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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区紀尾井町4-1 (ホテルニューオータニ)

 近江彦根藩井伊家屋敷跡



 この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
 井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした井伊直弼は、特に有名です。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


     Site of the Omi-Hikone-Ii domain family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion of the Ii family.The mansion stood here through most of the Edo period(1603-1867).Ii family members were top"fudai"hereditary vassals.Ii Naosuke was a famous chief minister of the shogun in the final days of the Tokugawa Shogunate.After the Meiji Restoration(1872)this destrict became known as Kioi-cho,after the first initials of the Kii-Tokugawa,Owari-Tokugawa and Ii families.
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 カヤ

所在地 千代田区紀尾井町4-1 (ホテルニューオータニ)

千代田区指定天然記念物
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
 平成21年(2009)4月1日指定

 カヤ

 旧牛込門から旧赤坂門までの延長4kmの国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテルニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ、タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
 正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期に遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に成育していた樹木であることが確認されました。
 千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されない千代田区内にあって貴重なものです。
    平成21年(2009)10月 千代田区教育委員会

 イヌマキ

  Trees from the residences of the feudal lord of family
Hotel New Otani is situated within a historical area,what used to be the outer moat of the Edo Castle.Its garden features many trees that date back more than a century,of which two of the most remarkable are the Japanese Nutmeg (Torreya Nucifeta)seen directly ahead,and the Yew Plum Pine(Podocarpus Macrophyllus)standing beside the path further on.From the growth rings,these two trees have been accessed to be over 200 years old.Thus these trees are confirmed to have existed from the time this land was part of the residence of the feudal lord Ii family during the Edo era(1603-1868).
 
Chiyoda city,being a historical area with the remains of Ido castle and numerous Daimyo residences,had once been lush with greenery and magestic trees.However,today,trees dating back to the Edo era are very scarce and thus these two trees within the grounds of Hotel New Otani are of particular value.


所在地 千代田区紀尾井町6-12 (紀尾井町福田家ビル) 

 尾張名古屋藩徳川家屋敷跡



 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。


     Site of the Owari-Nagoya domain Tokugawa family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion built by Yoshinao,the ninth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu.The shogun's tenth and eleventh sons,Yorinobu and Yorifusa, along with Yoshinao,were appointed as "daimyo",feudal lords.They were part of the "Gosan-ke"which gave them the right to potentially become the shohun.Yoshinao's family was called the Owari-Tokugawa.After the Meiji Restoration(1872)this destrict became known as Kioi-cho,after the first initials of the Kii-tokugawa,Owari-Tokugawa and Ii families.


所在地 千代田区紀尾井町6

 この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。」また「紀尾井坂は紀伊家尾張家井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。
 千代田区
 昭和50年(1975)3月


所在地 千代田区紀尾井町

 喰違見附跡



                             喰違外『絵本江戸土産』

 喰違見附跡は、江戸時代初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。
 この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永13年(1636)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。
 平成21年(2009) 千代田区


所在地 千代田区九段南4-2-11 (市ヶ谷フィナンシャルビル)

 二七不動院跡

火災により消失しました。再建はされませんでした。


所在地 千代田区九段北1

 この坂を中坂といいます。「御府内沿革図書」によると、元禄3年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄10年(1697)の図以降になると中坂が記載され、元禄14年(1701)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中阪と称するは、冬青木坂九段坂の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。
 平成13年(2001)3月建替 千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北4-4

 この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。
 寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手の遺構、寛永16年(1639)に修築された外郭門の石垣などが、昭和31年(1956)「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。
 なお、平成7年(1995)3月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年(1989)から8年に渡って発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発掘成果の一部を展示公開しております。
 平成8年(1996)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区五番町

 この坂を新坂といいます。新しく作られた坂ということでしょう。江戸時代の絵図をみますと、ここに道はなく、人々は東側の帯坂や西側の三年坂へ迂回しなければなりませんでした。しかし、明治23年(1890)3月の『東京市区改正全図』には三等道路として、この道を通す計画が書き込まれています。大正元年(1912)の「東京市麹町区地籍地図」では、この道を地図上で確認できます。
 昭和50年(1975)3月 千代田区



所在地 千代田区五番町 九段南

 この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ヶ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。
 昭和50年(1975)3月 千代田区


所在地 千代田区五番町

 この坂を三年坂といいます。
 『新撰東京名所図会』には、「下六番町の方より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも、三念寺坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりしに因り此名あり。然るに俗間誤りて三年坂と称し、」とかかれています。
 平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区五番町 九段北 新宿区

 この橋を市ヶ谷橋といいます。市ヶ谷門に架かる見附橋であります。門は寛永13年(1636)森長継の担当で建造され、市ヶ谷への出口であったので門の名となり、橋の名ともなったのでしょう。また門は「市ヶ谷」「一ヶ谷口」ともかかれています。市ヶ谷の名は、市ヶ谷孫四郎の領地であったからとも、四谷第一の谷、または市が立ったので市買だともいわれています。四谷、牛込をはさんで市ヶ谷付近の濠は、同じ高さなので濠の幅を広くして敵に備えたといいます。このあたりは昔は桜が多く、門は「桜門」といわれていました。現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名です。門は明治4年(1871)撤去されました。現在の橋は昭和2年(1927)に架設されたものです。長さ36.4メートル、幅15.6メートル。コンクリート造り。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会
 


所在地 千代田区麹町 紀尾井町

 
この坂を清水谷坂といいます。元禄4年(1691)の地図をみると、麹町通りから直接下る坂のようにみえますが、それ以後の地図は現地形とほぼ合っているようです。別の名シダニ坂とも シタン坂ともいわれるようですが、いずれも『清水谷』が変化したものとされています。坂下を南北に走る道筋が清水谷で、そこで喰違見附へと登る紀尾井坂につながっています。
 平成13年(2001)3月建替 千代田区教育委員会



所在地 千代田区三崎町1 猿楽町2

 この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。
 昭和50年(1975)3月 千代田区



所在地 千代田区三崎町2-11-15 (日本大学法学部3号館)

 三崎座は明治24年(1891)この地に建てられた劇場です。
 建坪は、200坪の小劇場でしたが、この劇場の特色は東京で唯一の常打ち女優劇場あったことです。有名な俳優には、岩井米花・松本金糸・市川久米八(いずれも女優)などがあり、学生や文人の観客が多く、明治文化史の上で異色の存在となっています。のちにはここに中村花扇が拠って、大正期を代表する女役者として人気を集めたといいます。
 なお、三崎町一帯は東京座(現三崎町2丁目3番)川上座(現三崎町2丁目15番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町2-15-6 (株式会社加藤文明社)

 川上座は明治29年(1896)6月、新派劇の祖といわれる川上音二郎によって建てられ、開場した劇場である。建坪は、212坪・桟敷定員150・土間577、大入場354人で立見場はなかったと記録されています。川上音二郎はオッペケ節で自由民権思想の普及・歌舞伎劇に対抗して壮士芝居(新派劇)を興したことで有名です。また女優川上貞奴は彼の妻であることは周知のとおりです。
 明治34年(1901)1月から改良座と改称しましたが明治36年(1903)4月6日失火して焼失、以後再建されませんでした。
 なお、三崎町一帯は三崎座(現三崎町2丁目11番)東京座(現三崎町3丁目3番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町3-3-23 (ニチレイ水道橋ビル)

 東京座は明治33年(1900)3月この地で開場しました。その舞台開きには当時の名優九世市川団十郎が出演し、以後の興行からは主として猿之助を初め市川門下の若手俳優が出演しました。
 明治30年代後半には市川左団治・芝翫・猿之助などを中心として一本は新作ものを上演するのを特徴とし、演劇界に新風を吹き込む役割をにないました。
 建坪は335坪、客席定員2千名で東京有数の大劇場でした。
 なお、三崎町一帯は三崎座(現三崎町2丁目11番)川上座(現三崎町2丁目15番)などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。
 平成2年(1990)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三崎町2

 この標識の立っている前の道から神田川までの一帯に、かつて講武所がありました。
 講武所とは、ペリー来航後の政情から、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせる必要を感じて、幕府が設けた施設です。
 安政元年(1854)4月に、築地の下総佐倉藩堀田家中屋敷の跡地(中央区築地6丁目)に講武所が開校しましたが、安政4年(1857)に築地は全て軍艦操練所用地となり、講武所は移転を余儀なくされました。
 安政6年(1859)1月から、小川町の越後永岡藩牧野家上屋敷とその周辺が上地され、翌安政7年(1860)に移転しました。
 明治時代になると。陸軍の練兵場として使用されましたが、明治23年(1890)に三菱に払い下げられ、新たに三崎町という町ができました。
 平成16年(2004)6月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区三番町2 九段南2

  この坂を鍋割坂といいいます。『新撰東京名所図会』には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同名の坂があります。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三番町12 (大妻女子大学・短大)

 標識の後ろ側、大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高500石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また。佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。
 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区三番町18

 当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年(1929)7月最下段の部分が開園された。
 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年(1938)11月東郷元帥記念公園として開園した。
 公園内には『力石』があります。



 東郷平八郎元帥
 元帥は弘化4年(1847)薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
 この地には明治14年(1881)より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年(1934)88歳の生涯を閉じる。



所在地 千代田区三番町18 (東郷元帥記念公園)

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
 古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多いとされています。
 また、「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようです。(疫病は道を伝わって来るとしんじられていました。)
 公園内にある「力石」の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
 なお、本力石の表面には、「五拾七貫目」(約213.75キログラム)との銘文がありますが、実際に計量したところ、146.4キログラム(約39貫目)でした。
 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会


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