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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区内神田2-1-14

 「江戸名勝志」には「鎌倉がし、神田橋より常盤橋の辺の外の御堀はたを云」とあります。また「続江戸砂子」には「鎌倉町、かまくらがしたと云、御堀ばた米屋多し」といっています。『東京案内』には「鎌倉町寛永の頃(1624~1643)は士地にして、城地に沿う所を鎌倉河岸と称せり。天和2年(1682)火災後、始めて鎌倉町と称す。寛政11年(1799)鎌倉横町南側代地、新革屋町飛地を合す」とあります。なお、鎌倉町は現在の内神田1丁目6番地2丁目2・3番地の区域にあたります。
 大正18年(1590)家康入国頃の初期この河岸は、魚、青物のような生産食品をはじめ材木、茅などの物資の集まる所でありました。江戸城築城の時鎌倉から石材を荷揚げしたのでこの名がついたともいわれます。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などが多く荷揚げされました。昭和になっても建築材料の荷揚げが行われていました。また江戸時代この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋で売出す雛まつりの白酒は有名でした。入る客、出る客をはかって売出したのですが、中にはあまりの人で絶倒する客があったといいます。この店も戦災までこの河岸にありましたが今も神田に残っています。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会
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