東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区麹町6-4-2 常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇頃三河国に開かれた寺院で当時の寺号は「秦宝寺」とされていたといわれています。その後、慶長2年(1597)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。 この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(三尺五寸九分)、ヒノキ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね12世紀最末から13世紀第14世紀頃までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その時期の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頭に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当初の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期彫刻の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは、貴重な事例です。 心法寺には、「紙本着色 仏涅槃図」も伝わっています。本件は、娑羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、肉身は黒、衣服の線は朱筆で入れられています。画面は、縦182.7cm、横158.4cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物は釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、『武江年表』元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)大竜寺に、呉道子の筆南海補蛇山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(1716~1741)頃に作製された作品であると思われます。 PR |
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