東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区内神田1・神田錦町1・大手町1 PR 明治のはじめ幣制を整備確立することは急務であった。新貨条例の制定、新紙幣の発行による藩札の回収などが行われたほか、政府が自ら紙幣を製造する方針が決定された。これに基づき明治9年(1876)10月、第3代紙幣頭 得能良介によりこの地に大蔵省紙幣寮の紙幣印刷工場が建設された。 この工場は、正面玄関上部に高さ約26mの鳳凰像を据えた赤煉瓦造り2階建で、朝陽閣と呼ばれ、近代的な西洋建築としても錦絵にも描かれた。 紙幣寮は後に印刷局となり、また事業の拡張にともなって建物も増築され最盛期にはその敷地は、現在の常盤橋公園から神田橋付近に及ぶ広大な地域を占めるに至ったのであるが、大正12年(1923)の関東大震災によりこれらの建物はすべて灰燼に帰した。 昭和46年(1971)11月、大蔵省印刷局は創立100年を迎えたのであるが、その記念事業の一つとして紙幣寮がこの地に工場を建設して紙幣の製造をはじめた事績を永く後世に伝えるため、この碑を建てたものである。
所在地 千代田区北の丸公園 所在地 千代田区北の丸公園 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。 昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会 所在地 千代田区北の丸公園 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。 平成元年(1989)4月26日 近衛歩兵第一聯隊會 所在地 千代田区北の丸公園 日本武道館は、第41回国会における衆議院の議決を経て、天皇陛下の御下賜金のもと、国費と国民の浄財およそ20億円をもって、昭和38年(1963)10月に着工、昭和39年(1964)9月、青少年身心錬磨の大道場として日本武道の大殿堂が完成しました。そして、同年10月3日、天皇皇后両陛下をお迎えして演武初めの儀を行い、併せて、日本武道館開館式を挙行しました。 第18回オリンピック東京大会では、初めて正式競技に採用された日本の国技・柔道の競技会場となりました。また、我が国伝統の武道である剣道、弓道、相撲がデモンストレーションとして各国の人々の前で披露されました。 以来、日本武道館は、設立の趣旨に沿い、種々の武道振興普及事業を行っています。 また建物は、青少年の心身錬磨の大道場として各種武道大会に使用される一方、公益的な使命をもつ諸行事にも広く活用されています。 所在地 千代田区北の丸公園 弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第9皇子として御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院(しょうれんいん)宮御相続、安政5年(1858)輪王寺(りんのうじ)宮御相続、公現法親王{俗名 能久(よしひさ)}と称せられ、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となられる。明治3年(1870)還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治10年(1877)御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の明治5年(1872)北白川宮を御相続遊ばされた。明治17年(1884)陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。明治25年(1892)陸軍中将に任ぜられ、第6・第4師団長を御歴任、明治28年(1895)1月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘えんねつしょうれいの地で疫病に罹らせ給い、明治28年(1895)10月28日台南に於て薨去遊ばされた。御歳49歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。 銅像は、明治36年(1903)1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1・第2聯隊正門前(現在地より東方約60m)に建立されたが、昭和38年(1963)北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。鋳造は陸軍砲兵工廠である。 建立後80余年を経て若子個所の損傷を見るに至ったので、昭和60年(1985)有志相諮り修復した。 昭和60年10月28日 親王90年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す ラダ・ビノード・パール博士は、昭和21年(1946)年5月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和23年11月の結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な資料の分析に没頭されました。博士はこの裁判を担当した連合国11カ国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の分明史的見識の持主でありました。 < 意見の結語 > 時が熱狂と偏見とを 1886.1.27 インド、ベンガル州ノディア県にて生誕 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区九段北 (靖国神社)
昭和20年(1945)11月20日、この齋庭に天皇殿下の行幸を仰ぎ奉り当神社史上最大の臨時大招魂祭が齋行された。 |
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永山
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