東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区大手町2-7 (常盤橋公園) PR ここに立たせるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の室命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れつ偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の出御代に祝行添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沼へる地に建設せるなり 公の英霊は千載生けるが如く嚴然として宮闕の下を離れず我が國體を擁護しまつり天地と倶にごとしへに存せむ この木は、震災イチョウ(震災銀杏・震災いちょう)と呼ばれています。樹齢150年を超えると思われるこのイチョウは、かつて文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル・一橋総合ビル一帯)にありました。大正12年(1923)9月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみ、なんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。 所在地 千代田区大手町1-2 平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物、平将門にまつわる著名な伝説地。 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして、関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望をを受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田際の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。 将門首塚の由来
将門首塚の碑(故跡保存碑) 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆(せきとうば)は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。 常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。また天正十八年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治十年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代 『 色かへぬ 松によそへて あづま路の 常盤の橋に かかる藤なみ 』 の歌に因みつけられたものといわれる。 所在地 千代田区大手町1-4 一橋徳川家は、寛保元年(1741)徳川8代将軍吉宗の第4子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。 当家は、2世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が11代将軍となり、水戸家より入った一橋9世が徳川最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んだ。 明治のはじめ幣制を整備確立することは急務であった。新貨条例の制定、新紙幣の発行による藩札の回収などが行われたほか、政府が自ら紙幣を製造する方針が決定された。これに基づき明治9年(1876)10月、第3代紙幣頭 得能良介によりこの地に大蔵省紙幣寮の紙幣印刷工場が建設された。 この工場は、正面玄関上部に高さ約26mの鳳凰像を据えた赤煉瓦造り2階建で、朝陽閣と呼ばれ、近代的な西洋建築としても錦絵にも描かれた。 紙幣寮は後に印刷局となり、また事業の拡張にともなって建物も増築され最盛期にはその敷地は、現在の常盤橋公園から神田橋付近に及ぶ広大な地域を占めるに至ったのであるが、大正12年(1923)の関東大震災によりこれらの建物はすべて灰燼に帰した。 昭和46年(1971)11月、大蔵省印刷局は創立100年を迎えたのであるが、その記念事業の一つとして紙幣寮がこの地に工場を建設して紙幣の製造をはじめた事績を永く後世に伝えるため、この碑を建てたものである。 日本電信電話公社発足以来の念願であった 「すぐつく電話」 「すぐつながる電話」 の二大目標がこの程達成された われわれ日本電信電話公社に職を奉じその達成に努力してきたものとしては 真に喜びに堪えない ここに わが国電気通信事業が豊かな情報化社会の実現に向って さらに飛躍し発展することを祈念し その一里塚として記念碑を建立する 昭和55年(1980)10月 日本電信電話公社現退職者有志一同
記念像 日本芸術院会員 清水多嘉示 作 碑 文 阿部翠屋 書 所在地 千代田区大手町1-5-1 (大手町ファーストスクエア) 中原市五郎は、この地に、明治40年(1907)6月、公立私立歯科医学校指定規則に基づくわが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治42年(1909)に現在の千代田区富士見1丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和22年(1947)に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を承継し、生命歯学部と新潟生命歯学部の2学部をはじめ、大学院2、附属病院3、短期大学2、博物館1を有する世界最大の歯科大学となった。 日本歯科大学創立100周年記念 2006年1月吉日建立 日本歯科大学校友会 所在地 千代田区大手町2-1-1 (大手町野村ビル) 東京都選定歴史的建造物 丸ノ内野村ビル(旧日清生命館) 昭和7年(1932)に日清清明保険株式会社の本社ビルとしてこの地に建てられた旧日清生命館は、昭和16年(1941)に同社が野村生命保険株式会社(現東京生命保険相互会社)と合併した際に、丸ノ内野村ビルチンクと改称されました。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上8階、塔屋1階の当時の建物は、2階外壁の大部分が彫刻付テラコッタ(装飾焼物)貼り、7階及び塔屋の彫刻部分もテラコッタ造りで、繊細な衣装が壁面全体を覆うネオルネッサンス風の壮麗な建築でした。 古典主義を規範とした丹精で清楚なその姿は、ランドマークとして周辺の人々にも親しまれてきました。 その外観の一部、時計塔、列柱、尖塔などのほか2階部分のレリーフや玄関の門構えが、旧ビルと同じデザインで忠実に復元され、東京の歴史的都市景観を後世に伝える「大手町野村ビル」として生まれ変わりました。 東京都生活文化局 平成9年(1997)1月 所在地 千代田区大手町2-2 (新大手町ビルヂングと大手町野村ビルの間) 昔ここに道三堀という堀があり、そこに架かっていた橋を道三橋といいました。 道三堀というのは江戸城の数ある堀割の1つで、竜の口(和田倉門のそば)から銭瓶橋まで蛇行する堀割でした。堀の中程には橋が架かり、南東の端には幕府典薬寮の医官今大路玄朔延寿院道三法眼の屋敷がありました。 西側には細川越中守の屋敷があり、越中守の幼名を彦次郎と称したので、越中守橋とか彦次郎橋とも呼ばれていたようです。『江戸砂子』には今大路を今大和の姓としているので、大和橋ともいわれたのではないでしょうか。 この堀橋には道三の外、本道、外科、針の医師も住んでいたといい、この道さんが或日将軍の御召しに遅れ、御咎めがあった時、堀を廻ったので遅れた旨答えたところ、それならば橋を架けよということになって架けられたという話が伝えられています。 慶長(1596~1614)の頃は堀に沿って材木屋等の町屋が多くできましたが、その後武家地となり、明治42年(1909)堀は埋立てられてしまいました。 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区大手町1-1-1 (三菱東京UFJ銀行大手町ビル) 明治6年(1873)に設置された内務省の庁舎は、この地に建設されました。 内務省は、明治維新後内政全般の振興を図るため、初代内務卿となった大久保利通により創設されたもので、近代日本の発展に大きな足跡を残しましたが、昭和8年(1933)霞ヶ関に移転するまでこの地にありました。 昭和62年(1987)10月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区大手町2-6 昔ここに堀があり、そこに架かっていた橋を銭瓶橋といいました。堀(道三堀)を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいい、又一説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もあり、あるいはここで両替をするものが市をなしていましたが、あまりに多くなり仲間をきめて、両替をしたので銭買橋といったともいわれています。又夜中、江戸城の奥女中が城外に出るには通行切手がなくては外に出られなかったが、”銭かいばしを玉曼ぬけ”という句があるように、この橋の下からは切手なしで船でぬけ出られたので、この名がついたという説もあり、『そぞろもの語』(寛文18年〔1664〕印本)に天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋の近くで風呂屋を開業、永楽1銭の代金をとったとかかれています。明治42年(1909)に埋立てられ今は濠もなく橋もなくなり銭瓶の名だけ残っています。 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区大手町2-6 以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。 「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。 古くは後藤橋といへり。〔寛永中江戸絵図〕呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。〔江戸紀聞〕今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼名なるべし。(後略) これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~1643)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。 なお、外堀が昭和29年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含めて外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。 平成9年(1997)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区大手町 丸の内 千代田 明治8年(1875)「ニセアカシア」を、この道路に植えた。 蘭学者津田仙翁が明治6年(1873)ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹である。 なお、現在この通りの街路樹は「エンジュ」である。 東京都
|
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|