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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区神田駿河台4・千代田区神田淡路町2

 この坂を淡路坂(あわじざか)といいます。この坂には、相生坂(あいおいざか) 大坂(おおさか) 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷(おおたひめいなり)、道をはさんで鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。
 
一口坂については太田姫稲荷が通称一口稲荷(いもあらいいなり)といったためとされています。大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。

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所在地 千代田区外神田2 ・ 文京区

 神田川対岸の駿河台の淡路坂(あわじざか)と並ぶので相生坂という。
 
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。 

これやこの孔子聖堂あるからに
     幾日湯島にい往きけむはや
  
                     法月歌客

  昭和53年(1978)3月 文京区教育委員会

所在地 千代田区神田駿河台1・3・4丁目

 この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図解』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅がありしより以て名とす、」名を唐犬坂といふとぞ。『新編江戸志』には、「池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。
 
大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられます。
  平成17年8月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区富士見2-4-1

 明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年(1880)に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後(1923)の昭和3年(1991)に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。

 「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは伊勢両宮(内宮 外宮)のご祭神である天照皇大神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業 諸産業の守護神)のご分霊を奉斎していることによります。

 また、日本で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから近年縁結びに御利益のある神社としても知られ良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています。

 

御祭神  天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

       豊受大神(とようけのおおかみ)

    < 造化の三神 >

       ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

       ・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)

       ・神産巣日神(かみむすびのかみ)

 

     倭此賣命(天照皇大神の御杖代  第十一代垂仁天皇皇女)

 

御鎮座  明治13年(1880)4月17日



所在地 千代田区富士見2-4-1 (東京大神宮)

 明治初年日比谷大神宮御鎮座に際しその境内に奉斎され昭和3年(1928)10月にこの地に奉遷今日に至っております。

 衣食住と商売繁昌の守護神「稲荷大神(いなりのおおかみ)」と土地の守護神「大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)」を祀っています。

 主な祭典として毎年2月の午の日に初午祭が8月15日には夏の大祭が斎行されます。

 また不出世の名優と謳われた9代目市川団十郎丈が篤い信仰を寄せていたことから芸能の神様としても崇敬されております。

所在地 千代田区西神田1-1-12

 江戸幕府、明治維新後の明治政府は、いずれもキリスト教を厳しく禁じました。明治6年(1873)2月24日に禁教の高札を撤去してから、次第に取締りを緩和しました。
 しかし、パリ外国宣教会の司祭たちは、巧みに宣教活動を開始しており、明治5年(1872)には三番町に外国語を教授する名目で「ラテン学校」を作り、英語・フランス語・ドイツ語の他、ラテン語を教えました。ラテン学校は、開校以来学生の数が増えましたので、明治7年(1874)1月に三つの旗本屋敷(約3,000坪)をフランス公使ベルトミー氏の斡旋により入手し、神田の猿楽町に移転しました。そして、その新しい場所において聖フランシスコ・ザビエルを保護の聖人とする聖堂を持ちました。この聖堂は、禁教の高札が撤去されてから最初に建てられた。これが神田教会の発祥です。
 この聖堂に続いて、それまで
外国人居留地の中にあり稲荷橋のたもとにあった商家を仮聖堂としていた築地教会外国人居留地を出て、現在の明石町に移転し、明治7年(1874)11月に聖ヨゼフに捧げられた教会として献堂ミサを行いました。このように神田教会と築地教会はほぼ時を同じくして創設されたのです。
 明治14年(1881)にはシャルトルの聖パウロ修道女会が、この神田教会の敷地内に招聘され後年白百合学園となる学校事業(施寮院・孤児院・小学校)を開きました。また明治21年(1888)1月には、ヘンリック師を長とする5名のマリア会員が神田協会に居住し、日本語の学習を始め、同時に塾を開き教育修道会としての活動を開始しました。これが後の暁星学園です。両校ともミッションスクールとして今日に至ります。

 国指定文化財(建造物)
カトリック神田教会聖堂
          平成14年2月14日指定

 昭和3年(1928)竣工で、マックス・ヒンデルが設計し、鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC)、2階建の協会建築です。バシリカ形式の三廊式聖堂で、半円アーチを基調とした開口部、ロンバルド帯風の軒蛇腹、四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾る。内側は、半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴としています。

所在地 千代田区神田錦町1-29 (神田橋公園)

 大正12年(1923)関東大震災の直後、氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であった区画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成った大正15年(1926)春、心身疲労の極、事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶ったのであります。

 昭和6年(1931)復興事業の完成に当り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和30年(1955)春それを修復の上、この地に移設したのであります。

  昭和30年(1955)6月

所在地 千代田区飯田橋3-5

 明治15年(1882)、有栖川宮幟仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと 明治22年(1889)、日本法律学校(現 日本大學) 明治23年(1890)、國學院(現 國學院大學)を開設す

 昭和60年(1985)11月吉日 建立

                 日本大學      

                 國學院大學

所在地 千代田区神田神保町2-20 (愛全公園)

周恩来ここに学ぶ-東亜高等予備学校跡-

 日中両国の人々が敬愛する周恩来総理は、1898年3月5日江蘇省淮安に生まれました。周総理は1917年(大正6年)に19歳で日本に留学。この地(当時はかんだ区中猿楽町)にあった東亜高等予備学校(創立者・初代校長=松本亀次郎)で日本語を学び、大学進学の指導を受けました。そのころ、日本政府の対中国政策に反対した松本亀次郎校長の心請にも影響を受け、1919年(大正8年)には帰国して天津の南関大学に学び、新中国の建設に身を投じました。
 
周総理生誕100年・日中平和友好条約締結20周年にあたり、東亜高等予備学校の跡地であるこの場所に、周恩来が学んだことを示す記念碑を、千代田区の歴史の一コマとして建立します。日中友好の気持ちをこめて・・・・・・。
  
千代田区日中友好協会

所在地 千代田区神田駿河台1-1,3

  吉郎坂
 坂名は、明治大学総長を務めた商学博士 佐々木吉郎氏にちなんでつけられた。(明治大学)
 「胸突坂」という別名もあります。




  昭和五十年一月 駿河台西町会 久保正夫 

所在地 千代田区鍛冶町1-8

 このお稲荷さんは何時頃から此の地に祭られたか記録がないのでさだかではありません。
 
古老の話によりますと「昔から俗に『伊勢屋、稲荷に犬の糞』と謂われて江戸時代には神田日本橋の町内には、お稲荷さんと伊勢屋は必ずあったそうだ。従って江戸時代の末期頃ではなかったか」という事でした。
 
明治41年(1908)にこのあたりで続けて三件の火災が発生し、誰れ言うとなく「お稲荷さんを粗末にしたせいではないか」と早速、町内有志が集まって荒れ果てていたお宮や境内を清掃修復し、改めて豊川稲荷赤坂別院より導師をお迎えし、御祈祷を願い、それからは豊川稲荷の末社となり、商栄講を組織して、毎年2月の午の日にはお祭りをする様になりました。それ以後火災はピタリとなくなり、その後に関東大震災(1923)、第二次世界大戦と二度の災厄に焼失しましたが、その都度町内一同の努力をもって復興しました。
 
今回も新しい街づくりの為やむなく取り壊されましたが信仰厚い皆様によって再建され町内各位の『家内安全』『商売繁昌』の守護神として今もなお崇敬を集めて居ります。
  
平成3年(1991)11月吉日 神田商栄講

所在地 千代田区有楽町1-7 (有楽町電気ビルヂング先)

 当社は永井飛騨守が天下泰平と子孫繁栄を祈念して安政6年(1859)に創立したものであります。

 社の傍にある手洗鉢は萬延元庚申年八月に、駒野四郎兵衛藤原里知、佐竹源治源義道、千葉脩二平宗克、土屋多藏源昌大、小川岩藏源富行、谷本重藤原長徳、井口岩五郎平貞正、清水量藏藤原吉利の八名が奉納した銘があり、当時から非常に信仰が篤かったことが偲ばれます。

 明治維新後は町制の変革によって稲荷神社もわずかにその跡形を止めるばかりでしたが、明治41年(1908)東京市電気局有楽町変電所が設けられたとき、祠堂も改修して町内氏子と共にお祠りして来ました。

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際にも周囲はみな延焼したにも拘らず、独り当地は災害を免れました。

 昭和8年(1933)1月変電所の復興を機会に盛大な鎮座祭を行なって以来、毎年2月初午には大祭を執り行っております。

 昭和48年(1973)9月、有楽町電気ビルの新築に伴い一時、赤坂山王町日枝神社に遷座されましたが、昭和54年(1979)2月、再びこの地に復座いたしました。

 ここに、この由緒の概略を述べ伝える所以であります。

  昭和54年(1979)2月


                                                                                                                  行雲亭

所在地 千代田区九段北 (靖国神社)

 行雲亭は、陸軍省の建築技師内藤藤太郎と柳井平八の設計により、昭和8年(1933)6月25日、(財)日本刀鍛錬會の鍛錬所として竣工された建物である。
 昭和62年(1987)9月に五つの鍛冶場の全てが茶室に改装されたが、外観は当時のままの優美な姿を残しており、特に屋根上の吹抜は、 鍛錬場にみられる様式で、行雲亭本来の姿を物語っている。
 (財)日本刀鍛錬會は、昭和7年(1932)12月、明治維新とともに衰退の一途をたどった鍛刀界の復興、国民の愛刀心の向上、そして有事に際した軍刀の整備などを目的に発会。理事長には歴代の陸軍次官があたり、延べ11名の刀匠と21名の先手(さきて)からなる刀工集団を中心に組織され、終戦までの間、8100口に及ぶ良質な日本刀を製作し続けた。そこで製作された日本刀は「靖國刀」、刀匠達は「靖國刀匠」と呼ばれ、靖國刀匠達は、当初の靖廣・靖徳・靖光をはじめ、陸軍大臣より「靖」の字を冠する刀匠銘を授与された。
 また、大正15年(1926)頃には、日本古来のたたら製鉄は途絶え、日本刀の材料となる高品質の玉鋼(たまはがね)の入手は困難な状態にあった。そこで、(財)日本刀鍛錬會は、古代から良質の砂鉄を産出する島根県仁多郡横田町に、「靖國鑪(やすくにたたら)」を開設し、生産された玉鋼は50数tに及んだ。
 終戦を迎え、日本刀の製作は一時禁止されたが、昭和28年(1953)には、靖國鑪の技術を継承し、作刀技術の保存を目的に、(財)日本美術刀剣保存協会が「日刀保たたら」として復活させた。そこで生産された良質な玉鋼は、日本刀の材料としてだけでなく、茶湯の釜や、東大寺仁王像修復などにも広く用いられている。
 ここに、日本刀鍛錬會が、我が国の伝統文化の継承に寄与した業績を、永く讃えるものである。
  平成7年(1995)7月3日 日本刀鍛錬會顕彰会
                      
代表 鈴木嘉定

所在地 千代田区麹町6丁目~新宿区

     (橋下 JR中央線)

 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。

 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。

 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991)に架け替えたものである。

 

 

所在地 千代田区麹町6-4-2

浄土宗 
 常栄山 心法寺

 常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇頃三河国に開かれた寺院で当時の寺号は「秦宝寺」とされていたといわれています。その後、慶長2年(1597)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。

 この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(三尺五寸九分)、ヒノキ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね12世紀最末から13世紀第14世紀頃までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その時期の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頭に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当初の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期彫刻の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは、貴重な事例です。

 心法寺には、「紙本着色 仏涅槃図」も伝わっています。本件は、娑羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、肉身は黒、衣服の線は朱筆で入れられています。画面は、縦182.7cm、横158.4cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物は釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、『武江年表』元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)大竜寺に、呉道子の筆南海補蛇山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(1716~1741)頃に作製された作品であると思われます。
 境内には、『竹尾善筑(たけおぜんちく)の墓〔山縣大貳(やまがただいに)の孫で「三縁山志(さんえんざんし)」を著した〕』、『井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)の墓〔享保の頃土木水利に功のあった人〕』、『眞野是翁(まのぜおう)の墓〔故実家(こじつか)であって、甲冑(かっちゅう)の製作に精しかった〕』、『村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)の墓〔遣米使節の副使〕』、『麹町区役所職員殉職碑』、『銅製梵鐘』、『水盤』、『庚申塔』、『下野皆川藩松平家墓所があります。

所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺)

 千代田区指定有形民俗文化財 
平成14年(2002)4月指定

 この水盤は、銘文によれば、万延2年(1861)2月に檀家である稲垣氏が親族である清林院と浄池院の菩提を弔うため心法寺に寄進したものです、心法寺の稲垣家墓所には幕末~大正期にかけての墓碑が三基あります。うち一基には、清林院・浄池院の名がみえます。この墓碑は破損が甚だしい状態ですが、右側面には次のような銘文が確認できます。

   清  安政七庚申年三月廿九日

 永  代  祠  堂  金  貳  拾  五  両

   浄  萬延元庚申年八月十七日

   寶  明治二十六年七月廿六日

 この銘文から、安政7年(1860)3月29日没の「清林院」と、万延元年(1860)8月17日没の「浄池院」、二名の菩提を弔うために、万延2年(1861)2月に、稲垣家が心法寺に寄進したことがわかります。
 なお、水盤に関しては、銘文から判明することとは別に、次のような話も伝わっています。
 稲垣氏は番町に居住した武家で幕末の騒乱期に三河国に疎開し、曾祖父にあたる人物が無事疎開できた感謝から、三河国の石を用いて製作して心法寺に寄進したということが、稲垣氏のご子孫に伝えられています。
 心法寺住職在誉上人が、万延2年(1861)京都からの帰途に旧地である三河国(幡豆郡宮崎庄、あるいは額田郡宮崎)にたちよって、「開山歴代の花崗石八角の墓碑」と、「稲垣氏より寄進の大浄水盤」を造らしめた、との記述が昭和5年(1930)刊行の『心法寺雑話』(中谷在禅著)には見えます。
 水盤は、『心法寺雑話』の口絵写真によると、昭和5年(1930)段階では参道から本堂にむかって左側にありました。
 この水盤は、区内に現存する近世以前からの由緒を持つ唯一の寺院である心法寺の江戸時代末期の信仰と暮らしを物語っています。
  平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺)

 千代田区指定有形文化財(工芸品)

             平成10年(1998)4月指定

 この梵鐘は銘文にある通り延宝4年(1676)に鋳造されました。『新撰東京名所図会』によれば、心法寺開山の然翁上人が慶長2年(1597)の起立当時、三河国の秦宝寺から本尊・堂宇などとともに梵鐘を持ち込み、しばらく心法寺で使用したが、この梵鐘が破損した為、5世寂誉上人が改めて鋳造し直すこととし、延宝4年(1676)中、自坊において鋳造した、とされたいます。
 本銅製梵鐘は、通高164.0cm、駒の爪の下端の周が269.5cm、口径85.8cmになり、竜頭は高31.0cm、髪、角、耳ともに大きく、頭髪から連なるように中央に火焔宝珠を据えています。乳については、直径3.8cm、高1.6cmの二段盛り茸形で、4面ある乳の間に5列×5行で各25個、さらに4ヶ所ある縦帯の上部に各2個づつ、合計108個を鐘面に施しています。全体的に、江戸時代の梵鐘としては大きな部類の梵鐘であり、形姿の点では比較的長身・細身の形であるといえます。
 鐘名にある「冶工」椎名伊豫藤原吉寛は、神田鍋町に居住した御鋳物師で、神田鍋町に、かなり大きな工房を構えていたものとされています。椎名伊豫藤原吉寛(あるいは良寛)は、延宝年間(1673~1681)から元禄年間(1688~1704)ころに活動し、江戸の鋳物師として比類無いほどの作品例を残しました。彼の作品で、千代田区周辺に現存している銅製梵鐘としては、

増上寺   港区 延宝元年(1673)

三宝寺   練馬区 延宝3年(1675)

寛永寺   台東区 延宝9年(1681)

西迎寺   新宿区 貞享3年(1686)

宝憧院   大田区 延宝9年(1681)

長明寺   台東区 天和2年(1682)

天真寺   港区 貞享4年(1687)

東海寺   品川区 元禄5年(1692)

などが挙げられます。
 ほかに鐘名についていえば、実に多くの人名が線刻されているのが目につきます。これらはこの梵鐘を鋳造するに際して喜捨をなした人々であると思われます。これらの人名の中には、①姓の有るもの、②姓の無いもの、③女性のもの、④法名などが混在し、また人名のほかにも「当町念仏講中」、「八丁目念仏講中廿人」、「念仏講中」などともあり、様々な人々がこの梵鐘の鋳造に関わったことを伝えてくれます。なお池の間には、「武州豊島郡江戸市谷之荘山野手常栄山天性院心法寺」との銘文もあり、これは「山の手」という地名の比較的早い使用例として、東京の地名を知る上でも資料的価値が高いといえます。
 この「銅製梵鐘」は、区内に伝来し現存する数少ない江戸時代の工芸品の一つであり、また江戸時代の梵鐘としては優れた作例で、さらにはかつての千代田区域に居住した鋳物師の作品であるなど、千代田区の歴史を考える上で欠くことのできない貴重な資料です。
  平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区麹町4-1-1 (麹町ダイヤモンドビル横)

御祭神  倉稲魂命(京都伏見稲荷と同祭神)

 創建は元文年間(1736~1741)、遠藤三右衛門氏の建立に係ると伝えられる。旧称は、遠藤稲荷又は垣見稲荷、古くから遠藤家が、また明治以降は垣見家でお守りしてきたところからこの名がある。

 明治22年(1889)、麹町銀行(後に三菱銀行)設立のため、垣見家よりお社を含む敷地が提供され、爾来銀行でお守りすることとなった。大正12年(1923)、震災後再建の際、町内安全、商売繁昌を祈って豊栄稲荷大明神と改称。昭和20年(1945)5月、戦災により焼失。昭和24年(1949)2月、有志の寄付により再建。昭和44年(1969)7月、三菱銀行店舗新築に伴い新社殿落成。昭和56年(1981)12月、有志の寄付により社殿等改修。平成16年(2004)3月、麹町ダイヤモンドビル新築に伴い新社殿等落成。

  平成16年3月吉日 

所在地 千代田区紀尾井町3-27 (剛堂会館ビル)

 明薬は明治35年(1902)4月医薬分業確立を理念として学祖恩田重信先生により創立され明治40年(1907)7月現在地に明治薬学校校舎を建つ

 爾来震災戦災のため麹町笹塚野沢田無と変遷するも今日の大明薬に発展せしは創学精神の継承による茲に発祥の地を明記する碑を建て母校の発展を祈り明薬史の道標となす

 昭和51年(1976)6月吉日

   明治薬科大学同窓会 明薬会

                 会長 太田哲郎

 



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