東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区北の丸公園 弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第9皇子として御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院(しょうれんいん)宮御相続、安政5年(1858)輪王寺(りんのうじ)宮御相続、公現法親王{俗名 能久(よしひさ)}と称せられ、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となられる。明治3年(1870)還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治10年(1877)御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の明治5年(1872)北白川宮を御相続遊ばされた。明治17年(1884)陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。明治25年(1892)陸軍中将に任ぜられ、第6・第4師団長を御歴任、明治28年(1895)1月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘えんねつしょうれいの地で疫病に罹らせ給い、明治28年(1895)10月28日台南に於て薨去遊ばされた。御歳49歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。 銅像は、明治36年(1903)1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1・第2聯隊正門前(現在地より東方約60m)に建立されたが、昭和38年(1963)北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。鋳造は陸軍砲兵工廠である。 建立後80余年を経て若子個所の損傷を見るに至ったので、昭和60年(1985)有志相諮り修復した。 昭和60年10月28日 親王90年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す PR |
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永山
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