。中央大学創立100周年にあたりこの地に繰り広げられた本学の歴史を偲び記念の碑を建てる。
  昭和60年(1985)7月8日 中央大学


所在地 千代田区神田神保町2-10 

舌代
此お地蔵様は京都熊野郡久美浜町字古神谷の本願寺より明治四十三の秋東洋幼稚園と東洋家政女学校の校長岸辺福雄先生がお寺に■願の上譲り受け当地■■いて来られたのであります 
年々の供要は湯島の霊雲寺の住職に依てお祭りを■■毎日■■されました作者は不明ですが鎌倉時代のものと申されて居ります
大正十二年の大震災で十数個はこわれましたのをつぎ合わせました 岸辺先生はカバン地蔵と名付ましたが誰云ふとなく身代り地蔵子育地蔵とか火消し地蔵と申されて居ります 区割整理の為当町でお守する事になり大震災大東亜戦又は事故死その他各位の方々の霊をおまつりし 年々供要を兼ねお祭りをし愛全地蔵と霊雲寺の和尚さんは名付て裁き■■皇太子御成婚記念としお堂新築■したのであります 
昭和三十四年四月吉日 愛全地蔵講



所在地 千代田区神田神保町3-10 

 専修大学の黒門
専修大学の前身である「専修学校」は、明治13年(1880)京橋区木挽町(現在の中央区銀座3丁目)に誕生し、明治18年(1885)7月神田区今川小路2丁目8番地(現在の神田神保町3丁目8番地)に移転し新校舎を設置しました。



 この当時の正門が黒渋で塗られた冠木門であったことから、「専修学校」の愛称として黒門とよばれたものでありました。黒門は明治40年(1907)の校舎改築により姿を消すこととなりますが、その名称は現在の専修大学の象徴として生き続けています。
専修大学創立130年にあたり専修大学育友会のご厚意によりここに102年の時を経て黒門が復元しました。
 平成22年(2010)3月吉日 学校法人専修大学


 相馬永胤
そうまながたね
  1850年(嘉永3年)~1924年(大正13年)
彦根藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
途中、学費調達のため一時帰国。コロンビア大学卒業後、イェール大学大学院で法律学、経済学を学ぶ。
専修学校を創立。初代校長、初代学長を歴任。『米国紐育州訴訟法』などを著し、法律科の講義を担当。この間、司法省附属代言人、判事、横浜正金銀行取締役、同頭取などを歴任。第1回衆議院議員選挙にも当選。


 田尻稲次郎たじりいなじろう
  1850年(嘉永3年)~1923年(大正12年)
薩摩藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
イェール大学卒業後、同大学院で経済学、財政学を学ぶ。
専修学校を創立。英国マクラウド原著『銀行史』などを著し、経済科の講義を担当。専修学校で教鞭をとるかたわら、東京大学講師となり理財学を講義。
大蔵省銀行局長、大蔵省主税局長、大蔵次官、大蔵総務長官、会計検査院長、京市長などを務めた。法学博士。


 駒井重格こまいしげただ
  1853年(嘉永6年)~1901年(明治34年)
桑名藩士の家に生まれる。1874年から1879年まで旧桑名藩主・松平定教に随従し、アメリカに留学。ラトガース大学で経済学を学ぶ。1879年帰国。
専修学校を創立。英国グーシェン原著『外国為換論』などを著し、経済科の講義を担当。大蔵省准奏任御用掛となり、大蔵省参事官、大蔵省国債局長などを歴任。高等商業学校(一橋大学の前身)校長を務め、名校長として慕われた。


 目賀田種太郎めがたたねたろう
  1853年(嘉永6年)~1926年(大正15年)
幕臣の家に生まれる。1870年から1874年までアメリカに留学。
ハーバード大学卒業。1875年留学生監督として再渡米、1879年帰国。
専修学校を創立。『私訴犯法』などを著し、法律科の講義を担当。
司法省附属代言人、判事、大蔵少書記官、大蔵省主悦官、横浜税関長、韓国政府財政顧問、枢密顧問官も務めた。


所在地 千代田区神田須田町1-3-3 

国指定登録有形文化財(建造物)
 山本歯科医院
     平成17年(2005)2月9日指定



所在地 千代田区神田須田町1-25 

『御府内備考』に”御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至るの道をいう”とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。
 江戸時代筋道の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また大々餅で売り出した有名な店もありました。
  昭和51年(1976)3月 千代田区


所在地 千代田区神田淡路町2-3 

国指定登録有形文化財(建造物)
 第1KSビル
     平成17年(2005)2月9日指定



所在地 千代田区神田淡路町2

 この坂を新坂といいます。『東京名所図会』には“新坂は維新の後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂紅梅坂の間、阿部主計頭の屋敷にして、此処より駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の練塀を道幅だけ取毀ちて通路を開きたり。ゆえに俗呼んで新坂といえり”とかかれています。維新の後とのみかかれその年月は不明です。
 昭和50年(1975)3月 千代田区


所在地 千代田区神田淡路町

 この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には”新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし、茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし''とかかれています。しかし、延宝(1637~1680)、元禄元年(1688)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。
 昭和51年(1976)3月 千代田区


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