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東京都千代田区の歴史
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所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 小舟町八雲神社の鉄製天水桶
     平成17年(2005)4月1日指定

 この天水桶は、地上からの高さが1.4mほどになる一対のものです。なお、四角形の基壇と台座は石製です。
 
銘文によれば、天水桶の奉納者と鋳造者は次のとおりです。
 
奉納したのは、江戸の魚問屋仲間に属する商人、遠州屋新兵衛他十名で、文化8年(1811)6月に奉納しています。魚問屋仲間とは、塩干肴や乾物などの流通を担った商人のことで、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べていました。小舟町八雲神社は、最初、日本橋にあった伝馬町の一つ小伝馬町が宮元となっていましたが、のち魚問屋仲間が祭礼費用を賄うなど神社の活動に関与していきました。その後は、彼らが集住していた小舟町の人々により崇敬され、今日に至っています。
 
鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師太田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)です。釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640)に出府しています。当初は芝に居を構えましたが、万治元年(1658)に大島村に転居しました。梵鐘・天水桶・茶釜・鍋・釜などを製造し、明治維新後に廃業しました。また、釜屋六右衛門家は、神田神社において、小舟町八雲神社右隣の大伝馬町八雲神社の天水桶(平成16年(2004)4月1日付で文化財指定)も作製しています。
 
なお、鳥居を入って左側の天水桶は、安政4年(1857)に再建されたもので、右側の銘文をもとに鋳造したものの、文字の輪郭が丸みを帯びるなど違いが生じています。
 
この天水桶は、江戸時代以来の魚問屋仲間、そして小舟町の人々の神社に対する信仰を、私たちに教えてくれています。
  
平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会

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所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 大伝馬町八雲神社の鉄製天水桶
     平成16年(2004)4月1日指定

 この天水桶は、地上からの高さが1.4mほどになる一対のものです。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製です。天水桶の口縁には「巴(ともえ)」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されています。
 
銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である太田近江大掾(おおたおうみのだいじょう)藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物(ふともの)問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。
 
大伝馬町八雲神社は、江戸時代には祇園牛頭(ごず)天王社(一の宮)と呼ばれ、当地に祀られていた地主神でした。その運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、のちには太物問屋仲間が賄うようになり、運営主体が代わっていきます。そのため、天水桶には、元々の宮元である大伝馬町の名とともに、当時の神社運営に携わっていた太物問屋仲間の名も見ることができます。
 
江戸の問屋仲間と神社との関わりを、私たちに教えてくれます。
  
平成17年(2005)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 角田竹冷(つのだちくれい)の句碑 

 白うおや はばかりながら 江戸の水

 安政3年(1856)5月に静岡県富士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。
 
明治28年(1895)10月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌明治29年(1896)11月俳詩「秋の声」を創刊した。明治30年(1897)6月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。
 
正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正8年(1919)3月20日66歳で没す。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形文化財(歴史資料)
 水野年方顕彰碑
     平成13年(2001)4月1日指定

 この顕彰碑は、神田神社本殿の北側、裏参道の脇にあり、正六角形の燈籠ををかたどった小塔です。高さが3m78cm余、正六角柱断面の六角形の一辺は40.7cmです。
 
この碑は、浮世絵系の日本画家である水野年方みずのとしかた(慶応2年・1866~明治41年・1908)を顕彰するために、大正12年(1923)5月に門人らが建設したものです。
 
水野年方は左官棟梁の子として、江戸神田山本町に生まれています(一説に、神田紺屋町ともいわれています)。明治28年(1895)ころまで、つまり彼の画業の前半期を神田東紺屋町で過ごしており、千代田区にとって関わりの深い画家のひとりです。
 
水野年方は、14歳で歌川派の月岡芳年つきおかよしとしの門に入ります。さらに、芝田芳洲ほうしゅう・三島蕉窓しょうそう・渡辺省亭しょうていらの画風も学んでいます。年方が実際に活躍したのは明治時代で、人物画のほか草木風景の描法にも独自の様式を樹立したといわれ、明治中後期には戦争画も描いています。
 
さらに、「やまと新聞」を始めとする新聞や雑誌の挿絵も手がけており、新聞挿絵は年方にとって一段の進展を遂げたといわれています。
 
年方の門弟としては鏑木清方かぶらききよかた・池田輝方いけだてるかた・池田(榊原)蕉園・荒井寛方ひろかたらが、また鏑木清方の門弟としては伊東深水しんすい・山川秀峰しゅうほうがいるなど、水野年方一門からは近代日本画を代表する画家たちが多数輩出されています。
 
この顕彰碑は、水野年方とその一門が、神田周辺に深く関わりをもっていたことを示すものであり、千代田区内における絵画の歴史を考えるうえで重要なものといえます。
  
平成14年(2002)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 神田神社の水盤
     平成14年(2002)4月指定

 この水盤は、左右の側面にある銘文によれば文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納されたことがわかります。さらに、背面の銘文によると、安政3年(1856)6月に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に住む45名の人々によって再建されたと考えられます。安政3(1856)年の人物について調べてみますと、「諸問屋名前帳」(国会図書館所蔵)からこれらの人々の中には川辺炭薪問屋仲間・炭薪仲買・人宿・六組飛脚問屋などといあった職業を持つ町人たちであることがわかります。また再建にあたり揮毫を書家の平林惇一が行っていますが、平林惇一は書家細井広澤の流れを汲み、江戸日本橋室町で代々書屋を営んでいた平林家に関わりがある人物と考えられます。
 
この水盤は、千代田区における江戸時代の信仰の一端、特に神田神社やその末社である金刀比羅神社・三宿稲荷神社と江戸の町人たちとの関わりを知ることができるものです。
  
平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。
 
元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。
 
当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災(1923)により烏有に帰した。
 
その後、昭和30年(1955)江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久2年(1862)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田際には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。

御祭神  弥都波能売命(みづはのめのみこと)

祭礼日  5月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 当社御創建の年代は不詳でありますが、元和2年(1616)頃のもので、極めて古い神社であります。
 
昔より、庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷さまとして尊崇されている。
 
現社殿は、昭和41年(1966)2月28日に東京鰹節類卸商組合の有志により再建された。

御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ

祭礼日  3月午の日

 

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 この神社は、住吉江戸平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573~)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町成立と共にその守護神として勧請されました。寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵に入り、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷社として伝えられています。
 
その後天保14年(1843)8月、町割改めに際し神田明神社御境内に遷座、さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷社五社を合祀し今日に至っている。

御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

祭礼日  3月午の日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  三宿稲荷神社
 創建の年は不詳。江戸時代より神田三河町2丁目(他に皆川町・蝋燭町・旭町の一部が合併され、昭和10年(1935)に司町1丁目に改称。更に昭和41年(1966)より住居表示に関する法律により、内神田1,2丁目の一部に編入され、内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていた。その後当社12代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年(1966)10月7日に再建され、金刀比羅大神と共にご鎮座された。
 御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ
 祭礼日  10月初旬

  金刀比羅神社
 天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が齋行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められた。
 
住吉は、隅田川往来の船人達の守護神として崇敬され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業、遊芸を職とする人々の篤い信仰を集めている。
 
昭和41年(1966)10月7日、宗教法人を解散して氏神のこの地に社殿を建立し、三宿稲荷大神と共にご鎮座された。
 
御祭神  大物主命(おおものぬしのみこと)
       
金山彦命(かなやまひこのみこと)
       
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
 祭礼日  10月10日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 
猿田彦大神(さるたひこのかみ)は、天孫ににぎの尊降臨の時日向の高千穂の峰に御先導申し上げた神で、営業の方向や土地の方位等に霊験あらたかな神として崇められて居ります。
 
塩土翁神(しおつちおうのかみ)は、竹工の神、塩の神、又船の神として古事記に、山幸彦(火遠理命)が兄海彦(火照命)から借りた釣針を失いお困りの時無間勝間の小舟(すき間なく編んだ竹籠の舟)を作り与え海神の宮に渡り給えと教えられた神で器物を産み造る始祖として古くから崇め祀られて居ります。
 
籠祖神社は、古く寛政7年(1795)5月亀井組(現小伝馬町)の籠職及び、つづら職のの人々斯業の祖神として神田明神境内に鎮座されたのが始まりで、商売繁昌・招福開運の御利益を願い祖神講を設けて今日迄166年の間絶ゆる事なく毎年11月5日に盛大な御祭祀を致して居ります。
  
 昭和36年(1961)11月吉日 籠工商祖神講

御祭神  猿田彦大神(さるたひこのかみ)
      
塩土翁神(しおつちおうのかみ)

祭礼日  11月5日

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 籠祖講関係石造物群
     平成17年(2005)4月1日指定

 


 籠祖神社は、寛政7年(1796)5月に鎮座したという社伝もありち塩土翁神(しおつちおうのかみ)と猿田彦大神(さるたひこのかみ)を祭神とする神社です。現在もこの両神を職神として信仰する籠祖講の人々により、信仰されています。

 

 かつての亀井町(現在の千代田区岩本町伊1丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)には、神田の青物市場や日本橋の魚市場などで用いられる籠や笊などを作製する籠職人・葛籠職人たちが多く居住しており、彼らによって籠祖講は結成されました。

 

 境内には、嘉永3年(1850)から昭和36年(1961)に作製された9点の石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があります。これらの石造物から、私たちは講の活動について知ることができます。
 
鳥居及び記念碑からは、嘉永3年(1850)10月に亀井町の人々により奉納された鳥居が、昭和13年(1938)9月1日の大暴風雨で倒壊し部材が破損したため、講員一同が協力して笠木及び島木を新調して再建したことが判ります。また、戦時下の空襲で本殿と玉垣が被災したため、昭和27年(1951)11月に再建されましたが、その際に関わった講の人々の名を玉垣から読み取ることができます。一方、狛犬には、昭和34年(1961)11月の銘があり、再建から10年という節目の年の記念として講が奉納したということがうかがえます。
 
千代田区内には、かつて商工業や信仰にちなむ講が数多く存在しましたが、現在ではその活動を知ることはほとんどできません。籠祖講は現在も引き続き活動を続けており、毎年11月には例大祭を執行しています。これらの石造物は、江戸時代から現在に続く商職人の講活動を物語る、区内でも希少な文化財です。
  
平成17年(2005)12月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 神田明神の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田際は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名 吉田金太郎)を、縁りあるこの地に顕彰し、昭和31年(1956)3月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
 
その後昭和62年(1987)6月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立30周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
 
茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

 この坂を明神男坂(みょうじんおとこざか)といいます。明神石坂(みょうじんいしざか)とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消(まちびけし) 『い』 『よ』 『は』 『萬』 の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺(あわかずさあたり)から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

千代田区指定有形民俗文化財
 鉄製天水桶
     平成11年(1999)4月指定

 神田神社本殿前にある鉄製の天水桶は、その碑文から、神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石(せっしゅうなだおおいし)」と「筋違外(すじかいそと)」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたことがわかります。また他に「下り・地廻酒屋中」との碑文もあり、ここから株仲間との関わりが強く想起されます。
 
諸問屋の株仲間は、享保時代(1716~1736)から特権化しはじめた商人が、田沼時代以降幕府に公認されてきたものです。この株仲間は、物価騰貴の一因として見做され、天保12年(1841)に解散が命じられました。しかしこの解散が、経済の一層の混乱をきたしたと判断され、株仲間は僅か10年後の嘉永4年(1851)新たな商人層を加えて再興されました。なお株仲間再興以後の本組の問屋名などを記載した「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」には、碑文にある世話人や願主などの名前を見出すことができます。
 
天水桶の奉納は株仲間の開催期間中のため、その碑文は「下り・地廻酒屋中」とされています。しかし、仮にもし株仲間が組織されている期間であれば、前述した通り奉納に係わる商家は再興後の株仲間として組織されていることからみても、恐らくは「問屋中」などと表現されたことでしょう。
 
他の碑文の内、江山関根為宝(こうざんせきねいほう)は、幕末の書家であり、天保12年(1841)前後の著作が幾つか残されています。書道ばかりではなく歌をも詠み、音韻の学にも通じていたとされています。また二人の鋳物師(いもじ)の名前が見られますが、おそらくは神田の堀口武兵衛が仕事を請負って、川口の永瀬源七に鋳造させたものと思われます。
 
神田神社の「鉄製天水桶」は、江戸時代の信仰の一端、特に神田神社と周辺の人々との関わりを考える上で、欠くことのできない貴重な資料です。
  
平成11年(1999)9月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区外神田2-16-2 (神田神社)

  阿部宵人(しょうじん)の句碑

山茶花や散るや己の影の中

所在地 千代田区外神田2-16 (宮本公園)

千代田区指定有形文化財(歴史資料) 
 三谷長三郎胸像
     平成14年(2002)4月指定

 
この胸像は、背面や台座部分にみられる銘文によれば、昭和7年(1932)に逝去した三谷長三郎氏の三回忌にあたる昭和9年(1934)12月25日に故三谷長三郎翁胸像建設会により三谷翁の功績を讃えるために建てられ、彫刻家北村西望氏に胸像の制作を依頼し、昭和9年(1934)6月に作品は完成しています。
 
三谷長三郎氏は、神田在住の実業家です。明治2年(1869)2月1日に神田塗師町に生まれ、幼名は銀次郎といいます。三谷家は、紀伊国屋の屋号を持ち、万治3年(1660)の創業以来銅・真鍮を商っていた商家です。長三郎氏は、明治19年(1886)に10代目を襲名してから大いに経営手腕を発揮し、財をなしたといわれています。
 
三谷氏は、財団法人三谷報恩会を結成して、神田区の学校教育のために多大な貢献をしています。例えば、列車を仕立てて毎年、春には鎌倉・由比ヶ浜へ遠足を、夏には箱根で林間学校を開催するほか、神田区内の学校に映写機・ピアノなどを寄贈しています。今川小学校には市内では初めてとなるプールを建設しました。また、進学優良児童には奨学金を贈っています。
 
像の作者である北村西望氏(明治17年・1884~昭和62年・1987)は、長崎の平和祈念像の作者として著名です。
 
この胸像は、当初は隣接する神田神社の裏側、東北隅にあった大銀杏のそばにありましたが、神社境内の整備のため、昭和36年(1961)に現在の宮本公園へと移設されています。
 
この胸像は教育に関する人物を顕彰したものであり、千代田区の教育史を考えるうえで欠くことのできない資料です。
  
平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区神田錦町1-29 (神田橋公園)

 この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。

  平成3年(1991)9月 千代田区

所在地 千代田区神田錦町3-28 (学士会館)

国指定登録文化財(建造物)
 学士会館
       平成17年(2005)2月9日指定



 東京大学発祥の地

 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥の地である。

 すなわち、明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
 創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられた。
 明治18年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学科が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年(1885)までに本郷への移転を完了した。
 従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
 明治19年(1886)3月東京大学は帝国大学と改称され、その当時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。
 
更に、明治30年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
 爾後明治40年(1907)に東北帝国大学、明治44年(1911)に九州帝国大学、大正7年(1918)に北海道帝国大学、昭和6年(1931)に大阪帝国大学、昭和14年(1939)に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年(1924)に京城帝国大学、昭和3年(1928)に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
 
昭和22年(1947)に至って、上の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。
 
明治19年(1886)7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。
   
平成3年(1991)11月 学士会

所在地 千代田区神田錦町3-28

 この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治5年(1872)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843~1927)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌明治6年(1873)に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本野球の始まり」といわれている。明治9年(1876)初夏い京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。

 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、明治4年(1871)9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、明治10年(1877)7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。

 同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。

 平成15年(2003)、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。

 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

  平成15年(2003)12月 (財)野球体育博物館

所在地 千代田区一ツ橋 九段南1丁目

 この橋は、雉子(きじ)橋といいます。名称の由来について『御府内備考』に、「見聞集」云、

 「関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらをもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋と名づけたりと」とかかれています。これは初め俗称であったのが橋名となってしまったようです。

 外濠から平河濠につづいていて、江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。

   ”雉子橋でけんもほろほろに叱られる”

 警衛の番士の厳しさとのけんけんと鳴く声をかけた意といわれています。

 旧雉子橋は、この橋より100m程西側に架けられていました。

  平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会

 

所在地 千代田区千代田 皇居外苑 北の丸公園

 特別史跡 1963年5月30日指定

 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。

 以来、家康、秀忠、家光の3代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年(1949)に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年(1969)からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。

 この江戸城跡は、300年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年(1963)5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

  環境省皇居外苑管理事務所



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