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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区飯田橋3-5 (東京区政会館)

 日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。

 日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及び医療の発展に大きく貢献してきた、平成9年(1997)9月30日閉院した。

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所在地 千代田区飯田橋4-5先

 明治10年(1877)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護事業を開始しました。明治19年(1886)、旧麹町区飯田町4丁目、現在のJR飯田町貨物駅のところに博愛社が病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌明治20年(1887)に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治27年(1894)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(1912)に芝大門に移るまでここにありました。

所在地 千代田区飯田橋3丁目

 明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣で所長である山田顕義により日本法律学校が創立されました。

 これは日本大学の前身にあたります。

 明治28年(1895)に三崎町に移りました。

所在地 千代田区飯田橋3・4丁目~新宿区

 江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。

 明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。

所在地 千代田区飯田橋1-5

 榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が4,50頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。

所在地 千代田区飯田橋1丁目

 この奥、大神宮通り向って左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業(きしょうぎょう)のはじめて、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章(きしょう)の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業(きしょうぎょう)の方々の大多数は、この商会の流れを汲み、徽章業(きしょうぎょう)は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業(きしょうぎょう)に従事する人が沢山います。

 

 

所在地 千代田区九段南1-6-1先

 安政3年(1856)幕府はここに藩書調所を設け、専ら海外の事情を調査すると共にその教育にあたらせた。

 この調所はのち神田一ツ橋通りに移って洋書調所に、更に開成所と改め、明治2年(1869)大学南校と改称して東京大学の前身となった。

                         千代田区

 

所在地 千代田区九段北1-3

 滝沢馬琴は寛政5年(1793)27歳の時から、文政7年(1824)58歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。

 自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。 

所在地 千代田区神田佐久間町3-21 (区立 佐久間公園)

  御祭神  宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)

 この社は元、板倉主計頭邸内に祭られていましたが、明治維新の後、武家屋敷が取り払われて町家と変り祠のみが残っていました。

 廃れゆく稲荷を惜しんだ町内の有志が蓄財を出し合い保存と祭社の策を講じていたもので昭和36年(1961)、佐久間公園東北隅に遷座されました。
 
現在も佐久間町3丁目会を中心に連合町会にてお祭りをおこなっています。

所在地 千代田区神田佐久間町3-21 (区立 佐久間公園)

 ラジオ体操は昭和3年(1928)11月、簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものである。これがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ、全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった。
 
この地は、当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に、全国に先駆けて『早起きラジオ体操会』を始めたゆかりの地である。
 
ラジオ体操50年に当たりこれを顕彰する。
 
昭和53年(1978)8月1日
    
郵政省簡易保険局
    
日本放送協会
    
全国ラジオ体操連盟 

所在地 千代田区岩本町3-10先(区立岩本町馬の水飲み公園)

 この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。

                          千代田区区役所

所在地 千代田区神田和泉町2-3先

 ここに鎮座します神様は、お位では正一位の極位格式では本大斉祀式の最高『金網稲荷大神』と申される神様でおわします。

 その神様の親神様は、伏見稲荷大神であらせられまして、五穀豊穰を守る農耕の神、衣食住の神と仰いで崇敬され、更に商売繁昌の神、産業護の神、道中を守護する神と信じられ今日的には生活守護の神、交通安全の神と崇め奉られているのであります。然りて、金網稲荷大神様が、この地和泉町に外まつりとして奉祀されるに至りました。

 経緯は遠く379年の昔に遡及することになりますが、これを要約いたしますと、日本通運の先祖に当る飛脚問屋京屋弥兵衛という方が、徳川幕府から免許をうけて、浪花(大阪)、京(京都)、江戸(東京)間の運送事業を開始することになりましたもの、当時の世相は未だ物情騒然として治まらず、人様から頼まれた大切な信書や金銭それ貨物などを、安全正確に送り届けるにはどうすればよいか、ということについて苦慮されたものであります。

 そのとき、京屋弥兵衛の脳裡をかすめ閃いたものは、伏見稲荷大神様が、中世のころ、熊野信仰がさかんなるにつれ、熊野参詣の道中を守護された道中安全の神様でであらせられること想起し、これは伏見の親神様にお縋がりし、ご助力を祈願するに如かずとし、京屋は常日頃から伏見稲荷大社に参拝、同神様を信仰していたものの、これでは信心が足りないとして、同神社から大神様の”みたま”を勧請し、日夜自店にあって修行されたのであります。

 ところが或る夜の夢枕に王冠白衣のご神霊が立ち給い「汝の篤信のためで、汝に黄金の綱を授けるものなり、ゆめゆめ疑ごうことなかれ」とのご詫宣がありましたので、恐懼再拝、感激極まりなく、早速自店で奉祀している神様に「金網」の名前をつけ、これが金網稲荷大神と称えるようになった由来であり、前にも増して信仰に励んだのであります。

 爾来、金網様のお導きにより、京屋の飛脚は、道中における山賊や護摩の灰からの人災は皆無となりましたが、これは”厄除け”交通安全につながり、従って無事故は信用を倍加し、顧客が増えれば”商売繁昌”につながるとして店栄えるに栄え、なおかつ誠心誠意、人間性的な事業経営は信仰に繋がるものとして、これを「業即信仰」と称え、これを金言として子孫に伝え、子孫またこれを実践躬行しましたので、京屋飛脚問屋は、明治4年(1871)陸運元会社に吸収統合されるまでの271年もの長い間、連綿と続いた老舗となったのであります。

 続いて統合の結果、金網稲荷神社の祭主は時代の変遷に伴い、京屋から陸運元会社、内國通運、國際通運、日本通運と移り変わりましたが、その理由は定かではないが、推測するに、大正初期の内國通運神田支店(現在の秋葉原支店)は、聖なるところに畄まれるという観点からと、地域社会一般の人々が参拝するに過した地点を、ということで、現在の場所を選ばれたと思うのであります。

 その結果は、毎年の初午祭には盛大な祭典が行われ、地元町家一般の参拝は日に日に激増し、神田一帯の信仰を集めるようになりましたが、これもご利益を授け給う灼かな神様であることが理解されたからであります。その灼かさにあやかりたく、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、全く以って奇跡といわれているのであります。

 また、外まつりとなられた金網稲荷大神様は地域住民社会一般の方々に対しましても、人によって差別をつけられることなく祈願によってご利益を授け下さるものでありまして、あの大正12年(1923)9月1日の大震災のとき、猛火は殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、俄かに神田川沿いの屋上に霊狐が現れ、頻りに炎上する火炎に立向い、それを追拂う所作をされましたが、その神々しいお姿を、自分はこの目でまざまざと見上げたものだとは、当時穀商の鈴木四郎氏という方の話として、今に残っている逸話でありますが、これは神様は平等にご利益を垂れ給う好い一例であるものであります。

 このように、金網稲荷大神様にまつわる話は、枚挙に遑ありませんが、要するにこの神様は、ご利益を祈願して成就せざることなしとの灼かな神様であらせられますので、この神様を礼拝され広大なご神恩を鑚仰されますこと祈念する次第でであります。  恐惶謹言

           昭和55年(1980)2月3日 初午に当り

                      日通金網稲荷奉賛会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 荷田東丸は、京都伏見稲荷社家に生る。通称羽倉斎本名信盛なり。
 
元禄13年(1700)3代将軍家光50年祭に勅使として、大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で、享保7年(1722)まで在府せり。
 
その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり。その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり、当時神主は芝崎宮内少輔好高、その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の3代約100年に亘れり、然も好全妻女は東丸の女直子なり、されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽し学園の場を供して国学振興に寄与せり。師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき。
 
殊に元禄15年(1702)、門弟の宗徧流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る。この東丸出てて吾が国学は加茂真渕、本居宣長と伝統して今日に至る。
 
今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ。
     神田神社

 

所在地 千代田区丸の内

 この交差点とJR線の間には、かつて江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋が架けられていました。

 鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。門には鉄砲十挺、弓五張、長柄十筋、持筒二挺、持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。

 明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。

  平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区大手町1-4

 一橋徳川家は、寛保元年(1741)徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。

 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。

当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。

 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。

所在地 千代田区外神田2-16-2

社殿は登録有形文化財

 社伝によると天平2年(730)、武蔵国豊島郡柴崎村の浜辺(現 平将門首塚 千代田区大手町1-2)創建されました。延慶2年(1309)、時宗二祖真教上人は東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門公の霊を当社に合祀し、太田道灌・北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
 
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、当社は徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、慶長5年(1600)9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、家康公の合戦勝利に因み縁起の御守り『勝守(かちまもり)』を授与するようになり、現在でも多くの参拝者に授与しております。徳川江戸幕府が開かれると幕府の深く尊崇するところとなり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し幕府により社殿が造営されました。江戸時代を通じて江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。
 
明治時代に入り東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められ、明治7年(1874)に明治天皇が親しく御参拝になりました。大正時代、関東大震災(1923)による社殿焼失後、昭和9年(1934)に氏子崇敬者の浄財により画期的な権現造の鉄骨鉄筋コンクリート・総漆塗の社殿が造営されました。
 
昭和20年(1945)、東京大空襲が神田・日本橋界隈を直撃しましたが、社殿はわずかな損傷のみで戦災を耐えぬき戦災で苦しむ人々に勇気と希望を与えました。
 
戦後、隨神門などの建造物などが再建され江戸時代にも劣らぬ江戸東京を代表する神社としての景観を整えるにいたりました。さらに平成七年より「平成の御造替事業」として社殿等の塗替・修復及び資料館の造営等が大規模に行われ、平成17年(2005)には境内の整備事業が実施され、鳳凰殿や祖霊社などが新たに造営されました。

  


【 御祭神 】

一の宮 大己貴命(おおなむちのみこと)(別名 大国主命)
          <だいこく様>    平成2年(730)創祀

二の宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
          <えびす様>    明治7年(1874)奉祀

三の宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
          <まさかど様>    延慶2年(1309)奉祀



   【 神田祭 】
 日本三大祭・江戸三大祭のひとつに数えられる代表的な日本の祭です。
 
江戸の昔より、徳川将軍をはじめ江戸庶民の厚い崇敬を受けたことから天下祭・御用祭とも称えられ、神田・日本橋を中心とする町々より36本の勇壮な山車と、それに加え毎回趣向を凝らして人々の目を楽しませた附祭(つけまつり)も加わり江戸城内に参入して徳川将軍の上覧にあずかった由緒ある祭礼です。
 
今日の神田祭は、2年に一度賑やかに行われます。当社の鳳輦・神輿三基をはじめとする平安絵巻さながらの祭礼行列が東京の中心である神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内の氏子108ヶ町を一日がかりで巡行します。また、各氏子の町神輿約200基が街中を練り歩き、次々と宮入参拝する様は実に壮観です。蔭祭の年には、当社の宮神輿が氏子中により担がれ渡御いたします。



 境内には『随神門』、『少彦名命(えびす様)ご尊像』、『大己貴命(だいこく様)ご尊像』、『鉄製天水桶』、『小唄塚・小唄作詞塚』、『水盤』、『力石』、『銭形平次碑』、『石獅子』、『角田竹冷の句碑』、『水野年方顕彰碑』、『籠祖神社』、『籠祖講関係石造物群』、『三宿稲荷神社・金刀比羅神社』、『浦安稲荷神社』、『末広稲荷神社』、『魚河岸水神社』、『小舟町八雲神社』、『小舟町八雲神社の鉄製天水桶』、『大伝馬町八雲神社』、『大伝馬町八雲神社の鉄製天水桶』、『江戸神社』、『国学発祥の地碑』、『阿部宵人の句碑』、『明治天皇御臨幸記念碑』、『献燈台奉献の碑』、『銭形平次の作者 野村胡堂ゆかりの紅梅』、『明神男坂』、『明神女坂』があります。


    Edo Sochinju Kanda Myojin
     Kanda Shirine,the Tutelary Shrine of All Edo
〔Deities Enshrined〕
Ichi-no-miiya(First Shrine):Onamuchi-no-mikoto("Daikoku-sama")
Ni-no-miya(Second Shrine):Sukunahikona-no-mikoto("Ebisu-sama")
San-no-miya(Third Shrine):Taira no Masakado-no-mikoto("Masakado-sama")
Kanda Shrine is formally known as Kanda JInja but is also more popularly called Kanda Myojin.The deities enshrined are the guardian deities for 108 Tokyo neighborhoods,including Kanda,Nihombashi,Akihabara,Ohte-Marunouchi,the Old Kanda Market and the Tsukiji Fish Marked.Prayers to the deities enshrined at Kanda Myojin are partivularly efficacious for family happiness,marriage,prosperity and success in business,recobery from illness,and protection against accidents and disasters,among many other things.

〔History〕
Kanda MYojin was founded in 730(the 2nd year of the tempyo era,or Tempyo 2).With its almost 1,300 years of history,the shrine is one of the oldest in Tokyo.Originally,it was located near the Masakado-zuka (Masakado Tomb)in present-day Chiyoda-ku,not far from the Imperial Palace.In 1309 (Enkei 2),Taira no Masakado(903?-940),a famous warrior hero of Eastern Japan,was enshrined at Kanda Myojin.In 1603 (Keicho 8),when Shogun Tokugawa Ieyasu established his government in Edo(now Tokyo)and rebuilt Edo Castle on a larger scale,the shogunate moved Kanda Shrine to its present site in order to guard against misfortune entering the castle from the inauspicious Omote Kimon(demon gate)direction.Throughout the Edo period,many people both in the government and among the general public honored the shrine as the Tutelary Shrine of All Edo.

During the Meiji period (1868-1912),Kanda Myojin was named one of the ten shrines in Tokyo to which an Imperial emissary was sent on the occasion of festivals and was officially regarded as the guardian of the City of Tokyo and the Imperial Palace.In 1874,another deity,Sukunahiko-no-mikoto,who was originally worshipped at Oharai Isosaki Shrine in Ibaragi Prefecture,was enshrined as the second guardian deity of Kanda Myojin.It was also in this year that Emperor Meiji paid a personal visit to the shrine.

Following the destruction of the shrine complex in the Great Kanto Earthquake of 1923,the shrine buildings were rebuilt in Gongen style,but instead of the traditional wood,reinforced concrete was used,an innovation in shrine-construction methods.The fire bombing of Tokyo in 1945 nearly destroyed the Kanda and Nihombashi areas,but the shrine buildings survived with only minimal damage.

After the war,the Zuishin Gate and other structures were rebuilt,restoring the shtine to its Edo-period grandeur as one of the most important and scenic shrines of Tokyo.In 1995,as part of the Heisei Grand Restoration Project,the shrine buildings were thoroughly refurbished and a new museum was added to the complex.In 2005,further renovation work was carried out,and the new Ho-ou-den (Phoniw Hall)and Soreisha(Shrine for Ancestral Sporits)were built.

〔Shirine Precincts〕
The Kanda Shrine complex has been designated a National Cultural Property.The buildings are constructed In the Gongen style of reinforced concrete painted with vermilion lacquer.The Zuishin Gate is built entirely of hinoki cypress in the Irimoya style.Decorating the gate are carved wooden reliefs depicting such subjects as the legend of the white ravvit of Inava,the four mythical vreatures of the four directions,and a tethered horse,which was Taira no Masakado's family emblem.The Ho-ou-den is a multifunctional hall where talismans can be obtained and worshipers can rest their feet or wait for triends.The Myojin Kaikan(the shrine hall)is used for various ty;es of gatheringa,invluding wedding receptions for couples who have been married at the shrine.The Shiryokan(the Shrine Museum)exhibits important artifacts related to the history of Edo culture and the Kanda Festival.Within the shrine precincts aremany sculptures,including images of Daikoku-sama(the largest stone sculpture of Daikoku-sama in Japan)and Ebisu-sama coming ashore amid waves,and also cultural properties such as the Shishi-yama(Lions on the cliff),the Tensui-oke(the Temsui pail) and other monuments.

〔Kanda Matsuri〕
The Kanda Matsuri is one of the three most famous festivals in Japan and also one of the three great festivals of Edo.During the Edo preod,the Kanda Matsuri was supported by both th government and the people of Edo and thus became known as the Edo Tenka Matsuri (the Edo Grand Festival) and Goyo Matsuri (Government-Authorized Festival).During th festival,elaborately decorated floats and parades of costumed townspeople came from the Kand and Nihombashi neighborhoods to Edo Castle,where they were permitted to enter the parace grounds to entertain the shogun.

Today  the Kand Matsuri is held once every two years in May.It consists of two main events.During the Jinkosai (Deity Parade Festival),the shrine's own horen (imperial palanquins) and mikoshi (portable shrines)are paraded through  the streets of the 108 neighborhoods that regard Kanda Myojin as their tutelary shrine.Then during the Mikoshi-miyairi,the machi-mikoshi--mikoshi belonging to individual neghborhood associations-- are carried through their respective neighborhoods and on to Kanda Shrine in a glorious pageant of color,movement,noise,and energy,to be purified and blessed by the deities of the shrine.

In alternate years when the full Kanda Matsuri is not held,one of Kanda Shrine's grand mikoshi is also carried through the neighborhood on the shoulders of houndreds of people with a lot of cheers and enthusiasm.

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 石造では日本一の大きさを誇る。
 
一の宮・大己貴命(おおなむちのみこと)<だいこく様>(別名 大国主命)は国土経営・夫婦和合・縁結びの神様。
 大己貴命は少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに力を合わせ日本の国づくりをなさり、農耕漁業をすすめて日本人の生活の基礎をお築きになられました。さらに、医薬の道を伝え多くの人々を病苦からお救いになられた慈愛の御心をお持ちの神様です。
  
昭和51年(1976)建立
     神田神社

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 神田明神の二の宮・少彦名命(すくなひこなのみこと)は「えびす様」として親しまれ、篤い崇敬をお受けになられています。
 
えびす様は七福神のお一人で「商売繁昌」の神様として、また魚群を岸に追い込み大漁をもたらすイルカやクジラにも例えられる海の幸を象徴する神様です。
 
少彦名命(すくなひこなのみこと)は海のかなた「常世(とこよ)の国」から来られた、小さいお姿の神様ですが、大きな「だいこく様」(一の宮・大己貴命) と力を合わせて、日本の国づくりをなさり、「国土開発・事業繁栄」の神様として仰がれております。また医薬の道を伝え多くの人々を病苦からお救いになられたところから「病気平癒・健康増進」の祖神とも言われております。



 鳳凰殿竣成記念として、多くのご神徳をお持ちになる「少彦名命(えびす様)」のご尊像を、金工作家で東京藝術大学学長・宮田亮平氏が制作しました。少彦名命(すくなひこなのみこと)がイルカやタイ・ヒラメに守られて大海原をわたる姿をあらわしています。
 
この少彦名命(すくなひこなのみこと)のお姿は、皆様の願いを掌におのせして神様にお伝えし、さらに神様からのお恵みを掌におのせして皆様にお届けくださるお姿を表現しています。
     神田神社

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 昭和51年(1976)に建立。総檜・入母屋造。関東大震災(1923)で焼失して以来約50年ぶり(昭和天皇御即位50年の記念)の再建。平成10年(1998)に『平成の御造替事業』により鮮やかに塗替えられました。
 
各所に「因幡の白兎」の神話や四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、平将門公ゆかりの繋ぎ馬の彫刻がちりばめられています。



  【随神門欄間彫刻】
 
随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大国主命(だいこく様 別名:大己貴命)の神話(因幡の白兎)が描かれている。



四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、

東は青龍(蒼龍)


西は白虎(白虎)


南は朱雀(朱鳥)


北は玄武(玄武亀)


 夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。
 
またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。
 
近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。
     神田神社

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形文化財
 神田神社の力石
     平成3年(1991)4月指定

 「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守(ちんじゅ)、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
 
古来、わが国民信仰では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多い。
 
また、「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病(えきびょう)の侵入を防ぐための神であり、呪い(まじない)等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
 
境内にある「力石」の由来は詳(つまび)らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
 
本力石は、その銘文から文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされる。
  
平成3年(1991)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
 
平次の住居は、明神下の元台所町ということになっている。
 
此の碑は、昭和45年(1970)12月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
 
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 神田神社の石獅子
     平成3年(1991)4月指定

 本石獅子は、千代田区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。

 『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。

 神社境内の獅子山に据えられていたが、大正12年(1923)の関東大震災により獅子山自体は崩壊した。その際、子獅子は、紛失したものの、親獅子二頭は、保存され、再建された獅子山に据えられた。

  平成3年(1991)12月 千代田区教育委員会

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 一の宮
 大宝2年(702)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。
 
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道潅築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長8年(1603)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和2年(1616)に当地に遷座された。
 
江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治18年(1885)に江戸神社と腹称された。
 
この神社は、江戸開府の頃、幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684~)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態がが整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。
 
現社殿は平成元年(1989)神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日 5月14日

  三天王祭・一の宮江戸神社の祭
 慶長18年(1613)より始まったと伝えられる神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町2丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して14日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。
 
現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神輿で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田際に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 二の宮
 この神社は江戸時代以前に祀られていあたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、6月5日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して8日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(1615)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町1丁目・本町3丁目東町会の有志諫鼓会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。
 
尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日  6月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三天王 三の宮
 この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町「貞享年間(1684~)までは小伝馬町」お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。
 
明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。
 
東京歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。
 
神輿は6月10日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは13日か14日その間里程は十三里に及んだといわれる。このことから十三里天王ともいわれた。
 
近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。
 
御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
 
祭礼日  6月6日



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