忍者ブログ
東京都千代田区の歴史
[13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 千代田区富士見2-17-13 (法政大学80年館)

 アーネスト・サトウ所縁の地碑
 この地は命じ開国の立役者であり日本近代化のおんじんである英国人アーネスト・サトウゆかりの一隅であって、その夫人武田兼のために購入した旗本屋敷跡である。ここは英国公使館に近く、その後息である植物斈者武田久吉博士が引続いて居住されていたところである。サトウ公使は1843年ロンドンに生れ日本語通譯官として江戸の赴任し、ひろくアジア各地に英国の外交使節として活躍しその著「外交慣行入門」は東西外交官の指針とされている。また日本研究数十篇に及び欧州における日本学研究の先覚者である本学は同公使の功績を讃え、その庭園跡にこれを銘記する。
 1981年3月 法政大学

PR


所在地 
千代田区富士見2・飯田橋4 ~ 新宿区

 この橋は、「牛込橋」といいます。
 『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永13年(1636)に外堀が開かれたときに阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成8年(1996)3月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋です。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区有楽町2-5-1 

  朝日新聞東京本社跡

朝日新聞社は1879年(明治12年)大阪で創業9年後に東京に進出し本拠を現在の銀座6丁目に置いた。社勢の伸張に伴ってここ有楽町に東京本社を移したのは関東大震災の復興なお半ばの1927年(昭和2年)3月であった。
その建物は当時の最高傑作とうたわれ外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日世界有数の新聞となるに至った歴史はこの有楽町の地を抜きにしては語り得ない。
しかしながら社業の発展とともに社屋の挟隘と不便さは限度に達し1980年(昭和55年)9月をもって築地に移転した。
創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に一文を掲げて末永く記念するものである。
 1984年10月 朝日新聞社



所在地 千代田区有楽町2-5 (イトシヤ地下街) 

 この板碑は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られてた地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。



また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。



 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。
 ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。
 平成20年(2008)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区有楽町2-7 

東京都指定旧跡
 南町奉行所跡

 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していました。
 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

         Minami-machi Magistrate's Office
Edo-machi Magistrate's Office was one of the three Magistrate's offices during the Tokugawa Feudal Government.Ookaechizennokami Tadasuke,well-known Magistrate,worked for Minami-machi registrate's office as a Head of the magestrates between Kyoho 2 year(1717)andGenbun 1 year (1735).During the archeologic research in Heisei 17(2005),the drainage system along the Magistrate's office's main gate and the storage made of clay were found.Stone built Drainage system was reconstructed and the stone was used for the benches in the redevelopment project.

Oct,2007



所在地 千代田区六番町3-5 

  有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

白樺派の作家・有島武郎(1878~1923)をはじめ、有島生馬(1882~1974)、里見弴(1888~1983)ら作家兄弟がここで育った。彼らの父が明治29年(1896)にここを購入し、自邸とした。



The humainist writer,Arishima Takeo(1878-1923),affiliated with the Sirakabaschool,grew up here with his two brothers,also wreters,Ikuma the property in 1896.

有島武郎 『或る女』などで知られる白樺派の代表的作家
有島生馬 武郎の弟で洋画家、白樺派の作家でもあった
里見弴   武郎、生馬の弟。『善心悪心』などの短編の名手であった作家


所在地 千代田区六番町5 (KITAMURA HALL)

  泉鏡花旧居跡
泉鏡花(1873~1939)が明治43年(1910)から死去まで、「婦系図」のモデルでもあった愛妻すずとここで暮らした。「夜叉ヶ池」や「天守物語」などはここで生れた。



Izumi Kyoka(1873-1939),lived here from 1910 to his death with his beloved wife,who was the model of "Onnakezu".His famous books,"Yashagaike"and "Tenshumonogatari",were composed here.


所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺)

千代田区指定史跡
 下野皆川藩松平家墓所  
     平成19年(2007)4月1日指定

 この墓所は、皆川藩主松平(能見)家三代の墓所です。皆川藩松平家は、初代重則が大名に取り立てられ、当初は上総国百首(千葉県富津市)の地に拠点を置きました。のち下野国都賀郡皆川に居を移し、1万500石を領しました。しかし、三代重利が寛文5年(1665)に幼くして没したため断絶になりました。
 江戸時代初期の麹町・神田には寺院が多数所在しましたが、後期には四谷御門内の甲州道中沿いに、心法寺・常仙寺・栖岸院の三寺院が残るだけでした。関東大震災を期に、常仙寺・栖岸院が区外へ移転しましたので、区内で江戸時代初期に開かれ、かつ墓域を有する寺院は心法寺が唯一の存在です。「寛政重修諸家譜」によれば、心法寺には11家15系統の武家の墓所があるとされていますが、「下野皆川藩松平家墓所」は、その中で唯一の大名家墓所であること、寛永年間から寛文年間という江戸時代初期の墓標が残っていること、当初の姿は失われてしまっているものの「江戸名所図会」の挿絵にも描かれるなど江戸時代後期の姿をのしているという点で、貴重な存在です。
 平成21年(2008)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田駿河台4-8

 太田姫神社元宮



 太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された昭和6年(1931)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり開通時天皇家との間に堀幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鉄道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫



所在地 千代田区大手町2-6-3 (JX日鉱日石エネルギー株式会社
 本社)

 以前港区西新橋(旧新日本石油ビル)にあったものが、この地に移されました。このプロメテウス像は、エネルギーの安定供給をその社会的使命として歴史を刻んだ日本石油が、昭和63年(1988年)5月創立百周年を迎えたことを記念し、全国特約店各位より寄贈されたものである。新世紀への第一歩をしるすにあたり最もふさわしいものをとの願いから『人類に火を与えるプロメテウス像』が題材に選ばれ、文化功労者 日本芸術会員 富永直樹氏の手により制作されたものである。



所在地 千代田区霞が関3-2-2 (文部科学省) 

 旧大臣室(復原)
旧文部省庁舎(昭和8年〔1933〕7月竣工)の3階に位置する大臣室については、現存する写真資料等をもとに、創建時の姿に復原しました。創建以来、部分的な改修・改造は行われていますが、七十有余年の間、大切に使用され今日に至っています。この部屋で、歴代大臣が我が国の文部科学行政の重要な方針や政策について検討し、意思決定を行ってきました。大臣の机や棚などの室内の調度品は、実際に歴代大臣が使用されてきたものです。なお、この大臣室で執務した最初の文部大臣は、鳩山一郎です。







 初代文部大臣 森有禮(礼) (弘化4年〔1847〕~明治22年〔1889〕)
弘化4年(1847)鹿児島生まれ。初代文部大臣就任までの間、近代学術団体明六社や商法講習所(現在の一橋大学)を設立するなど、封建思想の排除と近代思想の普及に努めました。
初代文部大臣就任の翌年には、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令等を公布するなど、近代教育制度の基礎を築きました。

 初代文部大臣森有禮と「自警」
明治18年(1885)12月、内閣制度の創設とともに初代文部大臣に森有禮が就任しました。森有禮は、初代文部大臣に就任後、全国の教育学問の行政を総括する文部省の責任の重大性を明らかにし、その覚悟を述べた「自警」の書を自ら表しました。現在も、大臣室をはじめ局長室等の幹部の執務室に、その写しが掲示されています。
 
   「自警」
文部省ハ全国ノ教育学問ニ関スル行政ノ大権ヲ有シテ其任スル所ノ責随テ至重ナリ 然レハ省務ヲ掌ル者ハ須ラク専心鋭意各其責ヲ盡クシテ以テ学政官吏タルノ任ヲ全フセサル可カラス 而テ之ヲ為スニハ明ニ学政官吏ノ何モノタルヲ辨ヘ決シテ他職官吏ノ務方ヲ顧ミ之レニ比準ヲ取ルカ如キコト無ク一向ニ省務ノ整理上進ヲ謀リ若シ其進ミタルモ苟モ之ニ安セス愈謀リ愈進メ 終ニ以テ其職ニ死スルノ精神覚悟セルヲ要ス
 明治19年(1886)1月 有禮自記
  「自警」(解釈) 
文部省は、全国の教育学問に関する行政の大権を有しているので、その責任は大変に重いものである。
 したがって、文部省の職務を担当する者は、専心誠意その責任を尽くして、学問をつかさどる行政官吏の任をまっとうしなければいけない。そしてそのためには、学問をつかさどる行政官吏であることをわきまえ、決して他の官吏と比べることはせず、ひたすら文部省の職務に熟達することを計り、あある程度になったからといっても満足しないで、もっと、もっと上に進むよう努力し、最後にはその職に死んでもいいくらいの精神を自覚することが必要である。


所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 銭形平次の作者 野村胡堂ゆかりの紅梅
この紅梅は、『銭形平次捕物控』の作者として有名な野村胡堂が昭和7年(1918)から昭和14年(1925)まで居宅とした世田谷区砧8丁目・佐藤様宅に植えられていたものである。銭形平次が神田明神界隈を舞台に活躍し神社境内に「銭形平次の碑」も建設されていることから、平成23年(2011)4月に佐藤家より植樹した。かつて胡堂もこの梅を見ながら平次親分の活躍する捕物の創作にふけったのであろう。


所在地 千代田区九段北1-14

 九段坂・牛が淵の碑  葛飾北斎
葛飾北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては”九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新しい西洋風の写生的空間表現となっている。


                                    東京国立博物館所蔵

      Kudanzaka・Ushigafuchi       Katsushika Hokusai
Katsushika Hokkusai(1760-1849) was born in the Honjo section of Edo (now Tokyo).He produced a wide variety of art pieces which incorporated his unique sense of aesthetics.His woodblock prints from the end of the Kansei period to the beginning of the Kyowa period (around 1800) were influenced by Western art,which was a radical departure for Japanese art.This print is one of his most typical,charabterized as it is by the title and the artist's name written on  their side in hiragana and running from left to right.
The steep,obher slope on the right-hand side is Kudanzaka ("slope with nine steps"),which once had nine gently sloping  steps.A Bukeyashiki (samurai's dwelling ) with stone walling and Nagayabei (Japanese-style hedge) stands to the right,facing the slope.Silhouettes of people and other premises are also shown.On the left of the slope is a deep-green cliff,the height of which has been exaggerated by Hokusai.On the left-hand  side of the print is a broad panorama,an original style of Hokusai.
Hokusai used silhouettes for the trees and criff,rather than outlinig  them in derail,in order to give a three-dimensional effect.
The upper part of the cliff to the left of the print is called Chidorigafuchi and the lower part is called Ushigafuchi,The path going  leftward leads to Tayasumon,now the entrance to the famous Budokan hall.
The towering summer clouds,which depict the scene very realistically,are in the Western style  that was new to Japan at that time.
    東京九段ライオンズクラブ 2000年3月


所在地 千代田区九段北3-3-15 (三輪田学園)

高濱虚子句碑 
   蔓もどき情はもつれやすき哉  虚子
 この句は高浜虚子の作品で、1947年に詠まれ、1948年10月の「ホトトギス」に掲載されました。その後、1958年12月に、虚子の集大成である「虚子百句」が出版され、これを機会に、終生の友情の証しとして、三輪田元道校長にこの句が贈られ、1959年6月に、校内に、句碑が建設されました。現在の句碑の位置は、1901年9月から1909年12月にかけての虚子の住居、及び、「ホトトギス」の発行所(麹町区富士見町4丁目8番地)の筋向かいに当たります。高濱家と三輪田家が、松山市が縁で、筋向かいに住み、親しく付き合っていたことから、校舎改築を機会に、この場所に句碑を移設しました。
 虚子は1910年12月から鎌倉市に転居しましたが、三輪田眞佐子(当時の校長)と養子の元道も鎌倉市に別宅を持っており、親しい付き合いが、そこでも続いていました。
 また、虚子の長女の眞佐子は、本校高等女学校を1915年に卒業しました。
 三輪田学園 


所在地 千代田区神田駿河台1-8-13

 日本大学歯学部3号館
大正14年(1925)11月神田区駿河台北甲賀町13番地(2号館の現在地)に日本大学専門部歯科校舎及び付属病院が建設されたが、昭和10年(1935)9月付属病院を分離することとなり、道路を隔てた向い側に歯科付属病院が設置された。すなわち当歯学部3号館の前身である。その後歯科付属病院が元の地に新築され歯学部病院校舎となったのに伴い、歯科付属病院は昭和39年(1964)10月進学校舎に改造された。歯科付属病院以来49年を閲し、老朽化の兆しがみえたのを機会に、昭和59年(1984)12月新校舎建設に着工し昭和61年(1986)12月に完成した。その間昭和61年4月に歯学部校舎の呼称の変更があり、当校舎は歯学部3号館となった。ここに沿革を記して記念とする。
 昭和62年(1987)1月1日 日本大学歯学部部長 佐藤三樹雄

 建物前には『中川大介先生胸像』があります。


所在地 千代田区鍛冶町1-5-7 (江原ビルディング)

 今川橋跡碑
元禄4年(1691)この地、東西に堀割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と堀割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きくかんだの職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の協会として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和25年(1950)竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。
 平成元年(1989)1月吉日 鍛冶町1丁目町会
 場所提供者 江原富夫氏


所在地 千代田区富士見2-17-1 (法政大学)

  「ボアソナード・タワー」名称の由来
 ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ドュ・フォンタラビーは、1825年(文政8年)6月7日、フランス・ヴァンセンヌ市に生まれました。パリ大学を卒業し、博士号を取得した後、グルノーブル大、パリ大の教授を歴任、1873年(明治6年)、政府の法律顧問として我が国に招かれ、太政官、司法省、外務省などの顧問として、20年間にわたり刑法典、治罪法典、民法典などの法典編纂や、司法省法学校の教授、政府の外交政策への助言などに尽力しました。



 1883年(明治16年)9月、本学の前身である東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の教頭に就任した博士は、以後最終帰国まで10年間にわたち、無報酬で門弟の教育に情熱を注ぎ、本学の基礎固めに精魂を傾けました。東京法学校は校長を置かず、主幹薩埵正邦が経営していたので、実質的に本学は「ボアソナードの法学校」であったといわれています。
 ボアソナード博士により培われたフランス自然法的な近代法の基礎理念は、本学の「自由と進歩」の学風をつくりあげる基盤となりました。1910年(明治43年)6月27日、南フランス・アンチーヴで没。
 2000年(平成12年)4月に竣工した「ボアソナード・タワー」は、学内で広く名称を公募した結果、本学草創期に大きな功績を残されたボアソナード博士にちなんで命名されました。



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性