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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区六番町13-6(ASビル・朝日写真ニュース社)

   藤田嗣治(1886~1968)旧居跡
 藤田嗣治は、明治19年(1886)11月27日、東京牛込に生まれた。
 大正2年(1913)パリに渡り、やがてエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍。日本人で初めて国際的な評価を得た洋画家であった。とくに彼の描く「乳白色の肌」は、他の追随を許さない独自の画風であった。
 昭和12年(1923)7月、この地にアトリエを新築。昭和19年(1944)に小淵村疎開するまで居住した。この頃に君代夫人と結婚し、新婚生活をこの地で過ごした。また軍部の依頼でこの時期から多くの戦争記録画を制作したが、戦後そのために糾弾される。昭和24年(1949)渡米した後フランスに渡り、再び日本へ戻ることはなかった。
 晩年はフランスに帰化し、レオナール・フジタとして昭和43年(1968)1月29日、チューリヒで死去した。享年81歳。
 120年目の生誕日に、ここ旧居跡地に記念碑を建立し、彼の画業を顕彰する。
 平成18年(2006)11月27日  六番町町会
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所在地 千代田区一番町1(千鳥ヶ淵公園) 

 千代田区歌

並ぶ官庁広場濠
帝の宮居とりめぐり
わが千代田区に誉あり
大東京の中心地
江戸の名残も風情にて
こゝを都の都ぞと
澄めり千代田の城の月

オフィスセンタアテレビ塔
世界の文化ひしめきて
わが千代田区に栄あり
新日本の心臓部
国の要と他も見む
こゝを都の都ぞと
住めり千代田の区民われ

     佐藤春夫 作詞


所在地 千代田区永田町1


 この坂を梨木坂といいます。『江戸紀聞』では、”梨木坂、井伊家の屋敷の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに。今は枯れて其の名のみ残れり”とかかれています。さらに『東京名所図会』には”陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨木坂といふ”とかかれています。
 千代田区教育委員会


所在地 千代田区永田町2-18-2 (参議院議長公邸)

 華族女学校遺跡碑
華族女學校ハ 昭憲皇太后ノ■者ニ出テ明治十八年四谷仲町ニ創立セラルニ二十二年此ノ地ニ遷リ三十九年學習院女學部ト■ス大正七年青山練兵場西南隅ニ遷リ女子學習院ト稱ス
レバ校舎ノ此ノ地ニ在ル實ニ三十年ナリ其ノ間 皇太后陛下■華族女學校ニ 皇后陛下ニハ學習院女學部ニ修學セサセ■■■■乃ナ碑ヲ遺蹟ニ建テ永久■■■記スト云フ
 昭和十八年十一月十二日 社圑法人■■■


所在地 千代田区永田町2

 この坂を三べ坂といいます。『新撰東京名所図会』には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂ともよばれています。
 平成5年(1993)1月



所在地 千代田区猿楽町1-1-1 (お茶の水小学校)

 慶應三年一月六日、牛込に生る。金之助と命名。市ヶ谷小學校に入學後、錦華小學校に轉ず。同校卒業後一っ橋に入り、業を卒へずして退き、二松學舎に入りて漢學を學ぶ。(大正六年「新小説」より)

明治二十三年、東京帝大に入学。
正岡子規と交り俳句と漢詩を作る。
明治二十八年、松山の中学に赴任。
明治二十九年、熊本第五高等学校教授となる。
明治三十三年、ロンドンに留学。
明治三十六年、帰朝。東京帝大講師となり、英文学を講義。
明治三十八年、処女作「我輩は猫である」を発表。
明治四十年、講師を辞し、朝日新聞社に入社。
大正五年十二月九日逝去。五十才。
「主な作品」
 ・ 坊ちゃん  ・ 草枕  ・ 虞美人草  ・ 三四郎
 ・ それから  ・ 門  ・ 心  ・ 道草  ・ 明暗

  第104回卒業生一同



『 吾輩は猫である 名前はまだ無い 』
  明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ


所在地 千代田区猿楽町1-7

 東洋音楽学校(現東京音楽大学)は、明治40年(1907)5月1日この地に設立された。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修二、高楠順次郎、島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。
 平成9年(1997)4月1日建立 東京音楽大学



所在地 千代田区霞が関1-3 (経済産業省) 

 明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌明治23年(1890)11月第1回 帝国議会が開かれました。議事堂は、仮議事堂として、この地(旧麹町区内幸町2丁目1番地)にたてられました。明治23年(1890)11月25日、はつの議会召集があり、当日の光景を東京日日新聞は次のように伝えています。25日の曙の空ほのぼのと明け初めて午前7時ともなる頃、両議院の門前は早や人の山をなせり。予ての手筈にや警史は院の内外より、一方は練兵場に、二方は新しい橋を渡りて久保町通りの四辻まで五十米を隔てて警備し、猶往来の雑踏を制せんとてか住還の道路を左右に分けて通行せしめぬ。総ての体嘻々たる裏に、厳粛々たる様ありて、あわれ第一期帝国議会召集の景況よと見受けられたり。さる程に旭日影ゆたかに昇りて時計の針8時を指す頃ともなれば、当日召集の上下両院議員諸氏引続き参院ある。貴族院なるは多くは馬車にて、衆議院なるは人力車なり(一部)
 29日、明治天皇臨席のもとに開院式がおこなわれました。ところがこの会期中の翌明治24年(1891)1月20日、衆議院柄出火し、ペンキ塗り木造建物のためほとんど全焼してしまいました。このため貴族院は華族会館に移り、衆議院は東京女学館にうつったといいます。
 焼失跡への議事堂は明治24年(1891)11月完成しました。建物坪数は両院あわせて3,194坪(10540平方米)木造2階建てでありました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区


所在地 千代田区霞が関3-2 (文部科学省)


国指定有形文化財(建造物)
 旧文部省庁舎
     平成19年(2007)10月2日指定



設計 旧大蔵省営繕管財局

施工 大林組

構造・規模 鉄骨鉄筋コンクリート造 6階建 
        スクラッチタイル貼



 建物内には『旧大臣室(復元)』があります。


所在地 千代田区霞が関3-8-1先

贈正四位江藤新平君遭難遺址碑
明治二年十二月二十日中辧従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街佐賀藩邸會西岡逾明荒大博臣在座晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩暴客狙撃君躍身避溝中三人間急提刀走出護君入邸招醫療創先是君為藩權大参事革藩制編入下士於卒伍下士深含之所以及此也藩知事鍋島侯命吏追捕刑之 勅使慰問賜金若干君歴任要功績不尠聲望倍崇及征韓論起不能全終惜哉四人者皆余舊交也頃博臣子三雄来曰先考得江藤氏推輓任司直累進二等官正四位遺族頼其餘恵先考嘗有建碑於遭難地之志不果而卒今欲繼遺志請紀之余嘉其擧畧叙若此

  大正五年六月  正二位勲一等伯爵土方久元篆額
             正三位勲一等股野琢撰弁書


所在地 千代田区霞が関3

この坂を三年坂といいます。『東京名所図会』には”三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とす。又淡路坂ともいい、一に此処を陶山が関という”とあり、さらに”栄螺尻、裏霞ヶ関と三年坂の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び虎の御門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる逆の名なり、亦此辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり”とかかれています。
  千代田区 昭和51年(1976)3月


所在地 千代田区霞が関

 この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
 霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
 千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
 また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。
 平成12年(2000)3月建替 千代田区教育委員会



所在地 千代田区丸の内1-4-5 (三菱UFJ信託銀行本店ビル)



電話交換創始之地
東京電話交換局跡
明治廿三年十二月十六日開始

 紀元二千六百年 逓信省


所在地 千代田区丸の内1-4-6

国指定文化財(建造物)
 日本工業倶楽部会館
     平成11年(1999)8月23日指定



竣工 大正9年(1920)

設計 横河工務所(松井貴太郎が担当といわれる)

構造・規模 鉄骨造、鉄筋コンクリート造
        及び鉄骨鉄筋コンクリート造
        地下4階 地上5階建(6階以上部分を除く)
        


 アメリカ式オフィスビルの形態にユーゲント・シュテイルの意匠を加味した大正建築である。正面中央パラペット上部には、石炭と紡績(当時の日本の二大産業)を表す人像彫刻があります。


所在地 千代田区丸の内1-4 

東京都指定文化財(旧跡)
 評定所及び伝奏屋敷跡
     昭和30年(1955)3月28日指定





所在地 千代田区丸の内2

東京都指定文化財(旧跡)
 林大学頭邸
     昭和30年(1955)3月28日指定





所在地 千代田区丸の内

東京都指定文化財(旧跡)
 北町奉行所跡
     昭和30年(1955)3月28日指定





所在地 千代田区岩本町2-5-9 (パステルコート神田岩本町)

お玉ヶ池種痘所記念レリーフ



いまから百十年まえ 1858年・安政5年5月7日このちかくにお玉ヶ池種痘所ができました
それが発展していまの東京大学医学部になりました
すぐそこにある記念碑はそのゆかりですえられたのです
 1968年・昭和43年5月7日
 東京大学名誉教授 緒方富雄



所在地 千代田区岩本町2-7-11 (加島ビル)

お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです



一時は池のほとりに
 梁川星厳の玉池吟社
 市川寛齋の江湖詩社
 大窪詩佛の詩聖堂
 東條一堂の瑤池塾
 佐久間象山の象山書院
 剣士千葉周作の道場玄武館
 磯又右衛門の柔道道場
 永坂石埭宅 清元太左衛門宅など文武の萃が咲きほこりました



この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和33年(1958)に迎えた創立百年の記念に昭和36年(1961)文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にここに元標を立てられました
 お玉ヶ池史蹟保存会



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