忍者ブログ
東京都千代田区の歴史
[12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 千代田区富士見1

 この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
 『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。
 昭和50年(1975)3月 千代田区教育委員会

PR


所在地 千代田区富士見2 九段北3

 この坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区にも3ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。
 昭和50年(1975)3月 千代田区



所在地 千代田区平河町1

 この坂を貝坂といいます。『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならはせしとなり。ある説に、貝塚法印というが墓なりともいひて、さだかならず」とかかれていますが、貝塚があったというのが現在定説となっています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区平河町

 この坂を中坂といいます。元禄4年(1691)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(1704)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。
 中坂の名称についての由来についてははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると、中坂の名称のおこりはあんがいこのへんにあるのかもしれません。
 昭和50年(1975)3月



所在地 千代田区北の丸公園

 この坂を紀伊国坂といいます。『紫の一本』という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり」とあり、『再校江戸砂子』には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり」とかかれています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区神田東松下町23

 江戸時代、このあたりは「お玉ヶ池」と呼ばれ、民間の学問と武芸の盛んな所でした。明治になり、新しい学制がしかれ、桜池学校がつくられたのは明治6年(1873)10月のことです。当時としては、最も早い公立小学校の一つでした。
 しかし、明治14年(1881)2月、桜池学校(第1大学区第1中学区第3番小学、明治6年〔1873〕10月開校)と、近くにあった千代田学校(第1大学区第1中学区第11番小学、明治10年〔1877〕開校)は、ともに、近所の大火で類焼し廃校になりました。
 翌、明治15年(1882)10月18日、桜池学校跡近くに、両校名の頭文字をとり「千桜小学校」が創立されました。
 昭和56年(1981)10月18日は、本校が創立されて100年めに当たりますので、それを記念して、ここに碑を建てることといたします。
 千桜小学校創立100年記念事業協賛会


所在地 千代田区神田東松下町24

 千葉習作玄武館跡・東條一堂の瑶池塾跡
千葉周作はここに玄武館を開いて、北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年(1821)東條一堂は瑤池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授した。
  千代田区


  東條一堂先生瑤池塾の址
東條一堂先生は江戸時代の漢学の大家で安永7年(1778)11月7日千葉縣茂原市八幡原に生まれた名は弘といひ一堂はその號である はじめ皆川淇園亀田鵬斎等に従つて業を受けたが学成って後神田お玉が池に瑶池塾を開いた この塾は市橋主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り今の千櫻小学校の地に當っている その両先生は親交があり自然門人同志も互に相往来して文武の道に励んだ先生は老中阿部正弘を始め盛岡庄内等の各藩公に召されたが往還常に輿を以て送迎されたので世に輿儒者の稱があった天性勤王の忠篤くかつ気節に富んでゐたので弟子三千餘人の中には清川八郎桃井儀八鳥山新三郎等幾多の志士が輩出した安政4年(1821)7月13日歿 享年八十 墓は葛飾区堀切町妙源寺に在る先生の学は漢宋新古の註を排した 先秦の古学であり自らは常に焚書以上の人と稱した詩文を善くし又書にも巧みであった著書百二十部その中でも四書知言五辨等が最も有名である


  千葉習作玄武館の址
千葉周作先生は幕末に於ける剣道の達人で寛政6年(1794)正月元旦宮城県栗原郡花山村に生まれた 幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を学んだが後 松戸の住人浅利又七郎義信の門に入って小野派一刀流を修め 更にその師中西忠兵衛に従って秘術を授かり心気力三者一致の妙諦を悟るに至った 夢想流と一刀流とを取捨て折衷して最も実用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流と称した玄武館を神田お玉が池に開き 桃井春蔵斎藤彌九郎の塾と名を齋しくし江戸の三大道場ともいわれた 後に水戸藩主徳川斎昭 慶篤の 二公に仕えたが 期する所は人材の養成にあった 弟子数千人中には海保帆平 櫻田良佐庄司辨吉等知名の剣客があり また坂本龍馬 清川八郎等の勤王家も輩出した 安政2年(1773)12月十日病没享年62 墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る 先生人となり剛毅風貌魁梧身長六尺に近く眼光炯炯として人を射犯すべからざる威厳があった

  昭和32年7月建 瑶池塾・玄武館 遺蹟保存会


所在地 千代田区神田和泉町2

 国立衛生試験所は、わが国最初の国営の医薬品試験研究機関、東京司薬場として、明治7年(1874)3月、現在の中央日本橋馬喰町に発足し同明治7年(1874)8月この地、千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始した。昭和20年(1945)3月の東京大空襲に罹災するまでの70年あまり、医薬品を主とする日本の厚生行政に多大な貢献をしてきた。現在は、世田谷区上用賀において引続き研究業務を行っている。
 本年、創立120周年を迎えここに記念碑を設置するものである。
 平成6年(1994)11月建立 国立衛生試験所


所在地 千代田区西神田2-6-2 (西神田コスモス館)

  西神田小学校・幼稚園祈念碑

 西神田小学校は、明治36年(1903)地元住民の絶大なる協力のもと東京市西小川尋常小学校として、この地に設立された。翌明治37年(1904)、修業年数2年の高等科が併置され西小川尋常高等小学校と改称した。明治39年(1906)には尋常夜学校が併設された。昭和18年(1943)まで続けられ、修了生は1459名を数えた。昭和2年(1927)西神田尋常小学校と変更、さらの昭和16年(1941)西神田国民学校、昭和22年(1947)千代田区立西神田小学校と校名変更を重ねた。また、昭和21年には西神田幼稚園が併設された。特に、統計教育、放送教育、社会科教育においては全国・全都の学校の指導的役割を果たした。
 開校以来児童数は増加を続け、関東大震災直前の大正11年(1922)には1437名を数えたが、以後徐々に減少し続け再びこの人数を回復することはなかった。
 平成4年(1992)創立90周年を迎えたが、千代田区公共施設適正配置構想のもと、翌平成5年(1993)3月西神田小学校・西神田幼稚園の長い歴史に幕を下ろし、同平成5年(1993)4月、西神田区立お茶の水小学校として再出発をした。
 明治、大正、昭和、平成と4代にわたる激動の時代を生き抜き、10896名に及ぶ児童、2470名に及ぶ園児の健全な育成に携わるとともに、地域発展のため常に精神的な拠り所として、その役割を果たしてきた西神田小学校・同幼稚園の栄光を、永久に記念するためにこの碑を建立するものである。

 


所在地 千代田区千代田1

 この堤の下に柳の井戸があります。近くの、もと井伊侯藩邸表門前にあたる所にある桜の井戸とともに、江戸時代から名水として知られ、当時の通行人に喜ばれていました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会





所在地 千代田区千代田

 竹橋御門は、旧江戸城内曲輪15門の1つで天正18年(1590)、徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説あり、竹橋の架設時期と併せ、いずれも定かではない。


            旧江戸城写真帖(明治4年) 東京国立博物館所蔵

 御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3年(1870)再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。沿道の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は、都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進気運を高め、親しまれている。
 現在のアーチ型竹橋は、大正15年(1926)、帝都復興事業で架設され、平成5年(1993)3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにした。


                                     東京城図(蜷川式胤 にながわのりたね


所在地 千代田区大手町1-1-1 (三菱東京UFJ銀行大手町ビル)

 明治6年(1873)に設置された内務省の庁舎は、この地に建設されました。
 内務省は、明治維新後内政全般の振興を図るため、初代内務卿となった大久保利通により創設されたもので、近代日本の発展に大きな足跡を残しましたが、昭和8年(1933)霞ヶ関に移転するまでこの地にありました。
 昭和62年(1987)10月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町2-6

 昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町2-6

 以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
 「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
 古くは後藤橋といへり。〔寛永中江戸絵図〕呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。〔江戸紀聞〕今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。(後略)
 これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~1643)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
 なお、外堀が昭和29年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含めて外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。
  平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区大手町 丸の内 千代田



 明治8年(1875)「ニセアカシア」を、この道路に植えた。
 蘭学者津田仙翁が明治6年(1873)ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹である。
 なお、現在この通りの街路樹は「エンジュ」である。
 東京都



所在地 千代田区鍛冶町2-3-3 (神田中央通ビル)

 明治27年(1894)堀井新治郎父子が我が国初の簡易印刷機を発明し「謄写版」と命名、発売と同時に鍛冶町の此の地に謄写堂を創業した。



所在地 千代田区内神田2-1-14

 「江戸名勝志」には「鎌倉がし、神田橋より常盤橋の辺の外の御堀はたを云」とあります。また「続江戸砂子」には「鎌倉町、かまくらがしたと云、御堀ばた米屋多し」といっています。『東京案内』には「鎌倉町寛永の頃(1624~1643)は士地にして、城地に沿う所を鎌倉河岸と称せり。天和2年(1682)火災後、始めて鎌倉町と称す。寛政11年(1799)鎌倉横町南側代地、新革屋町飛地を合す」とあります。なお、鎌倉町は現在の内神田1丁目6番地2丁目2・3番地の区域にあたります。
 大正18年(1590)家康入国頃の初期この河岸は、魚、青物のような生産食品をはじめ材木、茅などの物資の集まる所でありました。江戸城築城の時鎌倉から石材を荷揚げしたのでこの名がついたともいわれます。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などが多く荷揚げされました。昭和になっても建築材料の荷揚げが行われていました。また江戸時代この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋で売出す雛まつりの白酒は有名でした。入る客、出る客をはかって売出したのですが、中にはあまりの人で絶倒する客があったといいます。この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田に残っています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区飯田橋1-12-6

 大正15年(1926)、地域の発展・繁栄のため有志200余名と相計い京都伏見稲荷のご分霊を相受け御祀り奉り、白菊稲荷として現在の場所に鎮座せられました。御紋章は水穂の國の稲穂を飾り、守護神となす。


所在地 千代田区富士見2-9

  江戸城外堀跡 牛込見附(牛込御門)跡

 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、ふたつの門を直角に配置した「枡形門」という型式をとっています。
 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。



 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。
 その後、明治35年(1902)に石垣の大部分が撤去されましたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。
 かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。
 千代田区


牛込見附「旧江戸城写真帖」(現在のセントラルプラザから望む)
所蔵:東京国立博物館


所在地 千代田区富士見2-16-23 (東京逓信病院)

 日本赤十字社は明治10年(1877)西南戦争の際、佐野常民・大給恒らが傷病者救護活動等のため設立した博愛社を前身としたもので、その本拠はこの地桜井忠興邸においた。
 昭和63年(1988)3月 千代田区教育委員会



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性