東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区丸の内 鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。門には鉄砲十挺、弓五張、長柄十筋、持筒二挺、持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。 明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。 平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会 PR |
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永山
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