東京都千代田区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 千代田区丸の内2-1-1 国指定重要文化財 PR
所在地 千代田区丸の内 鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。門には鉄砲十挺、弓五張、長柄十筋、持筒二挺、持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。 明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。 平成15年(2003)3月 千代田区教育委員会 現在、東京・神田駅間の外濠(日本橋川)に架かる鉄骨鉄筋コンクリート造鉄道アーチ橋は大正8年(1919)に日本で最初に架設された長大スパンのコンクリート橋である。
表面は石張りで化粧され、アーチの中央には鉄道のシンボル「動輪」が刻まれ、その端部には高さ約十メートルの石造の橋塔が威容を誇っていた。
外国からの輸入技術を脱皮しようやく日本人の技術が開花した代表的な橋梁である。 この橋塔は中央線の重層化工事に支障したため撤去し、この地に移設したものである。 平成9年(1997)12月8日 所在地 千代田区丸の内3-8(東京国際フォーラム) 都指定文化財(旧跡) 東京府庁舎跡 昭和30年(1955)3月28日指定 東京府は、明治元年(1868)南北市政裁判所(旧、江戸幕府の南北両町奉行所)の機能を継承して設置された。管轄区域は、旧朱引内の町奉行支配地であった。当初、東京府庁舎は幸橋門内の旧大和郡山藩柳沢家上屋敷に置かれたが、明治27年(1894)当地に移転した。当地の府庁舎建設にあたっては、寛政改革で時の老中松平定信が定めて以来蓄えられてきた七分積金が建設費用にあてられた。 所在地 千代田区丸の内1-4-6 国指定文化財(建造物) 日本工業倶楽部会館 平成11年(1999)8月23日指定 竣工 大正9年(1920) 設計 横河工務所(松井貴太郎が担当といわれる) 構造・規模 鉄骨造、鉄筋コンクリート造 及び鉄骨鉄筋コンクリート造 地下4階 地上5階建(6階以上部分を除く) アメリカ式オフィスビルの形態にユーゲント・シュテイルの意匠を加味した大正建築である。正面中央パラペット上部には、石炭と紡績(当時の日本の二大産業)を表す人像彫刻があります。 |
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永山
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