東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸(ひたちまる)に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃(たお)れた。 碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。 PR 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 主景である滝石組は、深山幽谷を思わせる一大渓谷美で、数ある日本庭園の中でも有数の名作といえます。この左上には獅子頭を思わせる奇石があって、左手の築山が獅子の築山とされているのは、古庭園中でも大変珍しいことです。 中島東部にある切石橋は6mを超える貴重な作で、また中央の阿波青石橋は神池の中心的な景となっています。大島南部にある石浜は、鬼怒川石を用いて復元されたもので、美しい水景が見られます。 < 錦鯉献納の主旨 > 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 明治2年(1869)6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖国神社創建者としての功績は大きく、明治15年(1882)、伯爵山田顕義らにより銅像が建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作がが委嘱された。 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) この練兵館(れんぺいかん)は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)の剣客 斉藤弥九郎(さいとうやくろう)により、それまで俎(まないた)橋付近にあった練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。 練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥次郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。 なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。 Site of the former "Renpeikan" 所在地 千代田区九段北 (靖国神社) 耐候性高張力鋼版(12mm)を使用し、総重量約100t、柱の内部は相当の高さまでコンクリートを充填して補強、技術的計算によれば1200年の耐久性を有する。 竣工 昭和49年(1974)10月7日 所在地 千代田区九段北1-15先 南十字の星の下 身を捧げた友のあゆんだ途は遠く険しかった 今は昔ながらの故国に生きて 立ち直る国の礎となっている御霊に限りない敬意と溢れる愛情を覚え不変の石に心をこめて 亡き友よ永遠に安かれと祈って此処にこれを建てる 昭和39年(1964)11月3日 濠北方面戦没者慰霊会 所在地 千代田区神田駿河台1,2 この坂を雁木坂(がんきざか)といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図解』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。 この坂を錦華坂(きんかざか)といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂(かんがくざか)と呼ぶのは誤りです。 この坂は大正13年(1924)8月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。 「議決要綱の三」には”南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町2番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設”とあります。 江戸幕府が開かれた慶長年間(1595~1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代りました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩どるファッションの発信地となりました。 平成11年(1999)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区神田駿河台1 所在地 千代田区神田駿河台4
所在地 千代田区神田駿河台4-1-3 重要文化財 昭和37年(1962)6月21日文部省指定 この聖堂は明治17年(1884)3月に起工し工期七年を以って明治24年(1891)2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です。
頂上までの高さ 35m
日本最大のビザンチン式建造物として知られております。
古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスタンチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。 所在地 千代田区飯田橋4-9 明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農業用地取得のため大塚窪町に移転しました。 吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌明治34年(1901)4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転。のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災(1923)までありました。 |
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永山
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