忍者ブログ
東京都千代田区の歴史
[1] [2]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

所在地 千代田区神田駿河台1,2

 この坂を雁木坂(がんきざか)といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図解』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。

PR

所在地 千代田区神田駿河台1 

 この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和8年(1933)から駿河台1,3丁目となりました。

 昭和50年(1975)3月 千代田区

所在地 千代田区神田駿河台4

 この坂を紅梅坂(こうばいざか)といいます。 このあたりは紅梅町とよんでいたので、この坂名がつきました。 淡路町に下る幽霊坂(ゆうれいざか)とつながっていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際本郷通りができたため、二つに分かれた形になりました。 『東京名所図絵』には 「東紅梅町の中間より淡路町2丁目に下る坂あり、もと埃坂(ごみざか)と唱えしに、 維新以後、 淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。

 昭和50年(1975)3月 千代田区

所在地 千代田区神田駿河台4-1-3

 重要文化財  昭和37年(1962)6月21日文部省指定

 この聖堂は明治17年(1884)3月に起工し工期七年を以って明治24年(1891)2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です。

 頂上までの高さ  35m
 建坪  318坪
 壁厚  1 ~ 1.63m

 日本最大のビザンチン式建造物として知られております。
 
日本ハリストス正教会は、キリスト教の旧教で(東方正教会・The Orthodox Church)全世界各国にある正教会のなかのひとつの独立した教会です。正教会はキリスト教のなかの本家ともいうべき立場を保ち、初代からの伝承を守り今日に至っています。

 古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスタンチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。
 
各正教会は国単位でまとまっていますので、本山は各国の首府にあります。したがって日本正教会の本山は、当地東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。全世界の正教会は、お互いが密接に結びつき信仰生活を分かち合うことによって、ひとつの共同体となっています。
 
全世界には約3億余りの集りです。
  
日本ハリストス正教会教団

所在地 千代田区神田駿河台4・千代田区神田淡路町2

 この坂を淡路坂(あわじざか)といいます。この坂には、相生坂(あいおいざか) 大坂(おおさか) 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷(おおたひめいなり)、道をはさんで鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。
 
一口坂については太田姫稲荷が通称一口稲荷(いもあらいいなり)といったためとされています。大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。

所在地 千代田区神田駿河台1・3・4丁目

 この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図解』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅がありしより以て名とす、」名を唐犬坂といふとぞ。『新編江戸志』には、「池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋舗に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。
 
大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられます。
  平成17年8月 千代田区教育委員会

所在地 千代田区神田駿河台1-1,3

  吉郎坂
 坂名は、明治大学総長を務めた商学博士 佐々木吉郎氏にちなんでつけられた。(明治大学)
 「胸突坂」という別名もあります。




  昭和五十年一月 駿河台西町会 久保正夫 



所在地 千代田区神田駿河台4・神田淡路町2

 この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた形になりました。『東京名所図会』には、”紅梅坂は””往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す。”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。


所在地 千代田区神田駿河台1-1 (明治大学 駿河台キャンパス)

建設者 鵜澤聡明博士顕彰会
       会長 天野伴睦
       副会長 阿保浅次郎
             石井滋

彫塑

  鵜澤先生は 明治大学総長に就任すること五回に及び 在任中の昭和三十年十月二十一日逝去される 行年八十三
 郷土の有志先生の遺徳を永遠に伝えんつぃ 高原正高氏等の協力に依りそn顕彰会が生れたのである

  昭和三十六年十月吉日


所在地 千代田区神田駿河台1-2

   太田姫稲荷神社

古社名 一口稲荷神社

御祭神 宇迦之御魂神
     菅原道真公 
     徳川家康公

末社   金山神社 金山彦命

氏子区域  千代田区神田駿河台1、2、3、4丁目
        千代田区神田錦町1丁目、小川町2丁目



 太田姫稲荷神社は、我国の数多い神社の中でも、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
 神社に伝わる古絵巻と、『駿河台文化史』(昭和10年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は9世紀の伝説に始まります。
 百人一首の名歌で知られる参議小野の篁(おののたかむら802-852)は、その詩才に白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。彼は、遣唐副史にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言され隠岐に流されたことは有名な出来事です。
 絵巻物の伝承によると、承和6年(839)はじめ、篁が伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出航してまもなく、海上にわかに6,7丈の大波が荒狂い。雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して船のへさきに座り、普門品(ふもんぼん=観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡(ほうそう=天然痘=当時しばしば大流行し多くの死者が出たがその治療法がないため非常におそれられていた。)患れべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう。」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。とのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに、山城国(今の京都府)の南にある一口の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
 江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の太田道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなくかの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたがこの日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。太田資長朝臣(後の太田道灌)は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立した。その後太田資長朝臣(後の太田道灌)はこの社を敬拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。今から約534年前第103代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
 慶長8年(1603)8月徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行い城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。

慶応2年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し

明治5年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。
例祭日は毎年4月18日と定められ、後に5月15日とあれたむ。

大正12年(1923)関東大震災で類焼。御神体のみ無事に湯島天神社に避難する。

大正14年(1925)仮社殿が落成し御神体を奉安す。

昭和3年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築さる。

昭和6年(1931)お茶の水駅、両国駅間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。


所在地 千代田区神田駿河台1-8-11 (東京YWCA会館)

 文政10年(1827)、この地に生まれ育った小栗上野介(1827~1868)は、幕末の外交・財政政策をリードし、横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いた。



This is the place of birth of Oguri Kozukenosuke(1827-1868),who took the lead of the fiscal policy and the Japanese diplomacy in the late days of the Tokugawa shogunate.Through construction of big shipbuilding yard in Yokosuka city,he inaugurated the way for the modernization of the Japanese shipbuilding  industry.


所在地 千代田区神田駿河台1-8-13 (駿河台日本大学病院) 

 法政大学の前身である東京法学社は、1880年(明治13年)4月、旧駿河台北甲賀町19番地池田坂上(現在、千代田区神田駿河台1丁目8番13)に設立されました。
 翌1881年(明治14年)5月、東京法学社の講法局が独立して東京法学校となり、その開校とともに日本近代法の礎を築いたフランス人法学者ボアソナード博士による講義が始まりました。
 その後、和仏法律学校を経て、1903年(明治36年)8月法政大学と改称されました。
 2011年(平成23年)5月建立





所在地 千代田区神田駿河台1-8 

  「杏雲堂」という名前の由来
 古く中国西晋時代の神仙伝の一節に、呉の国の薫奉(とうほう、字は君異)という名医の逸話として、「人のために病を治すも銭物をとらず、病の癒ゆる者、軽症の時には杏1株を植えしめ、重症の時には5株を植えしめたり。かくの如くすること数年にして10万余株となり、鬱然として林を成し、杏花雲の如く、杏子大に熟せり。」とあります。
 つまり、昔中国ある名医が治療費の代わりに杏の木を、重傷者には5株、軽症者には1株植えさせ、それが後に大きな杏の林になったというお話です。この故事から、医家・医師のことを「杏林」と言うようになりましたが、初代佐々木東洋は「杏花雲の如く」に感じて、明治15年(1882)6月1日の開院時に、「杏雲堂病院」と命名したと伝えられています。



 杏雲堂病院敷地内には『大久保彦左衛門屋敷跡碑』、『佐々木政吉胸像』、『佐々木東洋胸像』が、病院向かいの御茶ノ水杏雲ビル敷地内には『佐々木隆興胸像』あります。


所在地 千代田区神田駿河台1-8 (杏雲堂病院)

 佐々木政吉(1855~1939)
安政2年(1855)、江戸生まれ。
大学東校を卒業後、明治13年(1880)から5年間ドイツ遊学し、帰朝後、日本人として最初の東京帝国大学医科大学教授に就任。
明治21年(1888)、本邦医学博士第2号として医学博士授与。
明治24年(1891)、官命によりロベルト・コッホのベルクリン療法調査研究のためドイツへ出張。
明治27年(1894)、佐々木研究所の母体となる研究室を自邸敷地に新築。
明治29年(1896)、佐々木東洋の後を受け杏雲堂医院院長に就任、平塚市に結核療養所を設立。
大正5年(1916)、顧問に就任。大正13年(1924)、古希をもって引退。
昭和14年(1939)、85歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台1-8 (杏雲堂病院)

 佐々木東洋(1839~1918)
天保10年(1839)、江戸本所四つ目生まれ。
佐藤泰然の佐倉順天堂塾を経て長崎へ留学し、ポンペからオランダ医学を学ぶ。
東京に戻り、明治4年(1871)に大学東校医長に就任。
博愛舎、東京府立病院を経て、明治7年(1874)、36歳で大学東校病院長に就任。
辞任後、政府の脚気病院で洋方医部門を担当したが、明治15年(1882)に42歳で神田駿河台に杏雲堂医院設立。
東京府医師会本部幹事、西南戦争に軍医として参加。
明治29年(1896)、57歳で引退し佐々木政吉杏雲堂医院長に就任。
大正7年(1918)、80歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台2-2 (御茶ノ水杏雲ビル) 

 佐々木隆興(1878~1966)
明治11年(1878)、東京本所生まれ。養祖父は杏雲堂病院創立者である佐々木東洋、養父は2代目院長の佐々木政吉。
東京帝国大学医学部卒。ドイツに5年間留学し、化学、生理化学、細菌学、血清学などを学ぶ。
帰国後、京都帝国大学医学部内科教授を努め、大正5年(1916)、杏雲堂医院院長に就任。
昭和14年(1939)、私財を投じて佐々木研究所を創設し、理事長兼所長に就く。
癌研究会癌研究所長、結核予防会結核研究所長、帝国学士院会員、日本内科学会会頭、国際癌会議(東京)名誉会長などを歴任。
大正13年(1924)、『蛋白質およびこれを構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に関する研究』により帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和11年(1936)、『アゾ色素の経口投与によるラット肝癌の発生』により吉田富三と共に2度めの帝国学士院恩賜賞を受賞。
昭和15年(1940)、文化勲章受賞。
昭和26年(1951)、文化功労者に選ばれる。
昭和41年(1966)、88歳で没。



所在地 千代田区神田駿河台2-3-1先

〔碑文〕
  お茶の水
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし
          「再校江戸砂子」より

慶長の昔 この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた
  お茶の水保勝会 坂内熊治
  高林寺       田中良彰
昭和三十二年九月九日


所在地 千代田区神田駿河台2-11先

 江戸時代この辺りには、江戸の上水の一つである神田上水が通り、また神田川を越えるための懸樋が設けられていました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれます。徳川家康は、江戸への入府に先立って家臣の大久保藤五郎に上水の開鑿を命じ、大久保藤五郎は慶長年間(1596~1615)に神田上水の整備に着手します。井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて現在の文京区関口あたりで堰を設けて上水を分水し、余水は神田川として流しました。
 上水は、小日向台から小石川後楽園を通り、神田川に達します。神田川を越えるため、水道橋の少し下流から、この辺りへ懸樋で渡したといいます。
 上水は、この先は埋樋で供給されました。供給範囲は、南は京橋川、東は永代橋より大川(隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋外までといわれます。この一帯は埋め立てられた場所が多く、井戸を掘っても良い水が得られなかったようです。
 懸樋は、万治年間(1658~1661)に架け替えられたため、俗に万年樋と呼ばれました。
 昭和51年(1976)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区神田駿河台2

 この坂を皀角坂(さいかちざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河臺鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。
 平成18年(2006)3月 千代田区教育委員会



所在地 千代田区神田駿河台3-11 (三井住友海上駿河台ビル) 

  中央大学駿河台校舎跡之碑
中央大学の創立者は増島六一郎ら新進の法曹を中心とした18人の思想家達であった。これら先覚は穏健な民主主義を基盤に実務と実証を重んじるイギリス法の理解と普及こそがわが国の近代化に不可欠であるとして明治18年(1885)9月10日東京市神田区神田錦町の地に英吉利法律学校を開校した。その後校名は東京法学院 東京法学院大学と改められ明治38年(1905)8月中央大学と改称し今日に至っている。この校名の由来は学術の中枢たるべきを期したものであり同時に所在地の神田が東京の中央 日本の中央であるとの意を含むものであった。その後大正12年(1923)の関東大震災により錦町校舎が消失したのを契機として大正15年(1926)8月31日ここ神田区駿河台南甲賀町に移った。爾来54年間の長きに亘ってこの地において着実な発展を遂げてきた本学は昭和55年(1980)3月八王子市東中野の校地に研究教育の近代的な殿堂を整えて移転を完了しあらたな飛躍に向けての努力を続けている。中央大学創立100周年にあたりこの地に繰り広げられた本学の歴史を偲び記念の碑を建てる。
  昭和60年(1985)7月8日 中央大学


所在地 千代田区神田駿河台4-8

 太田姫神社元宮



 太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された昭和6年(1931)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり開通時天皇家との間に堀幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鉄道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性