東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 東京都指定有形文化財(建造物) 旧日比谷公園事務所(東京都公園資料館)は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910)11月に竣工した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。 PR 所在地 千代田区日比谷公園1-3 (日比谷公園) 東京都選定歴史的建造物 設計者 佐藤功一 大正9年(1920)に東京市長に就任後、東京市政のための中世独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正11年(1922)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。
所在地 千代田区内神田3-10-1 佐竹稲荷神社 所在地 千代田区鍛冶町1-10-4 所在地 千代田区永田町1-7-1 関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康によって出羽米沢30万石に移封されました。慶長8年(1603)、桜田門外の当地(現法務省の一部)に建てられた上杉家の江戸屋敷は『桜田屋敷』と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。
下の絵図は江戸時代初期に制作された『江戸図屏風』に描かれた藩邸周辺の様子です。 2003年5月16日 米沢市 所在地 千代田区九段北・千代田区九段南・千代田区北の丸公園 所在地 千代田区九段北1丁目 江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時17軒程の部落でした。 江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。 ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。 所在地 千代田区飯田橋 明治22年(1889)、新宿~八王子間に甲武鉄道が開業し、明治28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。明治37年(1904)我が国で始めて飯田町~中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。 明治39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川橋側にありました。 所在地 千代田区飯田橋3丁目 明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。 明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって国学院が開校しました。現在の国学院大学です。 大正12年(1923)、渋谷に移りました。 所在地 千代田区飯田橋2丁目 江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武艦にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。 その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。 所在地 千代田区飯田橋3丁目 明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にあった皇典講究所内で開校しました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ヶ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。 |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|