東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区麹町6丁目~新宿区 (橋下 JR中央線) 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991)に架け替えたものである。
PR 所在地 千代田区麹町6-4-2 常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇頃三河国に開かれた寺院で当時の寺号は「秦宝寺」とされていたといわれています。その後、慶長2年(1597)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。 この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(三尺五寸九分)、ヒノキ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね12世紀最末から13世紀第14世紀頃までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その時期の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頭に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当初の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期彫刻の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは、貴重な事例です。 心法寺には、「紙本着色 仏涅槃図」も伝わっています。本件は、娑羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、肉身は黒、衣服の線は朱筆で入れられています。画面は、縦182.7cm、横158.4cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物は釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、『武江年表』元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)大竜寺に、呉道子の筆南海補蛇山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(1716~1741)頃に作製された作品であると思われます。 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) この水盤は、銘文によれば、万延2年(1861)2月に檀家である稲垣氏が親族である清林院と浄池院の菩提を弔うため心法寺に寄進したものです、心法寺の稲垣家墓所には幕末~大正期にかけての墓碑が三基あります。うち一基には、清林院・浄池院の名がみえます。この墓碑は破損が甚だしい状態ですが、右側面には次のような銘文が確認できます。 清 安政七庚申年三月廿九日 永 代 祠 堂 金 貳 拾 五 両 浄 萬延元庚申年八月十七日 寶 明治二十六年七月廿六日 この銘文から、安政7年(1860)3月29日没の「清林院」と、万延元年(1860)8月17日没の「浄池院」、二名の菩提を弔うために、万延2年(1861)2月に、稲垣家が心法寺に寄進したことがわかります。 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) 平成10年(1998)4月指定 この梵鐘は銘文にある通り延宝4年(1676)に鋳造されました。『新撰東京名所図会』によれば、心法寺開山の然翁上人が慶長2年(1597)の起立当時、三河国の秦宝寺から本尊・堂宇などとともに梵鐘を持ち込み、しばらく心法寺で使用したが、この梵鐘が破損した為、5世寂誉上人が改めて鋳造し直すこととし、延宝4年(1676)中、自坊において鋳造した、とされたいます。 増上寺 港区 延宝元年(1673) 三宝寺 練馬区 延宝3年(1675) 寛永寺 台東区 延宝9年(1681) 西迎寺 新宿区 貞享3年(1686) 宝憧院 大田区 延宝9年(1681) 長明寺 台東区 天和2年(1682) 天真寺 港区 貞享4年(1687) 東海寺 品川区 元禄5年(1692) などが挙げられます。 所在地 千代田区麹町4-1-1 (麹町ダイヤモンドビル横) 創建は元文年間(1736~1741)、遠藤三右衛門氏の建立に係ると伝えられる。旧称は、遠藤稲荷又は垣見稲荷、古くから遠藤家が、また明治以降は垣見家でお守りしてきたところからこの名がある。 明治22年(1889)、麹町銀行(後に三菱銀行)設立のため、垣見家よりお社を含む敷地が提供され、爾来銀行でお守りすることとなった。大正12年(1923)、震災後再建の際、町内安全、商売繁昌を祈って豊栄稲荷大明神と改称。昭和20年(1945)5月、戦災により焼失。昭和24年(1949)2月、有志の寄付により再建。昭和44年(1969)7月、三菱銀行店舗新築に伴い新社殿落成。昭和56年(1981)12月、有志の寄付により社殿等改修。平成16年(2004)3月、麹町ダイヤモンドビル新築に伴い新社殿等落成。 平成16年3月吉日 所在地 千代田区麹町1-12 (ふくおか会館) 海獄楼跡かいごくろうあと 幕末の鴻儒安井息軒こうじゅやすいそっけんは、慶応元年(1865)ここに居を定め、西に富嶽を望み、東に金杉の海の見える所から、海獄楼と称した。 明治元年(1868)2月類焼した。 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園) 昭和45年(1970)10月吉日 麹町高等小学校 同窓会建立 佐口安治 筆 < 校 歌 >昭和六十二年参月 増田先生 他 同窓会之建 ここは日本の東京市 帝国一の大都会 我君まします皇城の み垣をめぐる麹町 区名をいただく小学校 我らはここに学ぶなり 麹町高等小学校 校舎全景 所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園) 新聞紙は現代人の生活必須の容器である。我国の新聞事業が日本の進運福祉に貢献したるもの極めて多大である。仍て我国の新聞事業先覚者20名を顕彰し、茲に自由の群像を建立す。其の銓衡は現在業界の代表的人士の衆議に諮り公正審重である。 是れ株式会社電通が創立55周年に際会し。斯界に盡さんとする微意の一である。 西暦1955年(昭和30年11月3日) 蘇峰徳富猪一郎 撰 緒方竹虎 書 柳河春三 中外新聞社社長 1832~1870 成嶋柳北 朝野新聞社社長 1837~1884 子安峻 讀賣新聞社社長 1836~1898 福沢諭吉 時事新報社創立者 1835~1901 岸田吟香 横浜新報もしほ草社主・東京日日新聞社主筆 1833~1905 福地源一郎 東京日日新聞社社長 1841~1906 陸實 日本新聞社社長 1857~1907 征矢野半彌 福岡日日新聞社社長 1857~1912 上野理一 朝日新聞社社長 1848~1919 黒岩周六 萬朝報社社長 1862~1920 島田三郎 東京毎日新聞社社長 1852~1923 阿部宇之八 北海タイムス社理事 1861~1924 一力健治郎 河北新報社社長 1863~1929 三木善八 報知新聞社社主 1856~1931 矢野文雄 報知新聞社社長・大阪毎日新聞社副社長 1850~1931 本山彦一 大阪毎日新聞社社長 1853~1932 村山龍平 朝日新聞社社長 1850~1933 岩永裕吉 同盟通信社社長 1883~1939 大島宇吉 新愛知新聞社社長 1852~1940 光永星郎 日本電報通信社社長 1866~1945 1955年 新聞人顕彰選考委員会選 奥村信太郎 毎日新聞社社長 1875~1951 進藤信義 神戸新聞社社長 1878~1951 簗田金久次郎 中外商業新報社社長 1875~1954 緒方竹虎 朝日新聞社副社長 1888~1956 馬場恒吾 読売新聞社社長 1875~1956 徳富猪一郎 国民新聞社社長 1863~1957 1960年 新聞人顕彰選考委員会選 藤田茂吉 報知新聞社主幹 1852~1892 箕浦勝人 報知新聞社社長 1854~1929 安藤和風 秋田魁新報社社長 1866~1936 菊竹淳 西日本新聞社副社長兼主筆 1880~1936 下村宏 朝日新聞社副社長 1875~1957 伊達源一郎 島根新聞社社長 1874~1961 板倉卓造 時事新報社社長 1879~1936 野村秀雄 朝日新聞社代表取締役・熊本日日新聞社社長 1888~1964 阿部真之助 毎日新聞社取締役主筆 1884~1964 1966年 新聞人顕彰選考委員会選 古野伊之助 同盟通信社社長 1891~1966 城戸元亮 大阪毎日新聞社会長 1881~1966 阿部暢太郎 西日本新聞社社長 1884~1966 高石真五郎 毎日新聞社社長 1878~1967 与良ヱ 中部日本新聞社社長・東京新聞社社長 1908~1968 正力松太郎 読売新聞社社主 1885~1969 上野精一 朝日新聞社社主 1882~1970 一力次郎 河北新報社社主 1893~1970 1971年 新聞人顕彰選考委員会選 小汀利得 日本経済新聞社社長 1889~1972 田中寛次 神戸新聞社社長 1900~1972 美土路昌一 朝日新聞社社長 1886~1973 松方三郎 社団法人共同通信社専務理事 1899~1973 萬直次 日本経済新聞社社長 1902~1973 御手洗辰雄 東京新聞社論説委員長 1895~1975 1976年 新聞人顕彰選考委員会選 村山長挙 朝日新聞社社主・社長 1894~1977 人見誠治 秋田魁新報社会長 1898~1978 長谷川才次 時事通信社代表取締役 1903~1978 伊豆富人 熊本日日新聞社社長 1888~1978 岡村二一 東京タイムズ社社長 1901~1978 高橋雄豺 読売新聞社副社長 1889~1979 高田元三郎 毎日新聞社代表取締役 1894~1979 本田親男 毎日新聞社社長 1899~1970 上田常隆 毎日新聞社社長 1900~1980 1981年 新聞人顕彰選考委員会選 石井光次郎 社団法人全日本広告連盟会長・朝日新聞社代表取締役専務 1889~1981 大軒順三 日本経済新聞社社長 1911~1982 栗山利男 読売新聞大阪本社社長 1909~1982 畠中季隆 南日本新聞社社長 1903~1982 原為雄 毎日新聞社代表取締役専務 1900~1983 宮下與吉 北国新聞社社長 1896~1984 三浦秀文 中日新聞社社長 1907~1985 大島一郎 中日新聞社社主 1903~1985 田中香苗 毎日新聞社社長 1904~1985 1986年 新聞人顕彰選考委員会選 前田久吉 産業経済新聞社社長 1893~1986 平岡敏男 毎日新聞社社長 1909~1986 福島慎太郎 社団法人共同通信社社長・ジャパンタイムズ社長 1907~1987 山内大介 毎日新聞社社長 1925~1987 松本重治 同盟通信社常務理事・国際文化会館理事等 1899~1989 原四郎 読売新聞社副社長・日本記者クラブ理事長 1908~1989 千葉雄次郎 朝日新聞社顧問・東京大学新聞研究所所長 1898~1990 1991年 新聞人顕彰選考委員会選 白石古京 京都新聞社社主・社長 1898~1991 務臺光雄 読売新聞社社長 1896~1991 石原俊輝 信濃毎日新聞社社長 1913~1993 渡辺喜久雄 北海道新聞社社長 1921~1993 円城寺次郎 日本経済新聞社社長 1907~1994 加藤巳一郎 中日新聞社社長 1917~1995 1996年 新聞人顕彰選考委員会選 稲葉秀三 産業経済新聞社社長 1907~1996 大石益光 静岡新聞社社長 1926~1997 山本朗 中国新聞社会長 1919~1998 森田康 日本経済新聞社社長 1924~1998 松下宗之 朝日新聞社社長 1933~1999 西村二郎 新潟日報社会長 1903~1999 小林與三次 読売新聞社名誉会長 1913~1999 2001年 新聞人顕彰選考委員会選 福田利光 西日本新聞社会長 1912~2001 広岡知男 朝日新聞社会長 1907~2002 坂上守男 京都新聞社社長 1925~2004 新井明 日本経済新聞社社長 1925~2004 渡邉孟次 社団法人共同通信社社長 1913~2005 2006年 新聞人顕彰選考委員会選 建設者 株式会社電通 社長 吉田秀雄 制作者 菊池一雄 設計者 谷口吉郎 鋳造者 伊藤忠雄 所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園) 対墨日本人移住百周年記念 メキシコ国民より日本国民へ贈呈 1897 - 1997 作者:セバスティアン 作品名:「移住」 製作年:1997年 材質:スチールプレート 寸法:420×420×240cm 重量:1,000kg 所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園) 第一東京市立中学校発祥之地 大正13年(1924)4月 成田千里校長のもと開校す 第一精神と智・徳・体 三位一体の新教育を行い 昭和3年(1928)1月 九段上の新校舎に移る 東京都立九段高等学校の原点なり 昭和63年(1988)5月5日 菊友会 所在地 千代田区麹町3 この坂を善国寺坂といいます。『新撰東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政10年(1798)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下のあたりは善国寺谷、また、鈴降(振)谷と呼ばれたといいます。 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会 所在地 千代田区麹町1-5-4 御祭神 倉魂稲命(うかのみたまのみこと) 麹町 太田姫稲荷神社 縁起 当神社は、駿河台太田姫稲荷神社の分社と思われますが両社の伝説も共通のものがありますので左記に記します。 伝説によれば、室町時代太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病み、薬石効なく一日一日と悪化の道をたどりつつあったとき、友人に「山城国一口の里にある稲荷神社に祈願しなさい。どんな重い天然痘でも忽ち平癒するから」と言われ、太田道灌は早速稲荷神社に参詣祈願、帰国すると姫の病は忽ち平癒した。江戸築城のとき太田道灌は崇敬、感謝の念で一口稲荷を伏見より勧請、江戸城内にお祀りした。時は長禄元年(1457年)のころであったと言われます。 後、徳川家康・江戸入府、慶長11年(1606年)江戸城改築の際、城内にあった神社、仏閣を城外に移したが、太田姫稲荷神社も駿河台の淡路坂(一口坂=いもあらいざか)上に遷座され、その御変遷を経て現在の地に鎮座しております。 一口坂は、「いもあらい坂」と言われており、九段の一口坂、神田一口坂、昌平橋(いもあらいばし)などがあります。いもあらい(一口)の意味は、当時天然痘を「いもがさ又はへも」とも呼ばれたので「天然痘を洗い流して直す」からきたものと解釈されています。 現代は、病気平癒、商売繁盛の神として崇敬されております。 平成6年(1994年)5月20日 祭祠再開20年を記念して建之 麹町 太田姫稲荷神社 所在地 千代田区麹町 紀尾井町 この坂を清水谷坂といいます。元禄4年(1691)の地図をみると、麹町通りから直接下る坂のようにみえますが、それ以後の地図は現地形とほぼ合っているようです。別の名シダニ坂とも シタン坂ともいわれるようですが、いずれも『清水谷』が変化したものとされています。坂下を南北に走る道筋が清水谷で、そこで喰違見附へと登る紀尾井坂につながっています。 平成13年(2001)3月建替 千代田区教育委員会 所在地 千代田区麹町6-4-2 (心法寺) 千代田区指定史跡 下野皆川藩松平家墓所 平成19年(2007)4月1日指定 この墓所は、皆川藩主松平(能見)家三代の墓所です。皆川藩松平家は、初代重則が大名に取り立てられ、当初は上総国百首(千葉県富津市)の地に拠点を置きました。のち下野国都賀郡皆川に居を移し、1万500石を領しました。しかし、三代重利が寛文5年(1665)に幼くして没したため断絶になりました。 江戸時代初期の麹町・神田には寺院が多数所在しましたが、後期には四谷御門内の甲州道中沿いに、心法寺・常仙寺・栖岸院の三寺院が残るだけでした。関東大震災を期に、常仙寺・栖岸院が区外へ移転しましたので、区内で江戸時代初期に開かれ、かつ墓域を有する寺院は心法寺が唯一の存在です。「寛政重修諸家譜」によれば、心法寺には11家15系統の武家の墓所があるとされていますが、「下野皆川藩松平家墓所」は、その中で唯一の大名家墓所であること、寛永年間から寛文年間という江戸時代初期の墓標が残っていること、当初の姿は失われてしまっているものの「江戸名所図会」の挿絵にも描かれるなど江戸時代後期の姿をのしているという点で、貴重な存在です。 平成21年(2008)3月 千代田区教育委員会 |
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永山
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