忍者ブログ
東京都千代田区の歴史
[7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

千代田区指定有形民俗文化財 
 築土神社の狛犬
          平成8年(1996)4月指定
  
 本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5メートルほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永九庚子十一月」との銘文が刻まれています。



 元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の咲かした一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の葛西で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。



 社殿によれば築土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久戸明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して築土明神となり、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年(1945)空襲で社殿などを悉く焼失し、昭和29年(1954)には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
 元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、築土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。元飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだともいえます。
 また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。



 区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの築土神社の狛犬は、私たちに築土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。
 平成9年(1997)3月  千代田区教育委員会
PR


所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

  山本社司之碑
昭和20年(1945)3月10日 戦災に 御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
 総理大臣 鳩山一郎書


所在地 千代田区九段北1-14-21 (築土神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 築土神社の力石
     平成元年(1989)4月指定

 「力石」とは、一定重量の代償の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 古来、わが国民間振興では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは意思を依代としている神々も多い。
 また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 境内にある「力石」の由来は詳らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
 なお「力石」に刻まれている「元飯田町」とは、「中坂」を南北にはさんだ現九段北1丁目にあたり、江戸時代からの町名である。
 平成2年3月  千代田区教育委員会


所在地 千代田区九段北1 ・ 飯田橋1

 この坂を冬青木坂といいます。『新編江戸志』には「此所を冬青木坂ということを、いにしへ古びたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず、此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。
  平成14年(2002)3月  千代田区教育委員会



所在地 千代田区九段北1-12

 この地に明治時代の文学結社、硯友社の社屋がありました。
 硯友社は、明治18年(1885)2月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、明治21年(1888)市販されるにおよび明治20年代の文壇に多くの影響を与えました。
 同人には、川上眉山、巌谷小波・広津柳浪らも参加しています。
 明治30年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。

 平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会


所在地 千代田区神田神保町3-8 (専修大学)

   専修大学発祥のいわれ
 専修大学の創立者は相馬永胤 田尻稲次郎 目賀田種太郎 駒井重格先生達である これら先覚者は明治の初め選ばれて米国に留学し新しい学問や文化を学んだ 帰国後その成果を日本の青年に与えて有為な人材を育成することこそ社会に対する報恩承仕事であると考え明治13年(1880)9月16日東京市京橋区木挽町2丁目14番地に経済及び法律の専修学校を発足させた 以来報恩承仕は専修大学の建学の精神であり質実剛健 誠実決行は学風である その後校舎は明治13年(1880)11月神田区中猿楽町4番地に明治18年(1885)7月にはここ同区今川小路2丁目8番地へ発展的に移転し現在に至った
 専修大学創立百年にあたり記念としてこの碑を建てる

 昭和54年(1979)5月 専修大学 揮毫飯島春敬



所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 この時計塔は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔全面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。
 三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。
 時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。
 チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は2代忠広のときに改易され、屋敷も没収されました。
 その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)。
 幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

  京都制定有形文化財(建造物)
    日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)tpペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  東京都教育委員会



この日本水準原点標庫は、千代田区特別登録有形文化財(建築物)として登録されています。



       日本水準原点について
 日本水準原点は 全国の土地の標高をきめる基になるもので 明治24年(1891)5月国がここに設けたものです
 水準原点の位置は この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で その標高は24.4140メートルと定められています この値は明治6年(1873)から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです
  建設省国土地理院



所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

尾崎行雄は、民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例に座して首都を追われ、海外に亡命したが、国会開設とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年、世界議会史上の記録をなした。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力に弾圧に屈せず、つねに民衆の陣頭にあってたたかった。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護の起るや、世は彼を仰望して権勢の神と称した。軍国主義が一世を支配し、戦雲急なるに及んでも、平和の新年をまげず、三たび辞世をふところにして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。つとに世界連邦を提唱し、議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。高風を追慕する国民の支援と国際的賛助とにより、ここにこの記念会館が成ったのである。
 1960年2月25日しるす

1858年11月20日神奈川県津久井郡津久井町又野に生まる。父は行正、母は貞子、長男、幼名彦太郎。
1874年慶応義塾に入り、福沢諭吉に学ぶ。
1879年福沢諭吉の推薦により新潟新聞主筆となる。
1881年退社上京す。
1882年報知新聞に入り、1890年まで各紙貴社として活躍す。大隈重信をいただき改進党を組織す。以来政党活動に身を投ず。
1885年東京府会議員となる。
1887年保安条例により3年間東京退去を命ぜられたのを機会に欧米を視察す。
1890年日本最初の衆議院議員総選挙に三重県より立候補し当選す。以来同一選挙区より25回連続当選す。
1898年大隈、板垣連立内閣に文部大臣として入閣す。
1903年第2代東京市長に就任す。(国会議員はそのまま)
1912年桜苗木3000本をアメリカに贈る。水源林の確保、市街鉄道買収その他幾多の功績を残し東京市長を辞任す。
1914年大隈内閣の司法大臣に就任す。
1916年辞任す。
1919年第1次世界大戦後の欧米の惨状を視察す。
1931年アメリカを経てイギリスに渡り、日本国民に対する遺言ともいうべき「墓標に代へて」を執筆。また欧州各地を視察す。
1933年帰国す。
1942年田川大吉郎選挙応援演説にからみ不敬罪容疑で起訴さる。
1944年無罪の判決を受ける。
1950年渡米。第2次大戦後の日米国交に貢献す。
1953年衆議院名誉議員、東京都名誉都民に推薦さる。
1954年10月6日永眠す。北鎌倉円覚寺黄梅院に埋骨さる。
 碑文起草   阿部真之助氏
 碑文揮毫   文学博士石橋啓十郎氏
 花崗岩寄贈  株式会社鈴木石材店
 工事             柴田石材工業株式会社


所在地 千代田区永田町1-1 (国会前庭)

 東京都指定旧跡
江戸の名水「櫻の井戸(桜の井戸)」

 「櫻の井戸(桜の井戸)」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。山連式釣瓶井戸で、縦約1.8メートル、横約3メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶3杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。

 

 江戸名所図会に絵入りで紹介され、歌川広重(安藤広重)の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保14年〔1843〕)にも描かれている。安政7年(1860)3月3日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。
 大正7年(1918)史蹟に定められ、東京とは昭和30年(1955)旧跡指定。
 昭和43年(1968)道路工事のため交差店内から原形のまま10メートル離れた現在地に移設復元された。
平成19年(2007)彦根城築城
400年祭と東京金亀会設立90周年に記す
  平成19年(2007)10月
 東京金亀会(滋賀県立彦根中学校・彦根東高等学校同窓会)
 東京都教育委員会


所在地 
千代田区岩本町2-1-5

     金山神社御由緒
祭神   金山彦命 金山姫命
祭典日 1月8日新年祭 5月8日春祭 11月8日例大祭(鞴祭)
 古典によればニ柱の御祭神は伊勢に鎮座される 天照大神の御兄姉神にあたらせられ、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司られる祖神と仰がれ給い御神徳は洵に宏大無辺にして、剣の神感からは破魔除災の神として、亦金宝の霊感を以って厚く金運招福の神と崇敬されてきた大神様にあらせられます
 我が金属業界の遠い祖先等は、この高き御神徳を敬仰して、總本宮にまします岐阜県不破郡鎮座の元国幣大社南宮大社より御分霊を奉遷して、各地に金山神社を創建奉祀して来た処、東京金物同業組合に於いても昭和年代の初頭より御分霊を組合事務所に奉斎して厚く崇敬の誠を捧げて来ました。併し第二次大戦の災禍に遇って祭祀中絶の止むなき仕儀と成りましたが、崇敬心聊かも変ること無く平和の世を迎えるに及んで、直ちに業界挙げて神社創建の計画を興し、広く奉賛会を結成して由かり深いこの地を鎮座地に選び定め、昭和27年(1952)秋10月新たに總本宮より御分霊を奉迎して假殿に奉安申し、社殿造営工事は着着と進められ、ニヶ年に及ぶ歳月をかけて目出度く本殿以下現社殿の諸工事を竣工致しました。昭和29年(1954)11月8日、由緒深い鞴祭の吉日をトして御鎮座奉祝の大祭を盛大に斉行なし、以来宗教法人の神社として年々の祭儀を厳粛に奉仕して今日に至りました
 茲に御鎮座30周年の意義深き年を迎えるに当り帝都中枢の地に重鎮される金山神社の御神徳愈々御栄えまし、敬い奉る業界の末永き和協協栄をひたすら祈念して、謹みて御由緒記を建立いたす次第であります
 昭和57年(1982)11月8日  金山神社崇敬会



所在地 千代田区岩本町2-3-11

  史蹟
北辰一刀流 千葉周作先生
 玄武館道場跡
       神田お玉ヶ池畔(お玉が池)



     神田お玉ヶ池
 此の辺のビル街は地盤も硬く元は池だったとは思えぬ程ですが、江戸時代徳川公が武家屋敷建設の為、「池を埋めよ」との命令をして家来一同駿河台辺りから土を運び池を埋めました。この池の傍らに竜神様の石碑が立っていましたが、土を沢山入れた為、水があふれ石碑が池に倒れ沈んでしまい徳川公に相談すると、なかった事にしようと云われ、竜神様を信仰していた人が探していても知らぬふりをするのも大変だったと思います。徳川公は竜神とは云えぬので日光に「泣き竜」とか、輪王寺に「金の竜」を書いても神と書かず、その因縁か徳川家も、池の担当大名家も相続者が死に、養子が多かったようです。竜神界の統治者「天之宇氣之大神様」命令で天地人と宇宙を守り、物を育て罪けがれ病を祓い清め神として桜が池の金色の竜神王なので日光にだけお祀りされても大神様との約束が果たせず、昔、御降臨下されたこの池に戻られたのは偶然ではないと思います。法華経徳行品に「われ人、天、竜神王の為にし」とあるので、法華経で御降臨願った処、ラップ現象でガラス戸が地震かと思う程鳴り「今、帰ったぞ」と云うように感じ大喜び致しました。此の土地に祀られて居られた神様を、四世紀も断絶した罪深さをお詫びしつつ金色竜神王様を御認識頂きたく御知らせ申し上げます。   合掌



所在地 千代田区六番町

 四谷見附は、山口藩主毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。
 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から縄文を経て出入るする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城外郭に入る。
 明治以後、このような食い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913)に完成した(平成3年〔1991〕に架け替え)。



所在地 千代田区外神田2-18-15 (天野屋糀店 地下室)

 千代田区指定有形文化財(建造物)
糀室 附 明治37年糀室之図
           平成21年(2009)4月1日指定


                                 天野屋地下糀室

 天野屋の糀室は、明治37年(1904)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。
 天野屋の創業は、弘化3年(1846)と伝えられ、明治37年(1904)糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期の増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成3年(1991)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。
 変損する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造使節の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。
 なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。
  平成21年(2008)10月 千代田区教育委員会


                                                                    明治37年糀室之図

        Koji Muro(Mold Cultivation Room)
        Appended with a deagram of the koji muro in 1904
Amanoya's koji muro(mold cultivation room)was built in 1904 and is still used to cultivate mold known as koji to make such products as amazake(a sweet,cloudy drink with a low or zero alcohol content [Amanoyo makes the nonalcoholic version])and miso,which Amanoya makes and sells.This room,an underground cell with an arched ceiling,was built by digging into the Kanto loam to a depth of six meters and lining the walls and ceiling with bricks.
Amanoya is said to have started business in 1846,and a deagram of the koji muro made in 1904(owned by Chiyoda City and donated by Mr.Hiromitsu Amano)reveals that in its early form,the koji muro consisted of multiple rooms extending radially from a vertical pit.However,the radially arranged rooms were demolished in 1991,save for some areas,including tokova(a compartment in which koji is mixed with rice and left to propagate).
The existing koji muro retains its original structure,having survived the Great Kanto Earthquake(1923)and air raids during World War Ⅱ.It is the only one in Chiyoda City and one of a very few in Tokyo that has been in continuous use for more than 100 years.The koji muro is valuable not only as a koji making facility but also as a rare cultural property that illustrates how the making and selling of koji have changed since the Edo period.
Please note that because th koji muro is still in use,it is not open to the public. 


所在地 千代田区外神田2-19 (宮本公園)

 遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家(屋号「井政」)の店舗兼住宅として昭和2年(1927)に鎌倉河岸(現内神田1丁目)に建てられました。その後、昭和48年(1973)に都心の開発に伴う建替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。
 この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木問屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから、貴重な建築物といえます。文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。
 また、1階6畳の茶の間は、茶室として改修されています。
 平成21年(2009)4月  千代田区教育委員会  



  Old Stone and Main House of the Endo Family(Single Building)
 The Endo family,who started a lumber business in the Edo period,built a comvined store(called Imasa) and main house in Kamakura-bashi(currently Uchi-Kanda 1-chome) in 1927.
 In 1973,as the downtown area was being developed,the old building was saved from destruction by being relocated to Fuchu City. However,follwing its designation as a cultural asset,the structure was mas moved yet again,this time to Miyamoto Park.
 The building is considered highly valuable because it typifies the structure of prewar stores,reflects construction techniques from the Edo period,and embodies the lumber trade in its use of high-quality materials and choice wood throughout.Being designated a cultural asset,the vuilding's doma(earthen floor) has been recreated in an effort to restore as much of the building's original appearance as possible. Furthermore,the six-mat chanomo(sitting room)on the first floor has been renobated as a tea ceremony room.
 April 2009  Chiyoda City Board of Education


所在地 千代田区岩本町2-5 (繁栄お玉稲荷神社)

東京都指定文化財 旧跡
  お玉が池
           昭和30年(1955)3月28日指定

 

 この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。
 近所には、お玉ヶ池のレリーフ・石碑・説明板があります。

お玉ヶ池種痘所記念レリーフ
  (千代田区岩本町2-5-9 パステルコート神田岩本町)

お玉ヶ池種痘所跡
  (千代田区岩本町2-7-11 加島ビル)


お玉ヶ池跡碑
  (千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館)
 

お玉ヶ池湖畔 玄武館道場跡レリーフ
  (千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル)


お玉ヶ池説明板
  (お玉が池児童遊園)


所在地 千代田区神田鍛冶町1-3神田多町2-8

東京都指定文化財 史跡
 神田下水
        平成6年(1994)3月22日指定



 この道路の下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されています。この「神田下水」は、明治17年(1884)に、一般市民の衛生や都市環境を改善することを目的に、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。
 現在の下水道管と異なりレンガで積まれ強固に築かれており、完成後100年以上を経過した今日でも、その機能を十分に果たしていることから、現存する重要な近代土木遺産として認められ、平成6年(1994)3月に東京都指定史跡に指定されたものです。



 江戸から明治に移り、海外との交流によりコレラがもたらされました。当時の神田地区は、人口稠密であったためとくに著しい被害に見舞われました。その惨状を前に、下水道整備の必要性を痛感した明治政府は、明治16年(1883)4月30日に、内務卿山田顕義の名により、東京府に対して上下水道の整備を促す「水道溝渠等改良ノ儀」を示達しました。
 これを受けて、内務省の土木技術者、石黒五十二が設計を担当し、当時の内務省土木寮の雇工師であった、オランダ人ヨハネス・デ・レーケの意見を求めて設計をまとめ上げたものです。そして、明治17年(1884)に神田区鍋町・鍛冶町以西、竜閑橋筋新川以北、(現在のJR神田駅周辺)を対象とした第一期工事が開始され、翌明治18年(1885)には第二期工事として、第一期工事区域の東側で工事が行われました。しかし、これ以降の工事は、主に財政上の理由により中止され、結果的にはレンガ積み管が約900メートル、陶管が約3,100メートル、計約4,000メートルの下水道管が建設されるに止まりました。史跡に指定された「神田下水」は、適切な維持管理のもとに現在まで残っているレンガ積み管の部分です。
 その後、多くの先人の努力により、平成7年(1995)3月には東京都区部の下水道普及率が概ね100パーセントとなりました。これからも、この先人たちの偉業を伝える歴史的土木施設である「神田下水」を良好に保存・管理してまいります。


所在地 千代田区神田和泉町1-13 (和泉公園)

 東京都指定文化財 旧跡
関東大震災協力防火の地
         昭和30年(1955)3月28日指定

 この附近一帯は大正12年(1923)9月1日関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬかれました。
 その町名は次の通りであります。
 佐久間町2丁目、3丁目、4丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田3丁目 佐久間町1丁目の一部 松永町の一部 御徒町1丁目の一部
 昭和43年(1968)4月24日 
 佐久間小学校 地元有志 秋葉原東部連合町会


所在地 千代田区神田和泉町1-13 (和泉公園)

この公園は東京食糧事務所跡地を昭和46年(1971)秋葉原東部地区の8町会と佐久間小学校PTA、幼稚園母の会が協力し、地域の緑の広場として、又、災害時に於ける避難場所として活用すべく4年有余の年月をかけた住民運動が実り、千代田区が「和泉公園」として整備した。
之れを記念して此処に公園誕生の碑を建立す。
 昭和62年(1987)12月


所在地 千代田区永田町2-18-1 (衆議院議長公邸) 

東京所学館は、明治21年(1888)この地(旧松平出羽守邸、属に雲州屋敷、のち閑院宮邸)を皇室より貸与され、翌明治21年(1889)開校した。その后、麹町三年町(旧工部大学校)に移り、「虎ノ門女学館」と称せられた。大正12年(1923)関東大震災のため焼失したので渋谷御料地に移り、女史の一貫教育の場として今日に至っている。
ここに、往古を偲び、将来の弥栄を祈り、創立百周年を記念して碑を掲げる。
(昭和54年〔1979〕11月吉日)学校法人東京女学館



所在地 千代田区神田多町2-5

 一八稲荷神社の御霊は伏見稲荷神社の御霊の御分霊で、徳川時代の初め頃この地に移されたと伝えられております。当稲荷神社は戦前まで新銀稲荷と呼ばれておりました。特に防災盗難除けの御神徳が高く、先の太平洋戦争で東京中が火の海と化した時も、この神社のおかげで地元多町は焼失を免れました。
 戦後は近隣有志の方々のご協力に依り、木造の神社からコンクリート造りの御社殿として再建し、現在に至っております。
 古くから稲荷信仰は人々の長寿、商売繁盛などの御神徳があらたかで、一八稲荷神社のお加護をいただいている私達も、それぞれ繁栄の生活を営むに至っております。
多くの方々が御参詣下さることを御祈念申し上げます。
  一八稲荷神社維持会


所在地 千代田区霞ヶ関

この坂を霞が関坂といいます。中世のころ関所がおかれていたとされ、景勝地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起りとなっているようです。江戸時代は広壮な諸大名の屋敷が建ちならんで錦絵にも描かれました。いまでは霞が関というと中央官庁街の代名詞となっています。
 昭和51年(1976)3月 (平成22年〔2010〕1月補修)
 千代田区教育委員会


所在地 千代田区丸の内3-8(東京国際フォーラム)

 都指定文化財(旧跡)
 東京府庁舎跡
         昭和30年(1955)3月28日指定



 東京府は、明治元年(1868)南北市政裁判所(旧、江戸幕府の南北両町奉行所)の機能を継承して設置された。管轄区域は、旧朱引内の町奉行支配地であった。当初、東京府庁舎は幸橋門内の旧大和郡山藩柳沢家上屋敷に置かれたが、明治27年(1894)当地に移転した。当地の府庁舎建設にあたっては、寛政改革で時の老中松平定信が定めて以来蓄えられてきた七分積金が建設費用にあてられた。


忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性